1263年 (弘長3年 癸亥)
 
 

5月1日 庚辰 天霽
  将軍家二所より還御す。而るに今日鎌倉御所、浜部の駅より太白方に当たる。御憚り
  有るべきかの由その沙汰有りと雖も、猶還御すと。
 

5月9日 戊子 天晴
  掃部の助範元京都より帰参す。密奏の望みを達すと。祖父大監物宣賢朝臣年来事に於
  いて出望せざると雖も、八十四歳の今、孫子当道の堪能を見て、家業を継がしめんが
  為頻りに以て内挙すと。当時人数繁多、その闕無しと雖も、宗明朝臣の流れ無人の條
  不便の由、殊にその沙汰有り、宣下せらると。蔵人左衛門権の佐経業奉行たりと。
 

5月17日 丙申 天霽
  鷺左典厩の御亭の坂に集まる。頃之永福寺山を指し飛び去る。卜筮せらるるの処、文
  元・晴茂・晴宗・泰房・頼房等、口舌の兆たるの由占い申す。爰に武田の七郎次郎彼
  の鷺を追い、これを射殺し持参す。夜に入り鷺の怪に依って泰山府君・百怪・白鷺等
  の祭を行わると。
 

5月19日 戊戌 天晴
  寅の刻地震。
 

5月29日 戊申
  来月一日より御祈りの大阿闍梨松殿法印休所の事、今度は前の尾州亭たるべきの処、
  先日失火するの間、肥前四郎左衛門の尉の宅を点ぜらると。