旧宮殿にて/三雲岳斗
2005年発表 (光文社)
- 「愛だけが思いださせる」
- この時代ならではのシンプルな消失トリックはまずまずですが、そこにルドヴィコのマントが一役買っているのが面白いところです。そして、バロッタ嬢の肖像画をコンテ嬢に描き直させるガッフーリオの“せこさ”と、それに気づきながらも事態を丸く収めようとするバロッタ嬢のさりげない心遣いが、鮮やかなコントラストをなしています。まあ、最後にレオナルドが指摘しているように
“別れた男のために女が最後の世話を焼き、彼女の献身に男が甘えた”
(60頁)というだけのことではあるのですが。
ところで、「リュート - Google イメージ検索」を見ると、肖像画に描かれたリュートの弦の天地がわかるのかどうか、少々疑問ではあります。
- 「窓のない塔から見る景色」
- レオナルド自身も興味を持っていたらしいカメラ・オブスクラ(「カメラオブスキュラ」を参照)がトリックに使われているところがよくできています。ただ、上下反転した映像をもとにして絵を描くのは、少なくとも素人にはかなり難しいのではないかと思われるのですが……。
一方、塔からの脱出トリックについては、やはりその豪快さがまず目を引きますが、羊の死体で隠蔽するという細かい工夫も見逃せないところです。サイズや強度が人間一人を受け止めるのに十分なのかどうかは多少気になりますが、羊一頭分の腸しか使えないというわけでもないので、さほど問題ではないでしょう。
- 「忘れられた右腕」
- チェチリアが目にしたバラバラの彫像やレオナルドが語る贋作論など、前半でヒントを出しすぎで、犯人の意図はかなりわかりやすくなっています。とはいえ、蝋で作られた偽物を燃やすというシンプルなトリックはよくできていますし、台座の部分まで工夫されているのは巧妙です。
- 「二つの鍵」
- 非常によくできた作品ではありますが、解決の手順には若干難があると思います。
まず、“箱が何者かによって一度開けられた状態でなければなりません”
(239頁)というレオナルドの台詞までは妥当ですが、次の“箱が銀の鍵で施錠されていた場合ということですか?”
というアレッシオの台詞には論理の飛躍があります。なぜなら、一度箱が開けられた後にファブリツィオが持っていたはずの金の鍵で施錠される場合が抜け落ちているからです(その直前までの箇所で否定されているのは、あくまでも“箱が金の鍵で施錠されたままの状態”
、すなわち箱が開けられなかった状態であることにご注意ください)。
これは、“犯人の手元には金の鍵がなかった”
(244頁)ことを明かすのを後回しにしたことで生じた問題で、おそらく結論の方から推理が組み立てられたために見落とされてしまったのでしょう。また、そもそもこの時点では、箱が開けられたか否かだけを問題にすべきではないかとも思います。
そしてもう一つ、“それは銀の鍵が使われたときだけです”
(240頁)というレオナルドの台詞では銀の鍵がいつ使われたのかはっきりしないにもかかわらず、エウスタキオの“自白”もあって、箱が事前に銀の鍵で一度開けられていたことが確定しています。しかし本来であれば、犯人がファブリツィオ殺害後に銀の鍵で箱を開けたという可能性も検討しなければならないはずです。
こちらも基本的には手順の問題ですが、少々厄介です。犯人が犯行後に銀の鍵で箱を開けたことを否定するには、箱が施錠されずに持ち去られたことに言及する必要があると思われますが、これはこの作品のポイントである犯人特定のロジック(犯人は(金の鍵のみならず)銀の鍵を使うことができなかった)とかぶってしまいます。それでいて、銀の鍵を使えば施錠できるという事実に変わりはないのですから、実のところは誰がどの鍵で箱を開けたのかは犯人特定に直接影響しないわけで、ますますそれを特定するタイミングが難しくなります。
そのあたりのことを考えて、例えば以下のような手順ではどうでしょうか。
- 1.状況の整理
- まず、遺言書の内容にかかわらず、箱が開かれていればガブリエッラがすべてを相続することになり、その場合には彼女と結婚の約束をしているエウスタキオも実質的にすべてを相続することになります。また、ガブリエッラとアレッシオを除く嫡子四名は、遺言書が紛失した場合に財産を分割して相続することになります。
