83 鳴子の音(不思議なり)

 虎王丸が言葉を聞て小桜姫打驚き「それは健気な覚悟なれど、外に遁るヽ道あるに何と
て自ら死を急がるヽ、援兵の事を城中へ知らせたくば一旦此を遁れて後、父上や兄上に委
しく物語り給うべし」、虎王丸頭を振り「イヤイヤ某は再び城中に帰るべき身の上ならず、
城に帰らば父上と兄上が再び御仲違いし給うこと疑い無し、母上の御生害ありしも我身と
牧の方より起りし事なり、さればこそ某は罪を一身に引受け此にて死なば身の本懐、明日
を最後と定めたれば再び入城の儀を語り給うな、唯某が今はの願いには、何卒早く姉上と
兄上が晴れて夫婦となり給い、我が亡き跡の御回向も御二人が手より受くるなら、草葉の
蔭に某もさぞ悦び候わん、斯く姉上に逢い参らせて今生の御暇乞を申す上は最早思い遺す
事も無し、明日は敵味方の見物する真中にて、早雲父子の荒胆を取挫しぎ申さん、思えば
嬉しき最後なり」と流石名家の子孫だけに健気な覚悟勇ましヽ、小桜姫落つる涙を禁め敢
えず「是程の虎王どのを北条勢の手に捕われしが妾の落度、その殊勝なる志を聞けば聞く
ほど見殺しにはさせられぬ、妾が此陣にありながら御身を死なしては荒次郎君に申訳なし、
城に帰るを好まずば、妾と共に此を落ちて何所へなりとも忍ばれよ、妾も好まぬ此合戦、
御身故なら如何なる難儀も厭わばこそ」と姫は一入虎王丸をいとしく思い、格子に寄り添
い其顔を覗き込む、月の光に虎王丸の顔は常に勝りて気高く身ゆ、「アゝ殺されぬ、此程
の弟を何で見ながら殺さりょう、妾が息のある内は迚も御身を死なすまじ、虎王どの、暫
く忍んで妾の言葉に従い給え、何事も後にこそ為すべき様あれ」と心を決せし小桜姫、無
理にも虎王丸を救い出さんと再び格子に手を掛けたり、虎王丸中より声を励まし「是は姉
上物に狂わせ給うか、今某と姉上が此場を立退き誰か城中に援兵の事を申伝えん、援兵を
知らず城中の者合戦を仕損じなば其罪は我等に在り、死する命は惜しからで、惜しきは三
浦家の滅亡なり、某死して城を救うは忠孝の道を立つる為、それを留め給うは姉上の御言
葉とも覚えず、又姉上とて某故に今此場を立退き給わば、御父種久殿を如何になし給う、
敵人の子を助けんとし給うさえ道ならぬに、親をも捨てんとは何事の仰せなるぞ、某が志
を知り給わば、人目にかヽらぬ内早く陣所に引取り給え」、小桜姫「さあそう言わるヽは
理りなれど、今御身を救わいでは」、虎王丸「某が身を救い給わんより某が心を救い給え」、
小桜姫「身をも救い心をも救わん」、虎王丸「心を救うならば明日の最後を遂げさしめよ」、
小桜姫「問答は無益、仮令御身の心に背くとも此場は救わで叶うまじ」と愈々戸口の錠に
手を掛けヽれば、如何なしけん彼方にも此方にも俄に聞ゆる鳴子の音、こは不思議と小桜
姫再び錠を揺かせしに、鳴子の音は愈々烈しく鳴り渡り、本陣の方より忽ち人馬の馳せ来
る様子、虎王丸言葉忙しく「姉上、其錠には予て用心の為鳴子の縄の繋ぎあるなり、一時
も早く立退き給え、アレアレ番兵も目を覚まして候」と言いも終らず本陣より一手の軍勢
馳せ来る、其大将を誰ぞと見れば北条新九郎氏綱なり、小桜姫切歯を為し木の下蔭に姿を
隠して我が陣所へと帰り行く、