ミスター・ディアボロ/A.レジューン
Mr. Diabolo/A.Lejeune
本書には二つの不可能状況が盛り込まれていますが、やはりハウダニットとしては期待はずれといわざるを得ないでしょう。
まず〈悪魔の小道〉での消失は、監視の目をはずれたところでの“早変わり”による一人二役トリックで、すぐに思い出せるところではジョン・ディクスン・カー(カーター・ディクスン)の作品に複数の前例がある上に、カーが作品ごとにそれぞれアレンジを加えながら再利用しているのと比べると、本書ではあまりにストレートにすぎるきらいがあります。また、“早変わり”のために処分が容易な紙の服を使う点についても、前述のカー作品の中に同様の前例があり(*1)、総じてあまり見るべきところはありません。
一方の密室殺人については、もはや前例が思い出せないほどの陳腐なトリックで、密室ミステリとしてはお話にならないものですし、それが犯人に直結する手がかりとなるに至っては何をかいわんやといったところです。
もちろん、訳者の小林晋氏による解説「アントニー・レジューン覚え書き」で指摘されている、“既存の密室トリックを使ったことに対する批判は的はずれになってしまう”
(321頁)点は理解できるところ。それはまたそれで少々“あざとい”ように思えてしまうのは否めませんが、本書がトリック(密室/消失のハウダニット)勝負の作品でないことは確かで、それは解決の手順にもよく表れていると思います。
実際のところ、探偵役のアーサー・ブレーズは早々に犯人を特定しています(*2)し、“皆さんは夜警に間違った質問をしたのですよ。”
(297頁)という印象的な台詞(*3)に対応する“君たちが彼らに適切な質問をしなかったのではないか”
(59頁)との発言が序盤にあるところ、その時点で消失トリックもほとんど見抜いていることがうかがえます。しかし、一同を集めた解決の場面(第十四章)では、直接犯人を特定可能な密室トリックにはあえて言及されることなく、終始犯人の動機を明らかにすることに重点が置かれているのがユニークです。
密室トリックが犯人に直結するものでありながら、なかなか容易には真犯人が見えなくなっているのは、まさかそこまで陳腐なトリックだとは思いもしない(苦笑)ということもありますが、やはりテトフォードのフレイザーに対する動機が巧妙に隠されていることによるといえるでしょう。実をいえば、作中でも“動機を見渡した結果、われわれの眼を一層直接的に引きつけたのは……”
(275頁~276頁)とあるように、動機そのものは密室トリックと同様に犯人に直結するものなのですが、その背景となる事実――フレイザーとテトフォード夫人との情事が周到に隠されているのがうまいところです。
その隠された情事の存在を明らかにする手順、特にフレイザーからバーバラへの手紙の宛名がタイプライターで打たれていたことを手がかりとしたロジックは非常に秀逸で、大いに見ごたえがあります。そして解き明かされた真相を踏まえてみると、本書冒頭での“探偵小説談義”の中の、“残念ながら、探偵小説はもはやそうではない(中略)現代では心理と欲望だらけだ。”
(24頁)という一節にも、密室トリックに対するブレーズの台詞(*4)と同様に、作者の深い意図が込められているように思われます。
*2: 解決場面で
“真犯人がテトフォードであることは最初からほとんど疑っていなかった。”(290頁)と発言しているだけでなく、少なくとも物語の半ば過ぎの時点で
“犯人はわかっています”(187頁)と公表しています。
*3: その後に続く、
“すると、フレイザーはどこから来たのでしょうか? ちょうどミスター・ディアボロが忽然と消え失せたように、小道の真ん中から突如として謎の出現を果たしたわけです。”(298頁)というブレーズの説明は、泡坂妻夫の某作品(以下伏せ字)「飯鉢山山腹」(『亜愛一郎の逃亡』収録)(ここまで)の解決場面での台詞――
“無理に筋道を立てようとすると、○○は○○のあたりで煙のように消失し、代わって、○○がお化けみたいに現れた、と考えなければならなくなります”(ネタバレ防止のため一部伏せ字)――を思い起こさせるものです。
*4: 解説でも引用されている、
“そのような装飾は捜査官に対する妨害になるよりも助けになることが多いのです。”(264頁)。
2009.11.30読了