1258年 (正嘉2年 戊午)
 
 

5月1日 庚戌 [百錬抄]
  日吉神輿三基本社に御帰座。戒壇の事宣下せらるべからざるの由、再三仰せ下さるる
  の間これを入れ奉る。
 

5月2日 辛亥 晴
  評定所に於いて陰陽道の輩を召さる。勝長寿院の供養日御出を御沙汰有るべし。去年
  大慈寺供養の時の如く、御方違え有るべきや否やこれを尋ね仰せらる。以平は有るべ
  からずの由を申す。晴茂・為親・国継・晴憲・晴宗は御方違え有るべきの旨を申す。
  廣資・泰房申して云く、去年は太白方と大将軍方と計会す。今度は大将軍方ばかりな
  り。この方は供養の例有り。御気色有るべしと。また将軍家御上洛有るべきに依って、
  六波羅に於いて御所を新造せらるべきの由その沙汰有り。勘文を召さる。晴茂・為親
  ・晴憲連署せしめ、これを勘じ申す。
 

5月5日 甲寅 甚雨
  御方違えの事沙汰を経らる。陰陽道兼日方角を取り勘じ申すの間、来二十九日尾張の
  前司の名越山荘(新善光寺の辺)に入御有るべきの由これを定めらる。則ちその旨を
  前の尾州に触れ仰せらると。また勝長寿院供養の儀は、曼陀羅供たるべし。大阿闍梨
  の事は、已前の両寺供養の例に任せ、以て採ってこれを定めらる。安祥禅寺僧正良瑜
  ・若宮別当僧正隆弁・日光法印尊家・松殿法印良基・左大臣法印厳恵、この五人の交
  名を出され、五合の函に納め、右大将家法華堂の別当尊範僧都に遣わさる。七箇日の
  護摩を修すの後一合を進せらるべきの由仰せ含めらる。而るをこれを進せらるる所良
  基法印なり。仍って御使を遣わし、曼陀羅供の御導師たるべきの由これを仰せらる。
 

5月6日 乙卯
  去る一日日吉神輿本社に帰座するの由申すと。
 

5月8日 丁巳 霽
  尾張の前司の山荘、檜皮葺屋已下数宇を新造せらる。五月営作の例無しと雖も、将軍
  家入御有るべきに依ってその功を終うと。今日遠江の七郎時基頓病す。すでに他界の
  由風聞するの間、名越の辺物騒す。但し少時復本すと。
 

5月9日 戊午 晴
  将軍家御上洛有るべきに依って、先規に任せ、六波羅に御所を建てらるべきの由治定
  す。諸国の地頭・御家人等に宛てらる。今日これを施行せらる。
 

5月10日 己未
  鎌倉中並びに国々雑人沙汰の事法を定めらる。これ主人並びに在所地頭に仰せ付くべ
  き事なり。その事の書き様、
  一、鎌倉中並びに国々雑人沙汰の事
   奉行人の奉書三箇度叙用せざれば、御教書を成さるべし。また彼の状三箇度に及ぶ
   と雖も、事行わざれば、引付に於いて子細を尋ね明かし、事実ならば、所領を注し
   申すべきの由御教書を成さるべし。次いで難治の事、同じく引付に於いてその沙汰
   有るべし。
 

5月14日 癸亥 天晴
  去る十日の事書、その旨を守らしめんが為、相州の御方より問注所・政所に送り遣わ
  さると。寂阿これを奉行す。また鶴岡の宝蔵贈畢するの間、今日神宝を奉納せらると。
 

5月28日 丁丑 晴
  勝長寿院五仏堂の本尊等新造の堂中に渡し奉る。則ち行法を始むと。
 

5月29日 戊寅 霽
  将軍家尾張の前司の山荘に御方違え。刑部少輔教時・越後の守實時・民部大輔時隆以
  下数輩供奉す。