ジークフリートの剣
[紹介]
「幸せの絶頂で命を落とす」――若きテノール歌手・藤枝和行が、婚約者・遠山有希子に連れられて訪ねた占い師の老婆は、有希子に対して不吉な予言を下した。やがて和行は、バイロイト音楽祭における『ニーベルングの指環』のジークフリートという大役を射止め、さらにソプラノ歌手である有希子も同じ『指環』への出演が決まったのだ。しかしその矢先、老婆の予言が成就したかのように、有希子は列車事故で不慮の死を遂げる。残された和行は有希子への思いから、その遺骨を身に着けて舞台に立つことを決意するが、ジークフリートさながらに恐れを知らず生きてきた和行は、やがて一人の美女に惹かれていき……。
[感想]
〈芸術探偵シリーズ〉の『トスカの接吻』に登場していた世界的テノール歌手・藤枝和行を主役とし、そちらの中でも少しだけ言及されていたエピソードを長編に仕立て上げた、〈芸術探偵シリーズ〉のスピンオフ的な作品。作中の時系列では本書の方が先になりますが、できれば『トスカの接吻』を先に読んでおくことをおすすめします(*1)。
“芸術探偵”神泉寺瞬一郎を主役としたこれまでのシリーズでは、“芸術”と“事件”とを巧みに組み合わせた独特の芸術ミステリが展開されていましたが、本書では「序章」の怪しげな占い師の予言が目を引くものの、その後は事件らしい事件が起こることもなく、ワーグナーのオペラ『ニーベルングの指環』(→Wikipedia)を掘り下げていきながら、主人公・藤枝和行が出演する大舞台に向かって進んでいく――つまりは、一見すると完全に“芸術”の方に軸足を置いたミステリらしからぬ物語であるように思われます。
舞台上でもまったく緊張することなく(*2)、独善的ともいえる思考と言動を見せる主人公が、恐れを知らぬ“ジークフリート”その人に重ね合わされている(*3)ことは明らかですが、さらに目次の章題などでも示唆されているように、『ニーベルングの指環』を題材とした本書全体が緩やかに『ニーベルングの指環』をなぞった二重構造となっているのが興味深いところ。このあたりについては「taipeimonochrome ミステリっぽい本とプログレっぽい音樂」で詳しい読解がなされています(*4)が、一筋縄ではいかない作者らしい趣向といえるのではないでしょうか。
物語はミステリらしい部分をほとんど見せることのないまま進んでいきますが、いよいよ『ニーベルングの指環』の開演が目前に迫った終盤に至って、突如としてミステリとしての姿をあらわにし始めるという構成がユニーク。(以下、微妙にネタバレ気味なので一応伏せ字)『ニーベルングの指環』に関する“謎解き”もさることながら、それまで埋もれていた“謎”が突然浮かび上がる――より正確にいえば、いきなり“謎解き”が始まることによって、周到に隠されていた“謎”に驚かされる(ここまで)という、ひねくれた企みが面白いところです。
そして“謎解き”の後に用意されている、何とも凄まじく美しい結末が圧巻。それ自体が数々の伏線に支えられているのみならず、直前の“謎解き”までが結末をより強く印象づけるのに貢献しているのがまたすごいところです。これまでになく“芸術”を前面に押し出した体裁をとりながらも、最終的には“芸術”と“ミステリ”が見事に融合している、実に読みごたえのある傑作といえるでしょう。
*2: 緊張を避けるための、主人公独自の方法が印象的です。
*3: 中盤以降の、一見すると常識はずれと受け取れる思考と行動も、一つにはこの重ね合わせに起因しているといえるのではないでしょうか。
*4: 私見ではややネタバレ気味とも思えるので、上では直接リンクはしませんでしたが、該当記事はこちら→「taipeimonochrome ミステリっぽい本とプログレっぽい音樂 » ジークフリートの剣 / 深水 黎一郎」。
2010.10.09読了 [深水黎一郎]
時の地図(上下) El Mapa del Tiempo
[紹介]
