40 名残の舞(只一さし)

 偽りの無き世なりせば世中に物憂き事もあらざるに、聞きし言の葉誠ならで厚木とやら
んを尋ねても、父君の御行方今に索めん便も無し、空しく此に暮さんより、余所に移りて
父君の御隠れ家を尋ねんと、小桜姫の末広売はまだ朝霧の晴やらぬ厚木の町を立出て過ぎ
行く方の道すがら、大膳家忠の門に立留まりぬ「サア末広を召されよ、縁結びの末広を召
し給え、今日を名残の末広舞、扇を召して一曲を御覧候え」と笹の葉を打振り、いと面白
く呼びければ、大膳家忠門に立出で「今日を名残の末広舞とは扨は何処に立去るや」、小
桜姫「行方定めぬ旅なれば何処と当は無けれども、風吹かば風のまにまに花咲かば花のと
りどり、雲水に身を任せて一たび此地を立出で候、折もあらば復こそ参り候わめ、今迄の
御贔屓甲斐に名残の舞を一さし御覧候え」、家忠「そは名残惜しき事どもかな、暫くそれ
にて待候え、我家の客人に末広舞の一曲を御覧に供申さん」と奥に立入り、荒次郎主従の
前に来り「御噂申せし末広売の狂女只今表へ参り候、時の御慰みにて候ほどに、内へ呼入
れ一さし舞を舞わせられ候え」、左衛門重氏打悦び「そは此方にても待ちけるよ、疾く此
処へ呼入れ候え」、荒次郎義意重氏を顧み「筋無き事を申すなよ、我は父の勘気を受けて
世を忍ぶ身なり、深く慎みあるべきに、時の慰みとは憚り多し、御主人其末広売舞は無用
にて候」、重氏「とは仰せられて候えども正しく彼の君、イヤ我君が御武運を祝する末広
舞、舞は御所望の外とあらば、せめて末広一本にても召し給え」、荒次郎「イヤ其末広も
無用なり、生中に逢えば思いの種なるものを、互に忍ぶ身にしあれば逢わぬ昔が増しぞか
し、如に御主人、我等は人に顔を見知られん事の厭わしく候えば、折角の御勧めなれども
此度は見申すまじ、さりながら痛わしき狂女の有様、聞くに付けても哀れなり、御主人の
御情けと仰せありて此品々を狂女に取らせられ候え」と取出す恵みの引出物には深き心や
包むらん、家忠其品を打見やり「是ほど深き御情けありながら、末広を召されず舞も御覧
じ給わらぬとは御心強き限りかな、殊に此狂女の申すに、今迄は当地に居り候えども、今
日を限りに何処へか立退き候よし、名残の舞の一曲なれば、せめては物の隙間より人知れ
ず御覧候え」、重氏此言葉に力を失い「ナニ末広売が今日を限りに当所を立退くと申さる
ヽか、さあらば再会は期し難し、如何に我君、主人の申す如く、せめては物の隙間より其
有様を御覧あらせ、後の便りとなり申さん、ひらに一曲を御覧じ給え」、此上はとて荒次
郎、人々の言葉に従わんと此由主人に頼みければ、主人は心得表に立出で「如何に末広売、
さぞ待侘びて候いつらん、さりながら其方が待ちし甲斐こそあれ、我家の客人イヤナニ某
が寸志とて其方に餞せん為に此品々を遣すなり、庭前に於て舞を一さし舞候え」、小桜姫
進み寄り「ナニ此品々を客人より」、家忠「イヤ客人では無い、某が恵みの品々」、小桜
姫「御恵みにも程こそあれ、数の宝を謂れ無く妾に賜る子細は如何に」、家忠「其子細と
申すは其方の有様を御聞あって哀れに思し召し給うなり」、小桜姫「扨誰人が御聞ありし」、
家忠「イヤ誰にてもあらぬ某なり」、小桜姫「御身ならば面のあたり妾の姿を御覧あるに、
何しに人より聞き給うぞ、さりながら御恵みは有難し、其客人とやらんは如何なる人にて
坐すぞ」、家忠「イヤ客人は御座らぬ、兎も角も庭前にて一曲を舞い候え」と内に呼入れ
庭前に誘いければ、小桜姫はそれを誰とは知らねども、我も尋ぬる人ある身なり、客人と
やらんの顔見たしと熟々内を窺うに、襖閉じたれば観るに由なし、されども襖の隙間より
此方を覗く人こそあれ、