蒼海館の殺人/阿津川辰海
本書では、【惣太郎殺し】・【正殺し】・【坂口殺し】と三つの事件が扱われていますが、葛城がいうところの『第一段階』から『第二段階』、そして『第三段階』へと進んでいくにつれて、事件全体の様相が次々と変わっていくのが大きな見どころです。
『第一段階』
- 【惣太郎殺し】
夏雄の目撃証言、坂口が撮影した写真、さらには写真を奪おうと坂口を襲撃した人物の存在によって、惣太郎が毒殺された疑惑が浮上しますが、写真撮影の際に夏雄が目撃できる場所がないという状況(*1)が秀逸で、夏雄の証言が写真と一致しながらも、真偽不明の状態がうまく作り出されています。
さらに梓月が、アンプルに
“痕跡を残さず、毒薬を混入するのは不可能”
(121頁)と断言したことで、『第一段階』では【惣太郎殺し】の疑惑は一旦立ち消えになりますが、惣太郎が“孫に殺された”
(239頁)という坂口の言葉がまた絶妙です。- 【正殺し】
散弾銃による“顔のない死体”ということで、まずは入れ替わり――“バールストン先攻法”の可能性が持ち出されますが、体格の問題で早々に否定される(これについては後述)上に、スマートフォンのロック解除(197頁)で“本人確認”がされて、以降は〈正が死んだ〉として検討が進んでいくことになります。
- ・正の自殺
正が自殺する理由が見当たらないとされる中で、坂口が指摘するのが、〈正が惣太郎を殺したため〉という理由です。それなりに説得力がないこともないのですが、後に明らかになるように、坂口は実際には〈黒田が惣太郎を殺した〉と確信していたわけで、葛城家に対する悪意がうかがえます。
- ・間違い殺人
対してミチルが持ち出すのが“間違い殺人”という構図で、正と坂口が密かに部屋を替わっていたといういかにもな状況から、十分にありそうな可能性といえます。ただ、本来は坂口が殺されるはずだったとすると、動機を考えれば当然、葛城家の面々に疑いが向いてしまうのでは……と思っていたのですが。
続いて健治朗が、いきなり〈田所か三谷が犯人〉と告発するのに仰天。しかし、現場の離れには多種多様な凶器――惣太郎の武器コレクションがあったにもかかわらず、“犯人はなぜ散弾銃を使ったのか”という設問から、“犯人は散弾銃しか知らなかった”(*2)と結論づける推理は面白いと思いますし、“間違い殺人”の構図はそのままに、
“東京で私たちの与り知らぬトラブルでもあったんだろう”
(221頁)と事件を葛城家の“外”に追いやる豪腕にうならされます。それに対して、サイレンサーが使われていたことで容疑を否定する梓月の反論が鮮やかです(*3)。- ・偽装“間違い殺人”
次いで健治朗は坂口に狙いを定めて、“間違い殺人”を坂口による偽の真相と位置づけ、襲われたことを狂言だったとして、〈坂口が犯人〉であるかのように追及していますが、このあたりまでくると根拠らしきものもなく、言いがかりに近いのは否めません(*4)。とはいえ、ここまで次々と仮説が繰り出されるのはやはり見ごたえがあります。
ここでは、葛城家が“一枚岩”となって【正殺し】の疑惑を“外”に向けようとしていますが、その裏には――
“ばあちゃんは犯人じゃない”
(285頁)という夏雄の言葉で匂わされているものの――ノブ子に疑いがかかる状況が隠されていたというのに納得。ノブ子が犯人の場合、部屋の入れ替えが障害とならないのがうまいところですし、単に家名を守るよりもはるかに切実なので葛城家の選択にも説得力があり、〈蜘蛛〉の計画の巧みさが際立っています。- 【坂口殺し】
坂口が殺されたことで、本来ならば――少なくとも一旦は――“間違い殺人”の構図が補強されてもおかしくはないところですが、田所が(【正殺し】と違ってこちらではありそうにない)“顔のない死体”の可能性をまず頭に浮かべているのはご愛嬌。
