詩人の恋/深水黎一郎
「第三部」では、“瑠衣ちゃん”から相談されたストーカーが、“俺より15センチほど背の低い男”
(70頁)(*1)なので安心していたところ、終盤に来て“俺”の日課(88頁~89頁)が明かされると途端に雲行きが怪しくなり、警官に声をかけられる場面ではドキドキさせられましたが、警官の言葉が叙述トリック的なのがまたたちの悪いところです(苦笑)。考えてみれば、毎日立ち寄るというだけでコンビニの店員が不審を抱くはずもなく、“俺”を目的とした不審人物の存在が匂わされていたということでしょう。
「第五部」では、「第三部」で言及されていた連続通り魔殺人が絡んできますが、巌見が犯行を予期していたところに驚かされます。当日の日付は事前に明かされていませんが、過去の事件が“2月8日”
(77頁)と“5月21日”
(73頁)に起きたことは「第三部」で示されているので、巌見が“今日が8月13日だからです”
(171頁)と口にした時点で(現場に残された松毬も併せて)、フィボナッチ数(→Wikipedia)(*2)に思い至ることも不可能ではないかもしれません。
*1: 身長が“175センチくらい”
(70頁)ということで、女性とは考えにくいのもうまいところで、(元)バレーボール部員という設定が効いています。
*2: “何か研究とかしている人”
(172頁)という犯人像は、阿井先生に疑いを向けるレッドへリングの意味もあるのかもしれませんが、独文学とフィボナッチ数は関連が薄いので穿ちすぎでしょうか。
「第三部」と「第五部」の恋物語がある種ミスディレクションになっている感もないではないですが、「第四部」に挿入されているシューマンの手紙をみれば、“真相”の概略――殺人者の“物語を秘かに忍び込ませる”
という狙い、さらに“詩句を慎重に選び出し、その順番をほんの少し変えて歌曲集を編むことによって”
(いずれも104頁)という手段まで、読者には明らかでしょう。この手紙が物語前半に配置されている(*3)のはおそらく、“〈恋の喜びと失恋の悲しみの歌〉の奥に隠された〈殺人者の物語〉”という途方もない“真相”に説得力を与えておくためであり、また概略から先の部分――瞬一郎が解き明かす具体的な実装へ読者の関心を持っていくためではないかと思われます。
そして「第七部」では芸術探偵の謎解きが、『トスカの接吻』や『ジークフリートの剣』に登場したテノール歌手・藤枝和行を相手に、しかもリサイタルのための練習――“レッスン”を通じて行われるのが非常に秀逸。“ワトスン役”の和行とともに《詩人の恋》の一曲一曲を演奏しながら手がかりを指摘していき(*4)、シューマンの企みを解き明かすだけでなく、それを踏まえて再び和行とともに、“こう演奏すべしという理想の《詩人の恋》”
(244頁)を実現するところまでいくのが圧巻で、まさに芸術探偵ならではの謎解きといえるのではないでしょうか。
主な手がかりとなっているのは詩の選択と順序ですが、プレオリジナル版からの4曲の削除や、第8曲と第9曲/第10曲と第11曲の“逆行”
(273頁)など、シューマンの作為を示す事実が存在することに着目し、“自分の詩集が一貫したストーリーを持った物語として読まれることを拒否したかった”
(307頁)とされるハイネの詩を材料として、シューマンが隠された物語を作り上げたとする解釈が実に見事。
そして“一貫した物語”という解釈に基づけば、第12曲から第15曲で“僕”が敷地の外に出ていないことや、第15曲の“もし僕がそこに行くことができるなら!”
・“自由で倖せになることができたなら!”
(296頁)という歌詞から、“僕”が自由の身ではないと推測できるのは確かですし、第8曲後奏の“黒い雲のような旋律”
(69頁)(*5)を経て第10曲の“暗い憧れ”
(274頁)、第13曲の“君が墓に横たわっている夢”
や“君がまだ僕のことを好きでいてくれる夢”
(286頁)を見て泣いたという歌詞、第14曲で“君”から“優しい言葉”
とともに渡される“糸杉の束”
(291頁)などから、“僕”の行為を読み取ることもできます。第11曲の三人称が“供述書”を表現しているという解釈にはうならされますし、第16曲の“棺桶”
がより直接的な意味を持つとともに、“君たち”
の意外な正体が浮かび上がってくるのに脱帽です。
*3: 具体的な位置としては、「第六部」で阿井先生が現物を目にするのでそれよりも前、そして「第三部」での主人公の素朴な疑問に対する一つの答となるのでそれより後――ということで、妥当なところでしょう。
*4: リサイタルの本番ではこうはいかないのはいうまでもありません。
*5: これだけでなく大半が、「第三部」でポイントとして言及されているのがすごいところです。
物語は最後に、脅迫者からシューマンの手紙を手に入れた“私”――ブラームスの独白で幕を閉じます。シューマンの意思に従わず後世に手紙を残す決断に加えて、ブラームス自身も“何らかの形でヒントを遺して行く”
(339頁)ことが示され、第3曲の“Bronne”と“Wonne”の誤りに関して「第五部」で日菜子先生が提唱している(156頁~157頁)、“ブラームス犯人説”の“答え合わせ”がされています。作中では、「第六部」でシューマンの手紙が焼失してしまったので、ブラームスのヒントがなければ瞬一郎といえども“真相”にたどり着くことができなかったかもしれない――と考えると、何とも感慨深い結末です。
ところでこの部分について、「詩人の恋 / 深水 黎一郎 | taipeimonochrome」に“第一部からの続きと見られる過去の逸話がエピローグとして第七部における芸術探偵の謎解きシーンを終えたあとに空行もなく配されているのですが、これ、紙版でもこうなんでしょうか?”
とありますが、いわれてみれば(*6)紙版でも確かに空行はないようです。作者がそこで物語を“切る”つもりであれば、前の頁を少なくとも一行空けることも難しくなさそうなので、これは――頁の切れ目で目立たないようにしつつ――意図的につなげてあると考えるべきでしょう。
これについて作者の狙いを考えてみると、場面の転換ではなく一続きとして読んだ場合には、瞬一郎と和行による謎解きが一段落したところで突如として“私”が出現するわけですから、視点人物の隠匿の叙述トリック(*7)と似たような効果、すなわち(叙述トリックと違って登場人物にも認識されていない)“ブラームスの意思”(*8)がその場に存在していたことを表している、と考えることもできるのではないでしょうか。
*6: “紙版”では頁をめくる動作が入るせいか、まったく意識していませんでした(恥)。
*7: 拙文「叙述トリック分類#[A-31-1]視点人物の隠匿」を参照。
*8: 明らかに瞬一郎の謎解きを認識していないので、“意識”ではありません。