日記の フリ 日記というよりは、気になったこと、興味のあることを忘れないようにメモしてる、ってほうが正しいので「フリ」。
日付ごとにアンカー付けています。e.g. http://www5a.biglobe.ne.jp/~nanatsu/diary0506.html#yyyymmdd
2005年6月
読・観・聴・その他
6/29(水)
すずき大和・生井武世『まんが紀行 奥の細道』(上)青山出版社(→Amazon)。
絵が、かわいらしいのと同時にしみじみと枯れた風情もある。疲れたり、思いを馳せて物悲しくなったり、でもいつも先へ先へと気持ちがいっているんだなあ。
ところどころに現代語訳がついているほうが私には無理がないみたい。句そのものだけでは、私にはその良さをきちんとわかることができないと思う。言葉の注
もついていて勉強になった。
丸山圭三郎『人はなぜ歌うのか』飛鳥新社。平成3年 発行なので随分前のもの。もともとは文藝春秋に寄せた「哲学者がカラオケに狂うと」という短いエッセイだったらしく、確かに「哲学者がカラオケに狂うと」 という様子がくっきりと見てとれる。真面目な理論も加えつつ、それをオブラート代わりにして、でも言いたいのはこれ! というような。「情感あふるる音痴」なんて最高の物言いだと思う。丸山圭三郎にこういう面もあったんだ、と面白かった。
6/28(火)
出掛けに日傘をひっつかんだつもりが、開こうとして普通の傘だと気付きただの荷物に。
ヨハネ・ベル『ベル神父 街を行く』中公新書(→Amazon) を読み終わる。
6/27(月)
横山研二『わがままフランスやっぱりフランス』集英社(→Amazon)。
あまりにもまわりくどい表現は逆に下品だと思う箇所がかなりあった。要は、文体が好きではなかった。
近藤史恵『賢者はベンチで思索する』文藝春秋(→Amazon)。 物足りなかった。
Carla Bruni 『Quelqu'un M'a Dit』。 思っていたよりもずっとハスキーな声。淡々としていて同じような曲が続くので、一度聴いた限りでの印象は薄く、あまり魅力を感じなかった。
長いこと使ってきたカップを自分の不注意で欠けさせてしまった。もう使えない。
6/25(土)
音に対する欲を出してスピーカーケーブルをかえてみたものの、線が細く上品ぽくなってしまった。物足りないのでまた元に戻した。
小林弘潤『中高生のための勉強のコツ』月聖出版 (→Amazon) を読んだ(一部内容が読めます)。 誠実で、良かった。目標を設定するのは実はとても難しいことなのだと書いてあって、少し気が楽になる。
NHKフ ランス語会話のオープニングで流れている曲が気になって、T& eacute;té『A La Faveur de l'Automne』を買い、一曲目を聴くなり、こういう傾向の音楽をもっと聴きたい! ととても気に入った。NHK フランス語会話といえば、パトリス・ルロワを見るたびに、風貌なのか喋り方のテンションのせいなのかラーメンズの片桐仁を思い出す。
男の人のむなぐらをグイッと掴むシーンを何かで見て、ああ気持ち良さそうだなあと思った。一度くらいやってみたい。
6/23(木)
インスタントコーヒーを買わなければ、いちいち豆を挽いて淹れるのが面倒で飲む量が減るだろうと思ってたのに、そうでもなかった。
6/21(火)
キャンドルナイト最終
日のきょう、夜の8時すぎから10時まで電気を消してみた。電気を消すといっても、私の場合は本当にあかりを消しただけで、TVもつけていた。でも、ろう
そくの光とTVってまったく合わない。疲れるので消してしまった。ご飯を食べたり、お風呂に入ったり、ぼーっとしたり、誰かと話したり、音楽を聴いたり、
そんなことが似つかわしいような気がした。
光がほのかだと内省的な気持ちになるのか、考えごとをするにはろうそくはいい。というより、ろうそくをともしたら物思うようになった。