1896年、ロンドン。恋人を切り裂きジャックに惨殺された大富豪の息子アンドリューは、西暦2000年へのタイムトラベル・ツアーを催す時間旅行社を訪ねる。過去に戻って恋人を救おうと考えたアンドリューだったが、時間旅行社では過去へのタイムトラベルは不可能と聞かされ、小説『タイム・マシン』を発表した作家H.G.ウエルズの力を借りることに……。/現代社会への不満を抱えつつタイムトラベル・ツアーに参加した上流階級の娘クレアは、西暦2000年の世界で人類を率いて自動人形と戦うシャクルトン将軍と出会い、風変わりな恋に落ちていくのだが……。/未知の凶器で胸に大きな穴をあけられた死体が発見され、現場の壁にはウエルズが書き上げたばかりで未発表の小説『透明人間』の冒頭が記されていた。愕然としたウエルズだったが、さらに殺人は続いていき……。
[感想]
スペインの作家フェリクス・J・パルマの(少なくとも本国での)出世作(*1)である本書は、怪奇/SF作家として知らぬ者のないH.G.ウエルズへのオマージュに満ちた作品であり、19世紀末のロンドンを舞台としてタイムトラベルをめぐる冒険を描いた、SFともミステリともファンタジーともつかないジャンルを超えた快作です。
物語はほぼ独立した三つのエピソードからなるオムニバス形式で、作中でなぜか行われている未来へのタイムトラベル・ツアーなど、いずれのエピソードでもタイムトラベルがテーマとなっており、そこで『タイム・マシン』の作者であるH.G.ウエルズその人が、それぞれ異なる形の重要な役割を果たすという凝った構成が秀逸。またウエルズのみならず、切り裂きジャックや〈エレファント・マン〉ことジョゼフ・メリック、『吸血鬼ドラキュラ』の作者ブラム・ストーカーなど、実在の人物を巧みに物語に絡めてあるのも面白いところです。
まず「第一部」の主役は、切り裂きジャックに殺された恋人を救うために過去へタイムトラベルしようとする青年アンドリュー。“過去の改変”はタイムトラベルSFではポピュラーなテーマですが、まだウエルズが『タイム・マシン』を発表したばかりの年代であるため“タイムパラドックス”という概念は存在せず、登場人物の誰一人としてパラドックスなど考えもしないまま話が進んでいくのが何とも新鮮です。そして結末は実に巧妙といわざるを得ないもので、印象的な最後の一言が鮮やかに幕を引きます。
続く「第二部」は打って変わって、百年もの時間で隔てられた恋人たちの物語……ではありますが、序盤からいきなりの意表を突いた展開で読ませます。さらに、これも意外な形で恋物語に絡むことになるウエルズの役どころもなかなかの見もので、恋する二人にウエルズを加えた三人の思惑が錯綜するプロットに、そこはかとなく奇妙な味わいが漂っているのも見逃せません。とはいえ、純粋に恋愛ものとしても見ごたえがありますし、急転直下のクライマックスから結末への流れもお見事。
最後の「第三部」はまた一転して、殺人事件を発端としたサスペンス風の物語(*2)で、ついにウエルズ自身が主役となって奇妙な冒険に巻き込まれていくことになります。巧みにひねりが加えられてはいるものの、全体としてはある意味オーソドックスであるがゆえに、ある程度予想がついてしまう部分がないでもないのですが、それでも読みごたえのある物語に仕上がっていると思います。時おり案内役として顔を出している作者自身をも含めたカーテンコール的な部分も効果的で、読み終えて深い感慨の残る作品といえるでしょう。
2010.10.19 / 10.22読了 [フェリクス・J・パルマ]
死なない生徒殺人事件 ~識別組子とさまよえる不死~
[紹介]
生物教師・伊藤が着任した女子高・私立藤凰学院には、“永遠の命を持った生徒がいる”という噂があった。同僚の教師からその話を聞かされた伊藤は生物教師らしく一笑に付すが、やはり同級生から聞いて興味を持った様子の受け持ちの転入生・天名珠と話し合っているところへ、一人の生徒が声をかけてきた。その生徒――識別組子は、自分がその“死なない生徒”だというのだが、詳しいことを尋ねてもはぐらかすばかりで何も教えてくれない。そうこうするうちに、その識別組子が何者かに殺害され、首を切断された死体となって発見されるという、何とも皮肉な事件が起きてしまった――のだが……。
[感想]
デビュー作『[映]アムリタ』など、独特のライトノベル風ミステリ(ミステリ風ライトノベル?)を発表している作者の第3作となる本書は、題名に“殺人事件”と入ってよりストレートにミステリらしくなっているかと思いきや、それが“死なない生徒”という言葉と組み合わされてミスマッチを生じているところにも表れているように、またまた一筋縄ではいかない作品となっています。
