黒い仏/殊能将之
安蘭寺の本尊である“黒智爾観世音菩薩”――顔のない黒い仏像が、“無貌の神”こと(「終章」でアントニオが言及している)“ナイアーラトテップ”(→Wikipedia)を表していることは、“その筋”の読者には明らかでしょう。というわけで本書は、巻末の「参考・引用文献」でもわかるように“クトゥルフ神話”(→Wikipedia)を下敷きにした作品であり、そのことは――あるいは少なくともオカルト要素を取り入れたミステリであることは――序盤からかなりあからさまに示唆されています(*1)。
しかしながら、そのような情報は“探偵”である石動戯作には一切示されることなく、「後期クイーン的問題 - Wikipedia」でいうところの“探偵の知らない情報が存在することを探偵は察知できない”
を地で行く状態。その石動に、“これじゃ、大生部さんに羽根があって夜空を飛べでもしないかぎり、絶対不可能だ”
(253頁)と“正しい”真相を口にさせている、作者の茶目っ気にはさすがに苦笑を禁じ得ないところですが、このような“推理”が出てくること自体がアリバイもの――特定の容疑者についてのハウダニット――ならではであり、それがうまく生かされているといえます。
そして、あくまでも(午前零時半には東京にいた)“大生部暁彦が犯人である”ことを前提としつつ、その障害となる“被害者が午後九時前まで生きていた”(そして犯人は午後十時頃まで現場にいた)ところにトリックが存在するとした石動の謎解きは、それだけを見ればまずまずよくできていると思います。特に、現場の指紋が徹底的にふき取られていたことについて、つじつまの合う解釈が引き出されているところが見事です。
もちろん、人物入れ替わりトリックそのものは陳腐といわざるを得ない――どころか、被害者が天台僧兵・慈念であることを早い段階で知らされている(58頁)読者にとっては、石動の推理が“誤り”であることは歴然としています。しかし裏を返せば、“榊原隆一”の身元が早い段階で明示されていることが、石動の解き明かす“真相”を隠蔽するのに一役買っているの(*2)がうまいところですし、何より“探偵”たる石動の視点から見る限りは問題なく成立する推理であることを、見逃すべきではないでしょう。
そして本書の最大の仕掛けは、“探偵”の推理が披露された後に、“犯人”側がそれを保証する手がかりを配置するという前代未聞の反則技です。ミステリとしては完全に掟破りではあるのですが、物語に取り入れられたオカルト要素が巧みに利用されていることは事実ですし、“手がかり→推理”というベクトルを逆転させることで、“過去の改変”というSFではおなじみのテーマをミステリにうまく取り込んであるところが秀逸です。
一見すると、“探偵”の推理は“犯人”側の“操り”によって導かれたものとも受け取れますが、その実は諸岡卓真『現代本格ミステリの研究』(北海道大学出版会)で“ウロボロス的状況”
(同書100頁)と表現されているように、“探偵”の推理によって“犯人”側が“操られている”とも解釈できる――とりわけ、手がかりの配置を行ったのが“石動の推理を聞かされた後の星彗”であって、“それ以前の星彗”は何も知らされないまま協力しているにすぎない(さらにいえば“犯人”である大生部自身は何も知らない)ことに注目――わけで、“後期クイーン問題”の観点からすれば非常にユニークな構図であることは間違いないでしょう。
また“多重解決”という観点からも、「書斎の死体/「毒入りチョコレート事件」論」で真田啓介氏が挙げている“偽の解決が生まれる原因”(*3)のどれにもうまく当てはまらないように思えるのが面白いところ。しいていえば“証拠事実それ自体の誤り”に当たるかもしれませんが、何をもって“誤り”とするのかを突き詰めて考えていくと、石動の推理が“真”になっているわけですから何ともいえないところがあります。
謎解きを終えた探偵と助手の退場をよそに、物語は“その背後では、人類の存亡を賭けた最後の闘いが始まろうとしていた。”
(307頁)と結ばれていますが、このぬけぬけとした“最後の一撃”の味わいが絶妙です。
*2: いうまでもありませんが、“榊原隆一”が慈念だという事実を知らされていれば人物入れ替わりトリックを想定する余地はないわけで、読者にとっては“盲点”となります。
*3:
“そこで結論として言えるのは、偽の解決が生まれる原因 (すなわち多重解決のテクニック) は、①証拠事実の取捨選択の誤り、②証拠事実それ自体の誤り、そして③証拠事実の解釈 (推論) の誤りの3点 ――その中でも特に①と③――に集約される、ということである。”(「書斎の死体/「毒入りチョコレート事件」論」より)。
2010.12.02読了