キャンドルナイトのページを見てみると各地でいろいろなイベントが催されていたようで、そういうのもいいなと思う。イベント、つまりは誰かと共にろうそく のあかりで過ごすということ。ろうそくのあかりって、なんとなく人恋しいような気持ちにさせられる。何かを考えるにしても誰かと一緒に考えたいような、誰 かのことを思い出すような。
なんか、らしくねーな。
キャンドルナイトは年に1度だからいいのだね。電気がないのは不便だと正直思います。
「ともす」を変換したら「点す」「灯す」「燈す」と3つ出た。
6/20(月)
苦しかった「悲愴」にOKが出た。私はもっと初めからだめだこりゃと思ってたけど、先生ももうこれ以上やっても無駄だと理解したんだと思う。本当に悲愴
だった。
6/19(日)
クリント・イーストウッド監督『ミリオンダラー・ベイビー』(米・2004)(公式サイト)。
PG-12だったので覚悟はしていたけれど、もう席を立つしか!、というギリギリの描写でした。最近は音響設備が良いのがアダになって耳を塞いでもセリフ が聞こえてきて困る。
前半が後半を描くための壮大な伏線だと思う。でも、伏線が輝いていなければ後半の深みはありえない。
私は、安楽死に対して肯定の意見を持っていた。でも、そういう気持ちに至るまで の気持ちが「もう悔いがない。充分生きた」という“前向き”なもののかどうか、今の自分だったら自信はないし、 多分どんなに積みかさねてもそういう境地になれないような気もしている。そして、自分が安楽死する側の意見で、もし手を貸す立場を求められたらという考え が欠落していることにも気付いた。あまりにも考えが甘かった。
人との関わりかたって、なんていろいろなんだろう。
カップケーキにロウソクのバースディケーキ、人前でクリーム(?)のついたロウ ソクをなめるマギーの姿に改めて生い立ちを感じる。
みおわってすぐには、ラスト近くのフランキーのマギーへの振る舞いが男から女へ の愛に見えて、そんなふうには描かないで欲しいと思っていた。けれど、フランキーにとっての娘、マギーにとっての父がそれぞれ “不在”である伏線を思い出し、フラ ンキーのマギーへのキスは娘へのキスのようなもの、そういう余地も与えてくれているではないか、勝手にそう思うことにした。
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田中麗奈が出ているダイハツの車のCMが嫌い。田中麗奈扮するお嬢様が家にある美術品をダイハツの車に載せ、勝手に売りさばこうとする設定で、「いい の?」と聞かれて「いいのいいの。使ってないからね」という会話がある。美術品を持っているんだったら、それを保存するのが金持ちの義務みたいなものだと 思ってるくらいなのに、「使ってないから売っていい」というセリフの軽薄さが情けなくて頭に来るんだよ。
6/17(金)
黒田龍之介『外国語の水曜日---学習法としての言語学入門』現代書館(→Amazon)
を読み終わる。
6/16(木)
島本理生『ナラタージュ』角川書店(→Amazon)。
感想がうまくまとめられない。
プロローグにあたる章があり、それが余韻たっぷりの雰囲気なので、主人公の過去をとても知りたくなる。最後まで読み終えてまた最初に戻って読んだ。
登場人物たちは、「うばう」「もらう」「あたえる」「わたす」、そんなことを不器用に行っている。愛が、与え方によっては人を傷つける凶器になり、むしろ 無理矢理奪うことに転換してしまう。愛について、「愛し愛され」、その両方を得ようとするのはもしかしたら欲張りなことなのだろうか。
泉は、(死のうと思ったことが先生に阻止されて)今 生きていることに対して、自分で思うよりも先生に感謝しているんじゃないかと思った。先生に対する愛が無償にすら思えることの原因と結びつけるつもりは特 にないけれども。