これらの条件から、箱が開けられていない状態で想定できる状況は以下の表のようになります。
[箱が開けられていない状態] 全部相続 一部相続 相続なし バジリオ 後継者となる 遺言書の紛失 箱が開けられる コルネリオ 後継者となる 遺言書の紛失 箱が開けられる エウスタキオ 後継者となる
箱が開けられる遺言書の紛失 アレッシオ 後継者となる 遺言書の紛失
箱が開けられるダニエーラ 後継者となる 遺言書の紛失 箱が開けられる ガブリエッラ 後継者となる
箱が開けられる遺言書の紛失
- 2.箱が開けられたこと
- ここで注目すべきは、箱が開けられない状態では遺言書の紛失によって利益が最大となる人物は存在しないという点です。したがって、
“犯人は最大の利益を求めようとする”
(238頁)という前提を考えれば、箱は一度開けられたということになります。
ファブリツィオが金の鍵で施錠していた以上、いずれかのタイミングで銀の鍵が使われたことは確実ですが、エウスタキオが事前に一度箱を開けていた可能性があることを考えると、銀の鍵を持っていた三人に加えてファブリツィオ自身が最後に箱を開けたということもあり得ます。したがって、自力で箱を開けることができなかった人物が犯人でないとは限りません。
- 3.金の鍵が使われなかったこと
- 箱が開けられた時点では、六名の後継者候補に共通する最善の策はもちろん、(書き換えの場合も含めて)自分を後継者とする遺言書を箱に収めて金の鍵で施錠することです(ただし、ガブリエッラとエウスタキオに限っては、箱を開いたままで放置しておいても十分ですが)。それがなされていないということは、犯人が金の鍵を入手できなかったことを意味します。
開けられた箱を金の鍵で施錠することができないという条件では、考えられる各人の行動とその結果は以下の表の通りです。
[箱が開けられた状態] 全部相続 一部相続 相続なし バジリオ 遺言書を書き換えて銀の鍵で施錠 遺言書を持ち去る 箱を開けたまま放置 コルネリオ 遺言書を書き換えて銀の鍵で施錠 遺言書を持ち去る 箱を開けたまま放置 エウスタキオ 遺言書を書き換えて銀の鍵で施錠
箱を開けたまま放置遺言書を持ち去る アレッシオ 遺言書を持ち去る
箱を開けたまま放置ダニエーラ 遺言書を持ち去る 箱を開けたまま放置 ガブリエッラ 箱を開けたまま放置 遺言書を持ち去る
- 4.銀の鍵が使われなかったこと
- 箱が銀の鍵で施錠された状態で残されるのではなく、持ち去られてしまっている以上、バジリオ・コルネリオ・エウスタキオが犯行後に銀の鍵を使ったという可能性は否定されます。したがって、最終的に箱を開けたのはファブリツィオということになり、バジリオとコルネリオには事前に箱を開けるメリットはないのですから、銀の鍵を使ったのはエウスタキオしかあり得ません。
そして、遺言書を持ち去ることで利益が最大となる(*)のはダニエーラなので、彼女が犯人という結論になります。
*: 厳密には、“利益がより大きなものとなるような選択肢がある人物は犯人ではない”というべきで、箱が開けられた上に金の鍵も銀の鍵もない状態では、自分が直接利益を得られる選択肢のないアレッシオが犯人である可能性は排除できないと思います。例えば、自分が財産を相続できなくてもガブリエッラには渡したくないと考えた可能性は否定できません。もちろん最初からその程度の動機で殺人を犯すとは考えられませんが、ファブリツィオから金の鍵を奪うことができてさえいれば遺言書の書き換えは可能だったわけで、ファブリツィオが金の鍵を飲み込んでしまったことで計画変更を余儀なくされたということもあり得るのではないでしょうか。
- 「ウェヌスの憂鬱」
- 二段構えの叙述トリックが非常に秀逸です。もちろん、犯人である“私”がレオナルドだとは思いませんでしたが、そちらの引っかけがあまりにも見え見えなだけに、“私”の相手がチェチリアだと誤認させるもう一つのトリックには騙されてしまいました。
もう一つ、被害者ダンジェロが残した二重三重のダイイングメッセージも圧巻です。語呂合わせや暗喩に長けた詩人ならでは、という説明にも説得力が感じられます。
これらのネタに喰われる形で、“ブルネレスキの鏡”というトリックがすっかり影の薄いものになっているのはご愛敬というべきか。