33 親心(痛わしや)

 爰に小田原の北条早雲は反間の計略図に当り、三浦・楽岩寺両家の和睦を破って関東の
勇将楽岩寺種久を遂に我が方へ誘い寄せたれば、心中竊に悦んで、厚く種久を持遇しける、
種久もまだ見ぬ内こそ早雲を浪人者よと侮りしが、親しく其音容に接して見れば、流石徒
手を以て小田原を奪い、数年の間に関東半国を伐従えし程の名将なれば、自ら人を心服せ
しむる威望あり、他日東八カ国を平げて関東に覇たらんものは此人の外あるべからずと、
心は忽ち早雲に服したれば、此度の厚き持遇を謝し、其力を借りて三浦家に怨を報ぜんと
頼みたり、早雲快く承い「三浦家は大族にして容易に滅すべき敵にあらざれども、外なら
ぬ御頼みなり、時節を待ちて必ず征伐致すべし、それにしても口惜しきは御身の御息女小
桜姫なり、姫が無双の勇力は当国までも聞えて候に、敵の手に捕われとなり給い、御身と
共に当城へ御入りあらぬこそ如何にも惜き次第に候」と姫の噂をなしかくるも、愈々種久
の心を憤らしめて、三浦攻めの時に死奮の勇気を出さしめん計略なり、種久は流石親心、
我身の無事なるに付けて一入娘の身の上を打案じ「親の身として我子を褒むるには候わね
ど、小桜の武勇は日頃某が一臂の助けにて候いし、今も我身と共に当城に在るならば、後
の三浦合戦に一方の大将をも承り候べきに、敵の手に捕われてさぞ今頃は憂目に逢い候わ
ん」と我知らず両眼に涙を浮べたり、早雲ハタと心付きし体を為し「オヽ種久殿、某が方
より兼て三浦領へ遣わせし忍びの者今日帰城せしよし、此へ呼び候て三浦家の噂を相尋ね
申すべし、それにて聴聞致されよ」と近習に命じて多目権平夫婦を呼出さしむ、夫婦は兼
て早雲に謀し合せ、種久の前にて小桜姫の最期の体を申述べんと待ちかけたれば、召に応
じて早雲の前に出仕なす、早雲声をかけ「如何に夫婦の者、汝等は新井の城下に在りたれ
ば、三浦家の様子は知りつらん、近頃道寸は如何なる有様なるぞ」、権平顔を揚げ「さん
候、道寸は金沢城を滅ぼして楽岩寺殿の御領地を奪いたれば、最早天下に敵無しと、日頃
の傲慢愈々募りて見え候」、早雲「して種久殿の御息女小桜姫は青野が原の合戦に敵の手
に捕われ給いしが、女人の事故三浦家にても懇ろに慰め参らするか」、権平忽ち差し俯き
てハラハラと涙を流し「イヤイヤ御痛わしきは姫君の御身の上にて候、生捕りとなり給い
しより、新井の城の牢屋に繋がれ種々の憂目に逢い給いしが、道寸父子の情け無くも昨夕
諸磯の浜に於て御首を打ち奉り、今朝獄門に懸げられて候、姫君は世に並び無き大勇にて
坐すに、如何なれば斯る最期を遂げ給いしかと、我等を始め見物の者、皆涙を漏さぬもの
は候わず」と物悲し気に申しければ、種久鬢髪逆立てヽ思わず前に身を進む、其時権平が
妻落つる涙を振り払い「小桜姫は勇力人に勝れ給うのみならず、御顔貌の美しきは近国一
と聞え候に、能く能く獄門の御首を見奉れば、世に無惨なる御最期を遂げ給いしと見えて、
御顔に数十か所の太刀疵あり、皮破れ肉裂けて目も当てられぬ御姿にて候、人の噂に姫君
は勇力を以て自ら縄を切り給い、敵の太刀を奪いて城兵数十人を討ち取り給いしとの事な
れば、三浦勢打寄り姫君をなぶり殺しに撃ち奉りにしや候わん、今思い出しても身の毛も
よ立つばかりにて候」と涙ながらに物語る、種久最早堪え得ず、両眼活と見開き、三浦の
方を打睨め「世に無道なる三浦道寸、人の城地を奪って飽き足らず、我娘にまで斯る最期
を遂げしむるとは何事ぞ、いでいで今に見よ、汝の城に押寄せて汝の身体を八ツ裂にせで
置くべきか」と血眼になって罵りし有様は、世に怖ろしく見えたり、折柄次の間に控え居
たる石橋雷太郎友房、種久の前に進出で「恐れながら姫君の御首を永く獄門に晒さんこと、
我君の御恥辱と覚え候、某是より新井の城下に忍び入り、夜に紛れて姫君の御首を奪い取
り候べし」と言上す、種久大に悦び、早速に其儀を許しければ、雷太郎の場を退きけるが、
早雲再び如何なる計略を思い付きけん、後に雷太郎と権平夫婦を竊に閑室へ招きて密談を
擬しける、