一方、黒田の過去を知る健治朗はこの時点で、【坂口殺し】については〈黒田が犯人〉と考えたはずです(*5)が、館に戻ってきた形跡のない黒田に【正殺し】まで押しつけるのは難しく、ノブ子の容疑を晴らすことにつながらないので、口をつぐんでいるのもうなずけます。さらにその後、車が流される映像から黒田が事故死したと見なされる状況では、なおさらでしょう。
このように、『第一段階』では【惣太郎殺し】は疑惑にとどまり、【正殺し】・【坂口殺し】も改めて検討されることなく終わっていますが、葛城家としてはほぼ“スケープゴート”が不在となった状況(*6)なので、水害への対応を本格化せざるを得なくなったことを機に、事件の解明が放棄されるのも妥当なところです。
作者としては、“名探偵・葛城輝義の復活”につながるきっかけを用意する必要があるわけで、その前に葛城抜きで事件の検討が進んでいかないような状況を作り出してあるのが実に巧妙です。
*1: 夏雄がタイミングよく抜け穴から目撃したことまでは、さすがに〈蜘蛛〉の意図したことではなさそうですが。
*2: 田所と三谷は、広臣が散弾銃をしまいに“東館の中に入っていった”
(52頁)ところを見ていますが、東館が“二階建て”
で“使用人のための部屋や倉庫がまとまっている”
(46頁)ことを考えれば、“東館の中”ということまでしか知らない状態で誰にも見とがめられることなく散弾銃を見つけ出すのは、実際問題としては困難でしょう。
*3: ノブ子の容疑の中で言及されているように、散弾銃を“東館から持ち出してきたのが正”
(322頁)という可能性もないではないのですが、健治朗の告発は“犯人が散弾銃を用意した”ことを前提としているので、梓月に対する再反論として持ち出すことはできません。
*4: 以前に葛城家を訪れたことのある坂口にとっては、サイレンサーの問題も田所や三谷ほどの障害にはならないのかもしれませんが……。
*5: 田所が携帯電話の鳴る音を聞いた(242頁)ことを知っている読者は、携帯電話で起爆させる仕掛けを考えるでしょうが、健治朗は読者と違って〈黒田が犯人〉というところから出発しているので、後の“トラップは黒田君が死んだ後に作動した”
(518頁)という推理にも表れているように、犯人がその場にいなくてもタイミングよく起爆できる仕掛け――例えばエンジンと連動させるなど――を想定している節があります。
*6: 梓月は、田所に【坂口殺し】の疑いがかかる可能性を指摘しています(294頁~295頁)が、葛城家にとっての“本命”は【正殺し】であって、そちらを田所の犯行とするのが難しい以上、【坂口殺し】を云々してもあまり意味はないでしょう。
『第二段階』
“名探偵・葛城輝義の復活”のきっかけとなるのが、水害の危機が迫る中でのユウトの両親の救出ですが、切羽詰まった状況だけに、葛城がほぼ一瞥しただけで(田所が気づかなかった)真相を見抜くことができる“難易度”が絶妙ですし、人命救助に直結する謎解きの結果として、葛城と田所にとって“光”となる“ヒーロー”という言葉が導き出されるのがお見事。しかも葛城家につながるトンネルの発見など(*7)、事件の謎解きにも関わってくるイベント(?)となっているところがよくできています。
一方、「第四部」で明かされる田所の行動はやはりショッキング。田所自身が推測している(387頁)ようにそれが事件を引き起こしたとすれば、葛城の“探偵失格”とは違った次元で“探偵助手失格”といわざるを得ないもので、その悔恨が胸を打つのも確かです……が、その直前の、すべてが犯人の計画通りであることを匂わせる葛城の言葉(370頁)を念頭に置けば、田所の行動もまた犯人の計画の一部であることは、十分に予想できるのではないでしょうか。
実のところ、“泥棒が恐れるものは三つある。人、時、光だ。”
(379頁)という田所の独白がやや唐突というか、断定口調で自前の知識らしく見せようとしている(作者が)という印象を受けた(*8)こともあって、正が田所に“泥棒の思考パターン”
