80 計略の種(使われては)

 故郷は咫尺の中に在りながら行くに行かれぬ擒の身の上、幼けれども三浦道寸が一子虎
王丸、屹と早雲の顔を眺め「和睦の事は心得たれども偽り多き小田原武士、先にも我身を
欺いて一の宮に誘き寄せ、兄上との対戦に我身を人質となしたり、今我身を幼き者と侮り、
再び偽りの計略を為さば我身は死んで鬼となって小田原武士を取殺すべし」と四方を睨め
し意気組は末頼もしく覚えたり、早雲も其勇気を感じ「流石は名家の若君なり、天地の神
祇照覧あれ、早雲誓って偽りを申すものならず」、虎王丸「まこと和睦を結びたくば先ず
新井の囲みを解いて兵を退け、其上にて城中へ和睦の使者を立てられよ、是軍陣の礼儀に
非ずや」、早雲「それは尤もの言葉なれども、先ず御身を以て和睦の内意を聞かしめざれ
ば我が退かん跡に城兵必ず撃って出ずべし、されば明朝御身新井の城門に至り、城中の人
に我意を伝えて和睦の事を勧められよ、城兵だに同意せば我軍は忽ち囲みを解いて遠く去
るべし、御身は道寸が愛子と聞けば、道寸も宥めて和睦の事を計らわんもの御身の外に在
るべからず、御身もし城兵に向って和睦の事を勧めずば痛わしくも御身の首を斬らん、必
ずぬかり給うなよ」と宥め賺せば、虎王丸俄に心を決し兼ね黙然として思案せり、斯る所
に一人の武士城門より馳せ入って、早雲が前に両手を突き「此度江戸の城主上杉修理大夫
朝興新井の城を救わんと一万五千の大軍を起し、相州中郡まで出馬せしよし注進あり候」
と勢い込んで述べければ、早雲は虎王丸に聞せてならじと其武士を叱り「陣中にて軽々し
き事を申す勿れ、それは敵の流言なり、まこと上杉朝興は今北国征伐として野州の地にあ
れば、此方へ来るべき謂れ無し」と言い紛らせども、武士は悟らず「イヤ確なる者の注進
に候えば御疑いあるべからず」、早雲「かしましヽ、其処立て」と武士を追出し声励まし
て虎王丸に向い「幼き人、返答は如何に」、虎王此時心を注けて早雲の気色を窺いけるが、
忽ち心に決する所あり「御身の言葉に偽り無くば明朝城門に赴いて和睦の事を申入れん」
と言放てり、早雲心を安め「それにてこそ三浦の若君なり、必ず道寸を勧められよ、実に
実に獅子は三歳にして牛を呑まん勢いあり、末頼もしき幼子よ、今日の引出物に此差添を
参らせん」と美事なる短刀一口を虎王丸に与えける、虎王丸押戴き「両家目出たく和睦と
ならば之に過ぎたる悦びは候わず」と嬉しき体に見えければ、早雲竊に悦んで虎王丸を退
かしめ、斯くて諸将に打向い「賢しく見えても流石は幼き者なり、彼道寸に勧めて和睦の
義を計らわば、此方は敵の油断に乗じて不意に上杉勢を迎え撃つべし、朝興は柔弱の大将、
俄に兵を進めて此に来ることあるべからず、一万五千は大軍なれども、それを破らんは朽
木を折るが如し、上杉勢を追い散らして再び此城を取囲まば、最早援無き孤立の城攻め、
落さんこと手の中に在り」と尚も軍議を擬しける、此席に楽岩寺種久もありけるが、軍議
済んで後我陣に帰り、娘小桜姫に本陣の様子を落も無く物語りたるに、小桜姫心中大に驚
き、兼て虎王丸を救い出さんと心に掛けて窺いしが、北条勢の守護厳重にして顔見る折さ
え無かりしに、再び計略の種に使われては荒次郎の君に申訳無しと、竊に之を救うべき手
段を考え、其夜の更くる頃独り我陣を抜出し、虎王丸が捕わるヽ山の根方の仮の牢屋に近
づきたり、折しも秋の夜の月冴え渡り、寂寞として物静なる真夜中に、谷を隔てヽ鳴く鹿
は妻や恋うらん子や思うらん、