当然ながら、“永遠の命とは何か”が一つのテーマとなっているわけですが、主人公・伊藤による生物教師らしいきっちりした“命の定義”がいきなり披露されるなど、序盤からすでに様々な可能性が検討されている(*1)のが面白いところで、いわば作者自ら“ハードルを上げた”状態でどうやって裏をかいてくるか、という期待を持たせます。そして、“永遠の命”に興味を持つコンビ――主人公の伊藤と何ともずれた転入生・天名珠の前に、当の“死なない生徒”識別組子が姿を現すのですが……。
その識別組子があっけなく何者かに殺害されてしまうという、肩すかし気味で皮肉な展開が何ともいえませんが、さらにそこから先の“外し具合”もまた作者らしいところ。誰しも予想するところだと思うので書いてしまいますが、(一応伏せ字)“死なない生徒”識別組子は確かに“復活”する(ここまで)――ものの、それはやや意外な形をとっており、結果として事件の謎と“永遠の命”の謎がともに物語を強力に引っ張りながら、急転直下のクライマックスへとなだれ込んでいきます。
実のところ、少なくとも事件の方については真相がある程度見えてしまう――というよりも積極的に示唆されている――部分もあるのですが、それでもクライマックスの一種異様な“対決”の中でトリッキーな謎解きが行われるのが面白いところ。二つの真相そのものは、読者が手がかりに基づいて推理できるような類のものとはいえないかもしれませんが、提示された真相が思わぬ伏線と結びついて腑に落ちる感覚が非常に鮮やかです。
特筆すべきは最後に明らかになる“ある理由”で、これまた思わぬ伏線も相まって強烈な“最後の一撃”となっています。これまでの作品と同様、無理が生じる部分を主人公の視野(もしくは語り)の外に追いやり、あたかも存在しないかのように装うことで初めて成立しているところはありますが、それをさしたる瑕疵と感じさせないのはやはり、伏線の巧みさ(*2)によるところが大きいでしょう。一風変わったホワイダニットの秀作として、ミステリファンにもぜひ一読をおすすめします。
2010.10.27読了 [野﨑まど]
セカンド・ラブ
[紹介]
1983年元旦、里谷正明と内田春香はスキー旅行で出会った。スキー経験があるということで正明が会社の先輩・紀藤和彦に誘われ、同行する紀藤の恋人・高田尚美が友人の春香を連れてきたのだ。良家のお嬢様で超のつく美人、今は大学院に進学しているという春香に対して、家庭の事情で大学に進学できず、家具会社の工場で働いている正明は引け目を感じたが、紀藤と尚美の勧めもあって二人はやがて交際を始める。しかしある日二人で銀座を歩いていると、突然現れた中年の男が春香を「美奈子」と呼び止めた。どうやら歌舞伎町にある《シェリール》という店のホステスと、春香が瓜二つだったらしい。気になって《シェリール》を訪ねてみた正明は、そこで半井美奈子と出会った……。
[感想]
続編というわけではないものの、『セカンド・ラブ』という題名(*)はもちろんのこと、帯にも“『イニシエーション・ラブ』の衝撃、ふたたび”
と大々的に謳われているように、傑作『イニシエーション・ラブ』の“姉妹編”的な位置づけとなっている、“恋愛小説に擬態したミステリ”の第二弾。物語に直接の関連はありませんが、読者がすでに『イニシエーション・ラブ』を読んでいることを想定して書かれている節があるので、できればそちらから先に読むことをおすすめします。
主な舞台となるのは1980年代の東京で、『イニシエーション・ラブ』の静岡と比べると作者自身なじみの薄い土地だったのか、当時を強く意識させるディテールがあまり目立っていない感はありますが、携帯電話が存在しない時代ならではの(今となっては)もどかしい恋愛が描かれているのは同様。もっとも、『イニシエーション・ラブ』よりも登場人物たちの年齢層が若干高くなることで、恋愛が結婚を見据えたものになっているのが目を引きます。
実際に本書の「序章」では結婚披露宴の様子が描かれ、物語本編はカットバックでそこに向かって進んでいくという構成ですが、“結末”であるはずの「序章」の中で謎のようなものの存在が匂わされ、いわばミステリとしての読みどころが序盤から暗示された形になっているあたりが、謎そのものを見出すのが容易ではない『イニシエーション・ラブ』とは一線を画しているといえるでしょう。