(84頁)を教えたことを思い出してしまい、この時点で正による“操り”、つまり〈蜘蛛〉の正体が正であることに思い至ってしまったのが、個人的に残念……ではありますが、後述するように、〈蜘蛛〉の正体についてはもう一つ事前にヒントが示されているので、作者としてもそこまでは織り込み済みということかもしれません。
さて、いよいよ葛城が謎解きに乗り出す『第二段階』の手始め、“二つの調査”が地味ながら重要です。まず、携帯電話を使った爆殺の仕掛けは読者の誰しも予想するところでしょうが、仕掛けと時系列を改めて検討することで【坂口殺し】が“間違い殺人”ではないと確定し、さらに給湯室に残されていたティーセットを手がかりに、正と坂口の部屋の交換を知り得た第三の人物の存在まで、一気に導き出されるのが鮮やかです。特にティーセットについてには、田所の細かい反論に対する隙のない推理……というよりも、それを可能にする隙のない手がかりの配置が光ります。
そして、葛城がいうところの“五組のホームドラマ”
(427頁)が展開される、家族との“対話”が圧巻。“ノブ子を守るために一致団結する”という状況の裏に、家族のそれぞれが、思いのほかバラエティ豊かな(?)秘密を隠していたことに驚かされますし、それが一つずつ明らかにされていくことで、事件に色々な方向から光が当てられていくのが見ごたえ十分です。
- [ミチル・璃々江]
ノブ子のパジャマやシーツが
“ぐっしょりと濡れていた”
(320頁)のに対して“枕は湿っていなかった”
(327頁)ことや、メガネをはずす前後の璃々江の様子など、さりげなく示された手がかりをもとにした推理がよくできています。璃々江が赤いメガネケースを取り出した際の、“ケースを凝視している”
(275頁)というミチルの反応は気になっていたのですが、ミチルがノブ子を疑い、璃々江がミチルを疑うという構図が隠されていたとは思いもよらず。正殺しの現場に赤いケースがあったことは、ここまで読者には示されていませんが、〈蜘蛛〉が“一枚岩”の状況を作り出すためにノブ子を操ったと考えれば、そこから逆算することで、メガネケースをめぐる一幕の意味にまでたどり着くことは十分に可能でしょう。
- [ノブ子・由美]
由美の受験のエピソード(289頁)が語られた時点で、ノブ子が
“届けなくちゃ”
(59頁)と考えているものがペンケースであることは明らかですが(*9)、赤いケース一つで思い通りの状況を作り出した〈蜘蛛〉の計画の巧妙さが、改めて印象づけられます。そしてケースの中から飛び出してくる注射器のシリンジは、【惣太郎殺し】の様相を完全に一変させるもので、やはり何とも鮮烈です。とはいえ、ケースの中身が“惣太郎殺しの証拠”である可能性にはすでに言及されている(448頁~449頁)のがもったいないところですし、そちらの可能性が示されているにもかかわらず(*10)、その後に田所が
“正さん殺しの証拠品か”
(465頁)と口にしているのは、少々ちぐはぐに感じられてしまいますが……。- [梓月]
まず、健治朗のインシュリン注射をうまく利用した田所の罠は、お見事といっていいでしょう。そして、アンプルに細工するのは不可能という説明(121頁)と整合しない
“診療所でゆっくり毒を混ぜてくれば済むことだ”
(126頁)という言葉や、坂口の写真に対する“それなら、毒殺はやはりあり得ないな”
(302頁)という反応など、細かい手がかりがよく考えられています。- [夏雄・広臣]
トンネルが発見された時点で、それが葛城家の離れにつながっていることは見え見えですが、夏雄の目撃証言の問題が一気に解決されるところがやはりよくできています。一方で、広臣が〈自分が目撃された〉と思い込んでいたというのは少々意外でしたが、
“父さんは犯人じゃない!”
