どんどん橋、落ちた/綾辻行人
本書では、「フェラーリは見ていた」を除いて、作中作を導入した明確なメタフィクション形式が採用されています。またその「フェラーリは見ていた」でも、K子さんの語る事件の内容を外部の視点(綾辻視点)から吟味するという、メタフィクションに近い構成となっています。これは、ネタバレなしの感想にも書いたように、単なる推理クイズではなく小説としての体裁を整えるといった意味もあるのでしょうが、純粋にミステリとしての要請に基づくものでもあると考えられます。
お読みになった方はおわかりのように、本書では叙述トリックが多用されているのですが、拙文「叙述トリック概論」中の「トリックの解明」の項にも記したように、叙述トリックを解き明かす(仕掛けを説明する)にはメタレベルの視点が必要になります。さらにいえば、やはり叙述トリックが使われている別の作家の某作品の解説でも指摘されているように、“叙述トリックに関するフェアな伏線というのは、上位のレベルに属するため、物語中で言及することができないという宿命を負っている。(中略)額縁部分(作者の存在するレベル)で言及するしかないのである”
という制限があるのです。
したがって、本書に収録された作品が叙述トリックを使用しながら(おおむね)フェアな“犯人”当てを指向したものである以上、仕掛けを説明するとともにフェアな伏線を明示するための“額縁部分”が不可欠となります。また「フェラーリは見ていた」のように、“叙述トリックによって隠されていた真相”の提示と犯人の特定との間にもう一つステップが存在する(叙述トリックの暴露が“犯人”に直結しない)場合には、メタレベルからの解決を通じて読者に“犯人”を示す必要があるのは明らかです。
そしてもう一つ、メタフィクション形式が読者をミスリードするという機能を担っているところにも注目すべきでしょう。下の図に示した、「どんどん橋、落ちた」の構造を例にとって説明してみます。
綾辻とU君 | 導入部 | → | 綾辻の推理 | → | U君による解説 | ||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
作者(U君) | → | 問題篇 | → | 挑戦状 | → | 解答 | |||||||
作中 | |||||||||||||
図に示したように、最上位として綾辻視点で描かれた綾辻とU君の登場するパートがあり、次にU君による作者としての視点で描かれたパートがあり、さらに最下位にはU君が神の視点で描いた物語があります(“問題篇”には、作者としての視点と神の視点が混在しています)。ここで、作者としての視点で記述された“挑戦状”(【読者への挑戦】)は、“問題篇”の読者である綾辻に向けられたものであり、綾辻はその部分までを読んで謎解きに挑むことになります。
しかし、小説「どんどん橋、落ちた」の読者はどうかといえば、中には綾辻と同様に“挑戦状”で一旦止まって推理しようとする方もいるかもしれませんが、おそらく大半の方は“解決篇”までそのまま読み進めるのではないでしょうか。そのような読者にとっては、真相が明かされる直前、すなわち綾辻の推理が描かれた“額縁部分”までが“問題篇”ということになるともいえるのですが、この綾辻の推理が誤ったものになっていることでU君が書いた“問題篇”のミスディレクションがさらに補強されているのです。
同じくU君が登場する「ぼうぼう森、燃えた」及び「意外な犯人」も同じような構造となっていますし、役どころは違っているものの「伊園家の崩壊」でも“額縁部分”にミスディレクションが仕掛けられています。また「フェラーリは見ていた」でも、K子さんの話を聞いている綾辻の視点で描かれた箇所に、読者を積極的にミスリードする記述が存在します。要するに、三人称の地の文ではなく騙されている人物の視点による主観的な記述(ないし証言)であれば、結果的に“虚偽”が含まれていてもフェアプレイには反しない(下記の「ルール」を参照)、ということを巧みに利用した仕掛けといえるでしょう。
以下、個々の作品について、拙文「叙述トリック分類」を適宜参照しながらトリックなどについての感想を記しておきます。
また、作者がフェアプレイにこだわる姿勢を鮮明に打ち出しているので、可能な限りそのあたりについても検討してみたいと思います。具体的には、「伊園家の崩壊」での井坂先生に対する説明(306頁~310頁)から抽出した、以下の四つのルールが守られているか否かを考えてみます。
- 必要な手がかりは示すべし。 (以下、「ルール1」という)
- 三人称の地の文に虚偽の記述があってはならない。 (以下、「ルール2」という)
- 一人称で、故意に虚偽の記述をしてはならない。 (以下、「ルール3」という)
- 犯人以外の人物は、当該事件に関する証言において“嘘”はつかないものとする。 (以下、「ルール4」という)
- 「どんどん橋、落ちた」
猿を人間に見せかけるという[A-2-4](動物)種の誤認トリックが使われた作品です。[A-2-4-1]視点“人物”の項では、人間以外の存在を視点“人物”とする場合の心理描写の困難性に言及しましたが、猿ならばまあ問題はないでしょう。
“繕い仕事”
という表現が若干気になるところではありますが、これも許容できる範囲か。トリックの重要な要素となっているリンタローの
“あの橋を渡った者は人っ子一人いなかった”
(45頁)という台詞は、やや苦しい言い回しになっているように思えます。例えば“あの橋を渡った人は誰もいなかった”
