22 忍びの緒(切り候え)

 咲きぬとて花をや風の誘うらん、嬉しき春も夢の間に散りて墓なき小桜姫、今更に父を
諫めん様もなく、独り我が部屋に立戻り、御袖を顔に当て給いて唯さめざめと泣き給う、
如何なれば我身に辛き浮世かな、尉が島明神に祈誓を掛けて心願届きし此縁組の、今更破
れんとは情けなし、思えば恨めしき道寸が心なり、我子の吉事を妨げて、斯くまで人に仇
なすとは、そも何と云える因果ぞや、明日に迫りし輿入の嬉しき門出に引かえて、忽ち変
る修羅の合戦、良人を敵と出陣の何で用意がせらるべき、実にや思う事叶わねばこそ浮世
なれ、斯る浮世に永らえんより、明日の出陣に味方の先陣を申受け、世に花々しき合戦し
て潔く討死を遂ぐべきなり、荒次郎殿心あらば、死したる跡の悲み給いて、せめては一片
御回向あらん、是ぞ我身が最後の願い、イデイデ用意を急がんと気を取直して立上り給う、
折から入来る腰元八重絹、姫君の御前に泣き倒れ「姫君、世に情けなき事になりて候、何
とて父君を御諫めあって此合戦を留め給わずや、此度愈々御手切れとならば、何時御縁組
の調うべき、明日の合戦こそ姫君の御大事にて候」と悲みながら申しける、姫は頭を振り
給い「イヤ再三の遺恨なれば最早妾が力に及び難し、兎も角も合戦の御供して事の様を看
るべきなれば、用意の物の具取揃え候え」、八重絹泣く泣く顔を揚げ「扨は愈々御出陣召
され候か、是なる新しき御物の具は御輿入の晴に候えば、古き御物の具を持参致すべし」、
姫「イヤイヤ古き物の具に用は無し、晴に造りし此甲冑を着、父君が譲り給いし黄金造の
太刀を佩き、十三貫目の大薙刀を携えて晴の出陣致すべし、妾が物の具取り付ける間、是
なる兜に名香を焚き込み候え」と新に造りし烏帽子形の兜を執って、八重絹に渡さんとな
し給う、八重絹姫の御気色を窺い「兜に名香を焚き込み、晴の物の具を着けて御出陣召さ
るヽとは、扨は明日の合戦に討死し給う御覚悟に候や」、姫君御袖を眼に当て給い「討死
せいで何とせん、生きて望みは無き身なり、今生の思い出に明日を最後と花々しき合戦し
て、運好くば荒次郎殿の手に掛り討死なさば身の本懐、八重絹其方は長らえて、我が亡き
跡を弔い呉れよ」、八重絹「こは思いも寄らぬ仰せなり、死なば諸共、妾も最期の御供致
さん」、姫「其志は嬉しけれども、其方が跡に残らずば、誰か後に荒次郎殿に逢うて我が
心中を伝うるものあらん、懐うに今宵曲者は道寸一人の計らいにて、必ず荒次郎殿は知り
給うまじ、謂れを知らぬ不意の合戦に、妾が早くも討死なさば、荒次郎殿はさぞ本意無く
思し召されん、其方は跡にて荒次郎殿に能く我が心を伝え呉れよ、死するは無益、長らえ
て妾の頼みを尽すこそ是が誠の忠義なり」と種々と説き宥め給う、八重絹は悲しさ余りて
返すべき言葉の出でず、其内姫君は鎧を着け給う、八重絹泣く泣く香を御兜に焚き込みけ
れば、姫君執って頭に戴き、忍びの緒を堅く結び「如何に八重絹、近寄って忍びの緒の先
を切り候え」、八重絹ハッと立上り、倩々姫の御姿を眺めて急に御側へ近寄らず「ても美
しき武者振かな、斯る姿を以て荒次郎殿と立並び給いなば、世に美事なる御夫婦の出来べ
きに、明日を最期の御討死とは何事ぞや、一たび切れば再び結べぬ忍びの緒、御縁の占手
にならんも憂し、せめて忍びの緒は其侭になし給え」と、尚も心は残るめり、姫君は御覚
悟返し難し「昔より武士が討死を覚悟致すときは、忍の緒を切ると承る、兎ても角ても生
き難き妾なり、疾く疾く是を切り候え」と招き給えば、詮方なく八重絹側に近よって縁を
結ぶの忍びの緒、泣く泣く切って捨てにけり、
 折から告ぐる五更の太鼓、城の櫓にて鼕々と打ち鳴せば「ハヤ御出陣にて候」と使番の
武士城中を馳せ廻る、小桜姫美々しく粧い、父種久の前に出で「今日の合戦妾が先陣を仕
らん」と申しければ、種久大に悦び「殊勝なり小桜姫、汝先陣を致して三浦勢を微塵に打
破れ、合戦の手始に先ず長柄の城を攻め落すべし」と奮兵すぐって一千騎、春の霞を踏み
分けて金沢の城を打立ちける、