(109頁)や“ばあちゃんは犯人じゃない。父さんでもない”
(285頁)といった夏雄の言葉がしっかり伏線になっていますし、やけにかたくなに夏雄の言葉を否定しようとしていた態度もうなずけます。夏雄のいう
“怪しいのは先生だ”
(285頁)が黒田のことだというのは明らかな上に、黒田が単なる家庭教師ではないことは早い段階で予想できた(後述)ので、【惣太郎殺し】の動機もあり得る――そうなると【坂口殺し】の動機もある――とは思っていたのですが、黒田が犯人だとすると、【正殺し】に関して説明をつけづらいのがネックです。- [健治朗]
黒田が惣太郎の隠し孫だったことは、ノブ子が黒田に
“お父さん”
(89頁)と呼びかけ、愛人の存在を匂わせているあたりでおおよそ見当はつきますが、葛城物産の“中心に盾を据え、前方に剣と弓がクロスした形”
(86頁)のロゴマークが、健治朗(剣)・由美(弓)とともに隠し子(盾)を示していたという手がかりがユニーク。惣太郎が
“孫に殺された”
(239頁)という坂口の言葉の“答え合わせ”も済み、黒田の動機が明るみに出たところで、健治朗が提唱するのが黒田と坂口の“相討ち殺人”という構図です……が、この期に及んで新たな構図が持ち出されるのが面白くはあるのですが、同時に難しいところでもあります。というのも、健治朗は知らされていない(と思われる)ものの、爆弾は携帯電話の仕掛け――リアルタイムで動作させる仕掛けで起爆させられたことが判明しているので、当然ながら犯人は爆発の時点で生きている人物であり、健治朗が推理した“相討ち殺人”が成立しないことは明らかだからです。作中では結局、成立しないはずの“相討ち殺人”が『第二段階』の最後まで通用している(ことになっている)ので、読者としては微妙な印象が否めないところではありますが、すでに『第三段階』まで見通していると思しき葛城の立場からすると、どのみち最後にひっくり返すわけですから、この段階で“相討ち殺人”だけを否定するよりも、手順が煩雑になるのを避けるために、あえてそのまま進めておく方がベターではないかと思われます(*11)。
そして、五組の“対話”が終わった後の謎解きでは、正のスマホカバーの内側まで拭き取られていた(*12)ことから、元の持ち主(85頁)である〈由美が犯人〉とする推理に驚かされましたが、“由美は散弾銃の引き金を引くだけだった”という犯行の状況にはさらに仰天。この時点では“自殺を試みた正がその状態で気絶した”と、(やむなく)都合のよすぎる偶然で説明されているところ、実際にはもちろん〈蜘蛛〉のお膳立てであることは明らかで、由美の独特の考え方を利用したトリック――由美をよく知る家族ならではともいうべき凄まじい“操り”にうならされます。
正の部屋で付け髭(とシークレットブーツ)を発見した由美が、“正が黒田に変装して惣太郎を殺した”と疑うのは自然ですし、“遺書を残した自殺未遂”の状況によってその疑念が確定するのも妥当で、これまた念の入った仕掛けといえるでしょう。また〈蜘蛛〉の正体を踏まえると、(惣太郎殺しに限り)あえて自らの罪を明かすことで由美に動機を与える、“肉を切らせて骨を断つ”かのような企みがすごいところです(*13)。
かくして『第二段階』では、【惣太郎殺し】は〈正が犯人〉、【正殺し】は〈由美が犯人〉、そして【坂口殺し】は〈黒田が犯人〉と結論づけられます。前述の“相討ち殺人”の問題など怪しいところもないではないものの、正殺しについて由美が自白していることもあって、全体として説得力のある受け入れやすい“真相”といっていいでしょう。
*7: “ドロボーは常に三人組”
(31頁)という言葉が的を射ていたことで、夏雄の証言の信憑性が高まるのも見逃せないところです。
*8: 高校生の経験的な知識であるはずがなく、にもかかわらず出典(?)に言及されない――“……という”
すらない――のは、いささか不自然といわざるを得ないでしょう。逆に、“ちょうど正が教えてくれたことの中に、こういうものがあった”
と書かれていた方が、あまり気にならなかった可能性もないではない……とも思いますが、作者としてはやはりそう書くわけにはいかないことも理解できるので、なかなか難しいところです。
*9: むしろ、ノブ子の世話をしていた――リュックの中の“大量の赤い箱”
(459頁)を目にする機会もあったはずの――由美であれば、これまでに気づいていてもおかしくない気もしますが……。
*10: 加えて、“正”の死亡推定時刻が“午後十一時半から午前零時半”
(195頁)なのに対して、ミチルがノブ子を目撃したのが“午後十一時十五分”
