ブルーローズは眠らない/市川憂人
まずは二つのパートの関係ですが、「プロトタイプ」での事件の顛末を綴った日記に“一九八二年六月二十四日(木)”
(174頁)と、虚偽の日付を堂々と記してあるのが豪快です。もっとも、(作者の都合のみではなく)作中の記述者・アイリス自身が意図的に仕掛けたトリックではありますし、ここだけ唐突に“年”が書かれているのはあからさまに不自然な上に、これ見よがしに傍点まで振ってあることも踏まえれば、決してアンフェアとはいえないでしょう(*1)。
ということで、「プロトタイプ」が(日記に記された1982年よりも)過去の出来事(*2)であることまでは比較的予想しやすいのではないかと思います。そしてそうなると、二つのパート間の登場人物たちの関係も見えてきそうなところですが、“フランク”と“フランキー”――二人のテニエル博士の関係を隠蔽するのに一役買っているのが、(それだけを見れば)ややあざとすぎる性別誤認の叙述トリックです。“フランキー”という名前もなかなか微妙です(*3)が、やはりその“男っぽい”口調には――特に“U国”が舞台であることを踏まえれば(*4)――少々釈然としないものが残ります。
とはいえ、牧野茜が“フランキー”との雑談で“女性研究者は肩身が狭い”
(195頁)という話題を持ち出しているのは伏線といえるでしょうし、日記を読んだ漣が“日記の『パパ』は、テニエル博士とは明らかに別人です”
(180頁;下線部は傍点)と断言できる根拠を考えてみれば、それが強力な手がかりとなっているのが周到。すなわち、「第8章」冒頭の日記では“パパ”の人物像として“遺伝子の研究者で青バラを作り出した”程度しか示されておらず、そうすると“フランキー”との決定的な違いとなり得るのは“パパ”しかない(*5)わけですから、そこから読者が“フランキー”の性別に思い至るのは十分に可能でしょう。
いずれにしても、「プロトタイプ」の登場人物の中にあって、“テニエル博士”の名前と立場を受け継ぐに最もふさわしいのがアイリスであることは確か(*6)で、叙述トリックにかかわらず(?)〈アイリス=フランキー〉の可能性は読者の頭に浮かぶのではないかと思われますし、そこから〈エリック=ロビン〉まで疑うことも難しくないでしょう。しかしその疑いが頭にあるとかえって、「ブルーローズ」でのフランキー殺しの真相から目をそらされてしまうことになるのが、なかなか巧妙な罠といえるのではないでしょうか。
「プロトタイプ」での事件は、真相が明かされてみれば典型的な“顔のない死体”トリックではあるのですが、正体不明の“実験体七十二号”への恐怖がエリックの視点を通した描写で強調されているのが効果的。さらに、「ブルーローズ」でロビンとフランキーが発表するまで青バラが世に出ていなかったために、〈青バラ目当ての外部犯〉とは考えにくくなっているのがうまいところで、日記の中にある“青バラの苗木が、全部病気になった。”
(168頁)という伏線もよくできています。
「ブルーローズ」での事件の方は逆に、一見すると終始青バラ目当ての犯行のように思えてしまうのがポイントで、フランキー殺しの時点ではロビンに疑いが向けられるものの、続く牧野茜殺しも含めてアリバイが成立し、ついにはロビン自身が襲撃されてしまった(*7)結果として、フランキー殺しの真犯人(と動機)がしっかり隠蔽されることになっているのが実に巧妙です。加えて、前述のように〈アイリス=フランキー〉/〈エリック=ロビン〉を疑っていると、「プロトタイプ」でのアイリスとエリックの関係から、ロビンがフランキーを殺したとはなおさら考えにくいでしょう。
そして、フランキーの“偽装他殺”という構図を見抜かない限り、“被害者”側の協力が前提となっているフランキー殺しのハウダニットも解明できなくなっているのが巧妙。しかもそのハウダニット自体、アリバイトリックの要である現場の移動を隠蔽するため(*8)に密室を構成するという、二段構えのトリックになっているところがよくできています。また、準備に長い年月を要する“バラの蔓のカーテン”や、アサガオにヒントを得た“眠る青バラ”(*9)など、本書の題材であるバラが小道具となって、面白い使い方をしてあるのもお見事です。
事件関係者が限られた中にあって、(一応は)事件の捜査を担当していたジャスパーが犯人というのはやはり意外ですが、「プロトタイプ」の事件で警官が真犯人であることに気づけば、そこから見当をつけることも可能かもしれません。あるいは、漣が指摘している(312頁)ように、牧野茜殺しが可能な人物の条件を手がかりとして、捜査関係者に疑いを向けることもできそうです。とはいえ、先にそちらだけ予想がついてしまうとかえってフランキー殺しの真相が見えなくなるのが、本書の一筋縄ではいかないところです。
