30 忠義の衣(身に纏い)

 小桜姫は振返り「ヤア其方は八重絹、如何にして此へは来りしぞ」、八重絹苦しき息の
下より「昨日の合戦に姫君生捕られ給いしと承り、勝手知ったる当城に忍び込み、姫君を
救い奉らんと牢屋の外に彳みしに、菊名左衛門殿に見咎められ」、重氏「扨某が引捕えて
候えば、姫君を救わん忠義の志、まこと姫君を救いたくば御身代りに立って相果てよと某
諭し候に、それこそ望む所なりと心を決せし八重絹が、忠死を空しくなし給わで、姫君を
某に預け給え、某八重絹の首を撃ち、面体の分らぬ様に拵えて獄門に掛け候わば、大殿も
心を安じ給わん、世に珍しき大勇の姫君を此にて空しくなし給わんこと、口惜しく候」と
涙を流して申しける、口惜しきは荒次郎も同じ心なり「それ程に思うならば、何事も汝に
任せん」と仰せある、小桜姫は八重絹を抱き起し「其方を殺して妾が何とて生きらるべき、
そも此合戦に出でしより討死は覚悟の身の上なり、仮令命のあればとて切れたる縁の繋が
るべき望は無し、忍びの緒まで断ち切って出陣したる甲斐も無く、此侭命助からんこと我
身ながら恥し、荒次郎殿早く我首撃ってたび給え」と覚悟の体の動かし難きに、八重絹苦
しき声を揚げ「姫君を殺し給わんほどならば、妾が自害も水の泡、一旦御命助かりて、後
の時節を待ち給わば御縁の結ばぬ事は無し、妾をあわれと思し召さば、忠死の志を空しく
せで、早く此を落ち延び給え、何時までも迷い給わらば妾も死ぬに死なれぬ苦み、あら堪
え難や此苦痛、左衛門殿早く介錯なし給え」と細り行く声の下、重氏後ろに廻ると見えけ
るが、首は前にぞ落ちにける、小桜姫我を忘れて其首を拾い取り、御顔に当て給いて唯さ
めざめと泣き入り給う、折から雲の絶間より一声叫ぶ杜鵑、あれも常世の鳥なるか、死に
行く道を案内して冥途の旅のしるべせよ、あわれや八重絹、成等正覚、南無阿弥陀仏と弔
らう姫の御気色も消えなんばかりの有様なり、時刻移ると左衛門重氏立寄って、八重絹の
衣を解き「如何に姫君には其衣を脱ぎかえて八重絹の姿となり給え、八重絹には姫君の装
いをさせ、楽岩寺家の小桜姫として手厚く葬り候べし、姫君が世を忍び給うには八重絹の
姿こそ屈強にて候」と二人の姿を換えしめければ、小桜姫も今は力無く、我身に代る八重
絹の忠義の衣を身に纏い、綾の錦を脱ぎ捨てヽ、首無き死骸に着せ給う、重氏姫の御手を
執り「何時までも御名残は尽きぬべき、ハヤ此方へ御入候え」と森の彼方に誘い行く、姫
は後ろを見返えれば、黙然と立ちたる荒次郎、此方を見送りて声をも立てず言葉も掛けず、
小桜姫も言うべき事はありながら、重氏の手前を憚りて無言の中に別れの挨拶、名残は惜
しき景色かな、
 菊名左衛門重氏は小桜姫を伴い、森の繁みを潜り抜けて彼方の岸に立出ずれば、兼て用
意せし船一艘木闇き陰に控えたり、重氏姫を其舟に乗せ「兎も角も姫君は一旦此を落ち延
びて、何処になりとも世を忍び給え、金沢の城は亡ぶと雖も、御父種久殿は討死なし給わ
ず、されば必ず近国に御隠れあらん、姫君其行方を御尋ねありて、共に時節の来るを待ち
給え、某始め当城の武士一同は今も御聞ある如く、皆荒次郎の君に心を寄するものなれば、
道寸公無き後、荒次郎の君の御世となり候わば、必ず御身を迎え奉りて御夫婦となし参ら
すべし、ゆめゆめ御短慮なし給うな」と懇ろに慰さむれば、姫は厚く礼を述べ、此志何時
の世にか忘るべき、と重氏に別れを告げ、寄辺も知らぬ波の上に漂いてこそ出で給う、