(437頁)なので(事件のタイムテーブル(特に588頁~589頁)も参照)、まだ起きていない【正殺し】の証拠が出てくる可能性は低いでしょう。
*11: “相討ち”だけを否定しても、この時点で黒田以外の犯行を想定するのは難しいので、“黒田が生きている”可能性を考慮することになりますが、そうすると【正殺し】の真相から遠ざかることになって〈蜘蛛〉の思う壺ですし、その【正殺し】についても黒田に疑いが向いてしまい、〈由美が犯人〉という『第二段階』の結論を家族が心情的に受け入れがたくなるおそれがあるかと思います。
*12: “スマホカバーのフレームの縁との内側の部分”
に血が付着していたこと――犯人がスマホカバーを外したことだけではやや弱いと思いますが、“グレープフルーツの香りがカバーの裏側からも漂ってきた”
(いずれも308頁)ことが決定的です。
*13: この時点で(部分的であっても)“正が犯人”と明かしてしまうのは、作者の立場からするとリスクが大きいようにも思えますが、付け髭とシークレットブーツのずさんな処分はあからさまに〈蜘蛛〉の手口(ティーセットに通じる)なので、読者は続く『第三段階』でこれもひっくり返されると予想する――という計算があったのかもしれません。
『第三段階』
葛城が謎解きに乗り出すに当たり、“田所はなぜ爆発よりも前に坂口の車を気にしたのか”という疑問が提示されています(409頁)が、単なる虫の知らせ以上の理由を想定しづらい状況に、“坂口さんが車で来た事実、そのもの”
(535頁)が問題だったという、しっかりした解答が用意されているのは作者らしいというべきか(*14)。そしてその意表を突いた解答が、序盤の“怖そうなお兄ちゃんも歩いていった”
(30頁)というユウトの言葉に光を当てることになるところがよくできていますが、あくまでもユウトの印象にすぎないとはいえ、この時点で“オオカミ”=〈蜘蛛〉の正体がほぼ明らかになってしまう(*15)のは、やや親切すぎる感がなきにしもあらず。
さて、〈蜘蛛〉が敷いたレールから脱する『第三段階』の口火を切るのは、「第四部」での田所の行動の解明です。それ自体はすでに読者には明かされている上に、田所が一番背が高い(186頁)という手がかりもわかりやすく、さらには田所が〈蜘蛛〉に操られたこともあからさまなので、田所の動揺ぶり(*16)と葛城による救いしか見どころがない……かと思いきや、〈蜘蛛〉が“是非とも離れの電球を落としておく必要があった”
(567頁)――“泥棒の思考パターン”どころではない切実な理由があったことに、さりげなく言及されているのが注目すべきところでしょう。
そして、〈蜘蛛〉が田所を操りきれなかった結果として生じることになった、靴の手がかりが非常に秀逸。足の裏と靴の中敷きの切り傷が“ガラスを踏んだ時の傷”
(300頁)だと早い段階で明言され、田所がグラスを割ってしまうアクシデントという原因まで読者には明かされているものの、“正の自殺(未遂)”を否定する材料という役割上、それが“(偽の)真相”として解き明かされる『第二段階』の最後までは、その重要性がわかりにくくなっている(*17)のが巧妙です。
“ガラスを踏んだ傷”の陰にうまく隠されている感のあるもう一つの手がかり――“靴紐を通す穴の部分、その内側にまで血が付着している”
(300頁)は、表現がやや微妙でわかりにくい部分もあります(*18)が、“ガラスを踏んだ傷”と同様に〈蜘蛛〉の関与を裏付けるだけでなく、〈蜘蛛〉がガラス片を回収したタイミング(*19)を確定させる重要な役割を担っています。そしてそれが、問題の時間帯に二人以上の組で行動していた関係者たち全員のアリバイを成立させた結果、現在の〈蜘蛛〉の所在を浮かび上がらせるのに脱帽(*20)。前述のように正が〈蜘蛛〉であることは見当がついていたので、「プロローグ(断章)」の描写を思い返せば、〈蜘蛛〉(=正)が避難者に紛れて館に戻っていることも明らかなのですが、まさか中盤早々――258頁なので半分よりも前(!)――に堂々と“再登場”していたとは思いもよりませんでした。
〈蜘蛛〉の正体を導き出す決め手となるのは、凶器として散弾銃を使った理由で、殺害後に被害者の顔をわからなくするだけでなく、現場の暗闇と併せて“殺害前に(も)被害者の顔を見せない”というその狙い――意図的に“間違い殺人”を起こさせるともいうべき、“操り”による“バールストン先攻法”ならではの企みが非常に面白いところですし、凶器の選択がその段階から効いてくるというのもおよそ例を見ないものです。