ちょっとしたタイミングとその時の言動がその後の展開を変える、という当たり前のことを何度となく感じ、うまいな、と思った。
正直さが曖昧さを生んでしまう。はっきりしたものを求めようとすればするほど、逆に曖昧になる。
先生の振る舞いにとても頭に来たことや小野くんに感じた好意も、出来事が起きるたびに私の中で徐々に変化していった。実際に対峙していた泉の感情の揺れは いかばかりかと思う。読み終わってみれば、けだるさと物悲しさが先に立ち、もう誰の行動がどうこうという気持ちがなくなっていた。登場人物たちに時に反発 し、なのに少しずつ共感して、自分の感情がちりぢりになってゆく感じ。特に誰かに感情移入をするよりも、それは意外につらかった。
先生が泉と一緒に撮った写真をひそかに持っていたということ。 お互いがお互いの目の前で言葉で愛を伝えた時と異なり目の前に相手がいないのに、先生から泉への愛は確実に伝わったと思う。泉が破って捨ててしまっていた同じ写真は、そのことで「復活」したような 気がする。先生は、泉に対して自分のしてあげられることがこれしかないのか、と絶望的になっていたけれど、その2つを泉に対して行ったと思う。
すべては過去のこと、と感想を書きながら最初は思っていた。でも、感想を書いてゆけばゆくほど、終わったけれど終わっていなくて、いつか薄れるだけかもと 思うようになった。自分が好きだった人のことを完全に忘れてしまうようなことはないような気がする。ただ、その濃度や内容が変わるだけで。
6/15(水)
何気なく寄った新宿三越のcuocaにKono
式の円錐ペーパーフィルターがあった。伊勢丹にKono式のコーナーができたというので買いに行ったら、ペーパーフィルターだけでは売ってもらえなくて
がっくりしていたところだった。
良く行くお店でキャンドルナイトの 葉書と蜜蝋のキャンドルをもらった。“でんきを消して、スローな夜を。”
6/13(月)
日付に意味はあるのだろうか。こんなペースで書いていると、もはやないような気がする。
いろいろなことがあったような気がするが、印象に残るのは、オーラ写真を撮ってもらったり、オーラソーマを体験したり、そして初めて西洋占星術で占っても らったりしたこと。オーラはゴールドだった。オーラソーマも含めて私は自分が思っているよりも元気らしい。後ろめたさなんてぶっとばせ、っていうか、この ままぶっとばしてればいいんだな。
占星術は、自分でホロスコープを作って解釈するのとあんまり変わりはなくて、ただやっぱり納得いかないなあということも言われたりする。上昇宮の解釈につ いてもっとほかの見方はないのだろうか。
占星術よりも、占いではないオーラソーマで言われたことのほうが、私にとってはしっくりくることが多かった。
読んだ本で面白かったのは、フミキリスト11,・伊藤博康『日本の& ldquo;珍々”踏切』(→Amazon)、南伸坊・南文子『本人の人々』(→Amazon)、佐藤亜紀『外人術』(→Amazon)。 ただ、『外人術』、これは以前に読んだことがあったと読み始めて思い出した。
友人がいないから死ぬのではない、友人を作ることが至上の義務だからこそ、死ぬしかないところまで行ってしまうのだ。本当の友人など僥倖でしかできないも のであり、一人もいないからと言って恥じなければならないことはない------それが判れば、彼らも少しは楽になるだろう。友人はできる時には闇雲にで き、できない時は滅多にできない。ただし量の多寡はまるで質を保証しない。屑みたいな仲間が幾らいても仕方なかろう。手間暇が掛かるだけだ。今だから言え ることだが、面白くもない付き合いは精力と時間の無駄遣いである。そもそも社交的ではないのに何とか友人を作ろうとするよりは、友人なしでいかに面白おか しい人生を送るかを考える方がよほどいい。佐藤亜紀『外人術』p.80
返事のお約束はできませんが、なにかございましたらどうぞ。