前述のように『イニシエーション・ラブ』よりも登場人物たちの年齢層が上がっている分、ある種の切実さ――とりわけ“性”に関して――が表に出ている感があり、またその裏返しともいえる身も蓋もない計算のようなものが透けて見えるところもあるなど、より“痛さ”を増した物語となっている印象で、「序章」で描かれた結婚披露宴という“結末”が控えているにもかかわらず、物語が進んでいくにつれてイヤな予感が高まっていくところが何ともいえません。
最後に用意されている結末は、一見すると衝撃度・完成度ともに『イニシエーション・ラブ』に及ばないようにも思えるものの、そのあたりまではおそらく作者も織り込み済み。最大の見どころは、まったく思いもよらないところから襲いくる“最後の一撃”で、『イニシエーション・ラブ』とはやや違った形ながらもその衝撃はやはり強烈です。『イニシエーション・ラブ』を凌駕するとはいかないまでも、“姉妹編”として十分に及第点といえるのではないでしょうか。
2010.10.29読了 [乾くるみ]
殺す手紙 La Lettre qui tue
[紹介]
空襲の焼け跡にある物置小屋へ行き、午後八時ちょうどにランタンを灯してほしい――親友のフィリップ・マクドーネルから、不可解な指示が書き連ねられた手紙を受け取ったラルフ・コンロイは、フィリップの正気を疑いながらもその指示に従い、目的の物置小屋にたどり着く。だが、そこに警官が踏み込んできたのを皮切りに、ラルフは事件に巻き込まれることに。何とか警官を振り切って手紙で指示された屋敷に潜り込むと、そこで催されていたどこか奇妙なパーティーの席上には、五年前に空襲で死んだはずの妻ジョゼフィーンにそっくりな女性の姿が。挙げ句の果てにラルフは、屋敷で起きた殺人事件の容疑者にされてしまう。一体何が起こっているのか……?
[感想]
ポール・アルテといえば、ツイスト博士を探偵役として密室殺人などの不可能犯罪を中心に据えた〈ツイスト博士シリーズ〉が代名詞ですが、感覚的には久々(*1)の邦訳となる本書はノンシリーズの長編。ツイスト博士どころか不可能犯罪も登場しない、第二次大戦直後のロンドンを舞台とした“巻き込まれ型サスペンス”と謳われています。
もっとも、実のところはさほどサスペンスが重視されているという風でもなく、むしろジョン・ディクスン・カー好みの――例えば『アラビアンナイトの殺人』や『死者はよみがえる』あたりに通じる――発端の不条理さを狙ったものではないかと思われるのですが、いずれにしても、物語の冒頭で早々に事件が起きるのではなく、親友からの不可解な手紙をきっかけにたたみかけるような謎の、いわば一つの“仕上げ”として事件が用意されているあたりはなかなか凝っています。
かくして、窮地に追い込まれて自ら“探偵”役となることを余儀なくされた主人公が、“何が起こっているのか”を懸命に解き明かそうとするホワットダニットが物語の軸となる……わけですが、本格ミステリらしい謎解きでないのはまだ仕方ないとしても、主人公が思いのほかとんとん拍子に(一部の)真相を暴いていき、またあっけなく窮地から脱してしまうという中盤は、いくら何でもあっさりしすぎといわざるを得ないところで、“サスペンス”というにはスリルに乏しいのは否めません。
とはいえ、そこから物語が少々意外な展開(*2)を見せ始めるのが本書のユニークなところ。いささか“作りすぎ”の感がないでもないものの、あくまでも“アルテ流”のパロディめいたものととらえれば十分に楽しめると思いますし、事件の様相さえもがらりと一変してしまうのはなかなか見ごたえがあります。そして事態はさらに二転三転していき、一部の真相は見えやすくなっていながらも、全体としてはそれなりのサプライズが生み出されています。
手がかりに基づいた本格的な謎解きこそありませんが、ひねくれたプロットの中に巧みに配置された伏線が効果的なのも見逃せないところ。不可能犯罪のないノンシリーズの作品ということで、正直なところあまり期待していなかったのですが、そのせいもあってか意外に面白く読むことができました。決して代表作とはいえませんが、一風変わった試みに挑んだ異色作として一読の価値はあるのではないでしょうか。
2010.11.08読了 [ポール・アルテ]