というわけで、最終的には“顔のない死体”トリックによる典型的な“バールストン先攻法”ではあるのですが、高度な“操り”も駆使しながら様々な事件の構図を用意することで、関係者の思考を引きずり回して“バールストン先攻法”から目をそらす手法が秀逸で、入れ替わりを看破されやすいという“顔のない死体”トリックの弱点が巧みにカバーされています。加えて、『第一段階』・『第二段階』と重層的な“偽の真相”が構築されているのもすごいところで、さらにその行き着く先に実行犯(由美)の自白が待ち受けているために、そこが“終着点”だと強く印象づけられるのも巧妙です。
ただ一つ気になるのは、正と黒田の体格差の問題で、“正の背は低く、黒田と十センチほど差がある。誤魔化しようがなかった。”
(196頁)とまでされていたわけですから、最終的に――顔の相似の方をクローズアップする(582頁)一方で――何の説明もなくスルーされているのは、やはりいただけないところです(*21)。もっとも、身長の問題だけに限れば(*22)、“後ろへ大きく背中を反り、天を仰ぐような姿勢で椅子に座っている”
(190頁)姿勢の死体では――某国内作家の短編(*23)を踏まえると――わかりにくそうですし、“頭の下半分だけが体に残っている”
(169頁)、つまり頭の上半分がない状態であればなおさらかもしれません。
*14: 『名探偵は嘘をつかない』で印象的だった、“ふと思い出した、などという言葉を軽々しく使ってはならない”
という言葉に通じるところがあるように思います。
*15: 車が流された黒田と、田所らよりも後に到着した梓月は、“オオカミ”に該当しないことが非常にわかりやすいのではないでしょうか。
*16: 探偵助手の宿命とはいえ、田所があまりにも鈍く描かれすぎなのは気になりますが、致し方ないところでしょうか。
*17: (おそらく読者の大半がそうだったのではないかと思いますが)“〈蜘蛛〉が直接手を下した”と考えている限りは、他殺の裏付けとはいえさほど大きな意味はなく、“正が自殺しようとしていた”ことが真相であるかのように語られて初めて、それを強く否定する必要性が生じることになります。
逆にいえば、“ガラスを踏んだ傷”が(その時点で意味がわからないにしても)いかにも手がかりらしく描写されている時点で、“正の自殺”が解決の一つとして持ち出されることまで、予想することも不可能ではなかった、といえるかもしれません。
*18: 靴紐の太さによって、靴の左右外側では穴の部分との間に隙間が生じる場合も多いので、“靴紐を通す穴の部分、その内側”
という表現ではほとんど違和感がなく、“目立たなさすぎる”という意味で読者への手がかりとしては少々難があるように思われます。
*19: 田所の“指の絆創膏を見て”
(574頁)から、と時間帯を限定してしまうのはやや短絡的にも感じられますが、〈蜘蛛〉が気づく機会が他に見当たらない――自殺未遂を偽装する最中に気づいたとすれば、当然そこでガラス片を回収するため、血液の手がかりが生じない――ので、実質的には妥当なところでしょう。
ただし、葛城が“死体が発見された。この時は死体の靴にいじられた痕跡はなく”
(576頁)としているのは、筆が滑ってしまったものでしょうか。死体発見時には、葛城をはじめ誰も靴を調べた様子がありませんし、そもそも血液がまだ凝固していない時点で靴を調べると、“靴がいじられた痕跡”を作ってしまうことになります。
*20: 避難者たちの中から直接〈蜘蛛〉を特定する手段がまったく想定できず、先に〈蜘蛛〉の正体を解き明かしてから、そちら経由で〈蜘蛛〉を見つけ出す――〈蜘蛛〉を探すのではなく正を探す――という手順だと考えていました。
*21: むしろ、事件直後の否定が強すぎる方が問題のようにも思えるのですが、“バールストン先攻法”を強く否定しておく必要があるのは理解できるので、致し方ないところではあるかもしれません。が、やはりバランスを欠いているのは確かではないでしょうか。
*22: 自分が着ていた服と同じデザインでワンサイズ大きいものを用意しておく必要があるかと思いますが、肩幅や足の長さなど全体的な体つきは、それで何とかごまかせるかもしれません。
*23: (作家名)泡坂妻夫(ここまで)の(作品名)「火事酒屋」(『亜愛一郎の逃亡』収録)(ここまで)。
水害から逃れるために館に戻ってきた〈蜘蛛〉=正が、危地を脱するための“保険”を用意していたというのは大いに納得できるところで、葛城が仕掛けたスマホの“逆トリック”が“避難者”の正体を暴くと同時に、その“保険”を手に入れるための手段にもなっているのが巧妙。そして何より、葛城が口にしていたように、謎を解くことが文字通り“全員を救う”ことに直接つながっているのが秀逸で、“ヒーローとしての名探偵”というテーマを補強するプロットが非常によくできています。
2021.03.01読了