1257年 (康元2年、3月14日 改元 正嘉元年 丁巳)
 
 

4月7日 壬辰 晴
  下野の前司泰綱御所に於いて御鞠会を申し行うべきの由これを申す。
 

4月9日 甲午 晴
  申の刻御所の御鞠なり。露払い已後、将軍家(御布衣)立たしめ御う。下野の前司泰
  綱燻鞠を鶏冠木の枝に付けこれを進す。行忠入道これに付く。但し内々これを触れら
  る。内蔵権の頭親家これを置く。源中納言(布衣)・難波刑部卿(布衣、上鞠一足)
  ・中務権大輔教時(同)・遠江の七郎時基(同)・内蔵権の頭親家(同)・出羽の前司
  行義(同)・下野の前司泰綱、この外、二條三位(布衣、初参)・遠江の太郎清時(水
  干・葛袴)・鎌田次郎兵衛の尉行俊(布衣)・行忠入道(衣袴・重香の帷、指扇)、数
  三百中に落つ。薩摩七郎左衛門の尉祐能計え申す。仁和寺三位・能清朝臣・範忠朝臣
  ・範方等見證に候す。抑も今日二條三品燻白地の韈を着す。而るに宗教朝臣難じ申し
  て云く、この色に於いては日来これを用いず。承元の式の如きは、有文燻革を着すな
  り。頗る甘心せずと。
 

4月14日 己亥 晴
  大慈寺殿の破壊、この間修理を加えらる。仍って奉行籐肥前の前司・肥前松葉の次郎
  助宗法師(法名行圓)等彼の寺に参会し、供養日時の沙汰有り。六月十四日たるべし。
  但し御聴聞の為御出有らば、御方違え有るべきの由、陰陽師等これを勘じ申す。
 

4月15日 庚子
  相州禅室日来の宿願を果たさんが為、新写の紺紙金字大般若経一部を以て皇太神宮に
  送り奉らると。願文の清書は、禅室風痾を扶け終功せしめ給う。縡他に異なるに依っ
  てなり。祭主隆通卿に付けらると。
     敬白
    紺紙金字大般若経一部六百巻を書写し奉る
   夫れ五十鈴の河上に当たり宗祠の奇勝・代称のギ宮有り。八万宝蔵の中に於いて教
   門の卓レキ・仏名の波若有り。吾朝百王の元祖なり。欽戴隆周の清廟より甚だし。
   三世諸仏の智母なり。恢弘吾虞の貞観より起こる。これ以て粛敬し、これ以て称嘆
   す。これに於いて弟子往年痾黒に冒され、爾時願念を偸発し、忽ち除愈を得て遂に
   安全を得るてえり。早く即有即空甚深の妙理を写し、一陰一陽不測の霊威を賁り奉
   らん。宿霧歳を渉り、余気の快霽に非ずと雖も、底露空しからず、一念の潜通と謂
   うべし。これ以て華夏静謐の明時・枝幹相応の佳景、虔んで誠素に任せ、敬い啓白
   を致す。六色第五の禁を惶るべし。詞部に付け以て道儀を整う。諸経第一の説を忌
   まず。神呪に驚き以て勝利を期す。弟子は、義勇缺けると雖も、治略疎かなりと雖
   も、長鯨を海に剪るは、寤寐念ずる所は波瀾の永く罷み、仁風を寰に仰ぐ中、造次
   羨む所は枝條の鳴らざる、年来報国の忠を存じ、今すでに遁世の志を遂ぐ。清浄身
   に在り。機務を桑門の後に厭うと雖も、縹渺眼に寄せ、ただ信心を柏城の辺に馳す。
   彼の杭州刺史の宿痾を纏うなり。偏に善因を無量壽の楽邦・零陵太守の慕前に誓う
   事なり。遙かに明信を有虞氏の尊廟に凝らす。愚魯の致す所すでに旧聞に越えたり。
   況や妙典の寶偈たるなり。毎字皆麗水の波色・眞諦の飾金を営む書なり。遺文五源
   の風吟に出て、その金字六百軸。六百軸壮麗有るの余り、これ緇襟三千人。三千人
   歌唄の声を合わせ、縡これ鄭重、福いたずらに捐てず。仰ぎ願う二所大神、般若華
   を受け、以て法楽を増す。伏して乞う三品大王、仍って耆薬を募り、以て仙齢を保
   つ。凡そ厥の国家を擁護するは神の明徳なり。我が願は廼ちこれに在り。民黎を富
   饒するは、経の恵力なり。我が願またこれに在り。神と云い経と云い、盍ぞ素念を
   納受せざらん。適も無く莫も無く、必ず宿望を円満す。然かれば則ち百年恙無し。
   年々常に有年の年に遇い、庶事成ること有り、事々ただ無事の事を聞き、都鄙快樂
   ・子孫繁昌す。乃ち功徳の余りに至り、幽顕普く利し。敬白。
     正嘉元年四月十五日      弟子沙彌道崇敬白
 

4月16日 辛丑 陰
  月蝕正見せず。御祈り。