追い詰められたジャスパーが《深海》の棘で毒死を遂げたのは、事件の幕引きとして実に鮮やかではありますが、デルフィニンが棘から外部に分泌されるわけではないでしょうから、刺さってすぐに絶命するほど大量に体内に入るとは考えられず、さすがに無理があると思います。そもそも、デルフィニジン由来と考えられるデルフィニンが、花弁から離れた棘に(多量に)存在することからして不可解で、《深海》の中で何が起きているのかよくわかりません(*10)。
ついでにいえば、フランキー・テニエル博士の業績が“タンパク質からDNAを逆生成する”
(201頁)手法とされているのも引っかかるところです。というのも、その前――“もし、そのタンパク質をあらかじめ抽出できれば”
(202頁)の部分が途方もなく困難(*11)だからで、常道――花弁で発現するmRNAを抽出してcDNAを作り、標的の酵素の遺伝子を単離する(*12)――よりもむしろ“ハードルが上がっている”のが大きな難点。そしてまた、現在に至っても《深海》のような深い青色のバラが開発されていないことでお分かりのように、(本書ではさらりと流されているものの)酵素の遺伝子を導入した後にも難題が控えています。
仮に、本書の世界では“フランキー・テニエル博士が逆転写酵素を発見した”といった話であれば、それはもちろんノーベル賞クラスの偉大な業績ではあるのですが、しかしそれだけでは青バラ作りの上で画期的なブレイクスルーとはなり得ないのが困ったところで、“そこじゃない”感が残ってしまうのは否めません。もちろんこれは、前作『ジェリーフィッシュは凍らない』と同じく、“オーバーテクノロジー”をごまかすことなくできるだけ“現実的”に描こうとした姿勢の表れではあるのですが、何とも難しいところです。
*2: 「プロトタイプ」の物語が見えていない作中の捜査陣は、日記の内容を“過去”ではなく“虚構”と考える余地もありそうですが、“テニエル博士を名乗る女性”を“アイリス”ととらえる――そこから“過去の出来事”という真相に思い至るのは、さほど難しくはないように思います(アイリーンの存在がレッドへリングとなり得るかもしれませんが)。
*3: 女性にも使われるようではありますが、やはり男性名の印象が強いのではないでしょうか。
*4: 舞台が“U国”で、登場人物たちが英語をしゃべっている(→牧野茜の
“すみません{エクスキューズ・ミー}”(80頁)/
“ごめんなさい{アイム・ソーリー}”(81頁)という
“U国語”(80頁)を参照)――と考えると、作中の台詞は登場人物が発言したそのままではなく、マリアの“女っぽい”口調も含めて作者が恣意的に“翻訳”している、という印象が強まります。
*5: “フランキーに娘がいたらしい”という牧野茜の話(196頁)がダメ押しで、“親である”ことまで共通点となるわけですから、あとは性別の違いしか残りません。
*6: フランク・テニエル博士から手ほどきを受けたエリックが、その後研究者の道に進んだ――という経緯も考えられなくはないのですが、その場合には、ロニー・クリーヴランド牧師と無関係であるはずのないロビンの存在が浮いてしまう――女性のアイリスは、牧師である
“巌のような男”(82頁)にはなり得ない――のがネックとなります。
*7: 自殺の偽装が早々に露見しているのも、読者の疑いをロビンからそらすための企みの一環と考えていいでしょう。
*8: [図3 別宅 現場周辺図](131頁)と[図4 教会 現場周辺図](246頁)で温室周辺の位置関係を示してありますが、図の向きが違うこともあって、読者が両者の類似に気づくのは少々難しいように思います。
*9: マリアが発見した場面(251頁~252頁)の描写だけで
“違和感を覚えた”(278頁)ことまでは読み取れないと思いますし、アサガオだけをもとに“眠る青バラ”の存在を見抜くのは至難の業なので、実のところ、読者がトリックを解き明かすのはほぼ不可能といわざるを得ないでしょう。
とはいえ、『ブルーローズは眠らない』という題名にもかかわらず、“眠る青バラ”を仕掛けとして使ってくるところにニヤリとさせられます。
*10: 棘は蓄積器官ではないので、花弁のデルフィニジンから生じたデルフィニンが棘に蓄積されたというよりも、(プロモータの問題はさておき)棘でデルフィニンが合成されていると考えるべきかもしれませんが、その場合、デルフィニン自体は無色(→
“colorless solid”(「Delphinine - Wikipedia」より))としても、その前駆体であるデルフィニジンも多量に生成されているはずなので、見るからに棘の色が違うのではないかと思われます(作中では
“濃い青緑色の棘”(60頁)とされていますが、どちらかといえば赤紫色になりそうな気が)。
*11: 細胞内に大量に存在するタンパク質が標的であれば別かもしれませんが。
*12: 当然といえば当然ですが、「青いバラ (サントリーフラワーズ) - Wikipedia」によれば、現実の青バラ作出でもこちらの手法が採用されています。
2017.09.27読了