(筆者による改変)といったような素直な文章でもよかったのではないかと思えるのですが……。まずフェアプレイの「ルール1」について考えてみると、59頁の「解答」にも記されているように、エラリイ以外の“容疑者”に関しては、人間であろうとなかろうと犯行が不可能であることを示す根拠が存在します。一方、
“ユキトがどんどん橋北側の崖から、何ものかの手によって突き落とされた”
(47頁)という記述と、どんどん橋の状態が“これではとうていユキトの体重には耐えられない”
(33頁)というものであったことを考え合わせると、事実上人間には犯行が不可能(どんどん橋を渡って北側の崖に到達することができない)である(*1)ことが導き出されます。すなわち、どんどん橋を渡ってユキトを殺したXは人間ではないということになり、丸木橋を渡ってもリンタローの証言と矛盾を生じることはありません。したがって、エラリイがXであるという真相に到達するための手がかりは、十分に示されているといえます(*2)。次に「ルール2」と「ルール3」については、U君が自画自賛しているように虚偽の記述は見当たらず、特段問題はないと思われます。
最後に「ルール4」ですが、問題があると思われるのが、タケマルが吠えたことに関するリンタローの
“タケマルは臆病ものだから、おおかた叢に蛇でも見つけてびっくりしたのだろう”
(45頁)という証言です。後にU君が“実のところ、リンタローはエラリイの姿を見ていたんですよね。(中略)タケマルは自分たちの前を通っていく怪しいものに気づいた。だから吠えたんです”
(61頁)と説明している(*3)ように、エラリイが丸木橋を渡ったという真相からみて、タケマルが猿を見て吠えたということにリンタローが気づかなかったはずはありません(*4)。したがって、リンタローの前記の証言は、限りなく“嘘”に近いものだというべきではないでしょうか。*1: 補足しておくと、どんどん橋北側の崖で身動きがとれなくなったユキトの視点からの、“殺意を抱いたそのものの影が橋の向こうに現れた”
(35頁)という記述で、ユキトを殺したXがどんどん橋を渡ってユキトのもとにやってきたことが示唆されています。
*2: 「解答」でもそうなっているように、エラリイ(を含むM**村の住民)が猿であることを示す必要はありませんし、実際に問題篇の記述からそれを導き出すことは可能とはいえないでしょう(種々の条件を考え合わせると、猿である蓋然性が最も高いのは確かですが)。U君はM**村の住民が猿であることを示す伏線をいくつか挙げています(65頁)が、これらはM**村の住民が人間であったとしても(あるいは猿以外の動物であったとしても)さしたる矛盾を生じないものであり、“猿”という真相を特定する手がかりとしては不十分です。また、台詞におけるカギカッコと二重カギカッコの区別も、単に異なる言語が使われていることを示唆するにとどまります。
*3:“あの丸木橋はその間、常に僕の視界の中に入っていました”
(45頁)という証言から、丸木橋を渡ったエラリイの姿をリンタローが目にしたのは間違いないと考えられます。一方、タケマルが吠えた原因がエラリイだったというのは、問題篇の記述から導き出されるものではありませんが、「どんどん橋、落ちた」の作者であるU君自身が語っている上に、エラリイが猿であるという真相につながる伏線として挙げている(“だから、タケマルが激しく吠えたんです”
(63頁))のですから、それもまた事実と考えてかまわないと思われます。
*4: 猿の出現と同時にタケマルが吠えたということになるわけですから、それを結びつけないのはどう考えても不自然です。
- 「ぼうぼう森、燃えた」
これも[A-2-4](動物)種の誤認トリックですが、人間を犬に見せかけるという、「どんどん橋、落ちた」とは逆のパターンになっているところが巧妙です。そしてまた、(他の作品に登場していることもありますが)「どんどん橋、落ちた」とほぼ同じネーミングを踏襲することで、“タケマル”が犬であるという先入観が補強されているのも見事です。
フェアプレイの「ルール1」について考えてみると、視覚によってしかエラリイとロスを識別できないというのは綾辻の推理通り(*5)。そして血の赤とペンキの青を識別する必要があることから、一般的な認識に基づいて犬には犯行が不可能であることが導き出されます。一方で、U君が指摘しているように、
“『死ね』”
(124頁)という二重カギカッコを用いた記述から、Xが犬の言葉を話している――すなわちXはD**団の一員であるという条件が得られます。これら二つの条件及びタケマルに関する曖昧な記述から、真相を見抜くことは十分に可能でしょう。ただし、
“XはどうやってE地点にいる犬の方がロスであると判断したのか”
(139頁)という前提には、少々問題があるように思われます。“E地点に降りたXは相手の間近まで行き、当然その右目の傷を見た上で襲いかかっているはずだから、(中略)あくまでもXはロスを殺そうと思って殺したのだと断定できる”
(139頁)というのは確かにその通り。しかし、「問題篇」の以下の記述から、はたしてXが確信を持ってE地点の方を選んだと断定できるでしょうか。(……あれは?)
U君が想定している“Xは人間であるタケマル”という真相であれば、血の赤とペンキの青を一目で識別できるはず。そしてエラリイではなくロスに殺意を抱いていたとすれば、(ためらうことはあったとしても)迷うことなくロスのいる西側を選ぶのが自然なのですが、上の記述では判断に迷った――エラリイとロスを識別できなかった――末に当てずっぽうで選んだのがたまたまロスのいた西側だった、という風にも解釈できます。もちろん、そう解釈した場合には推理の前提が崩れてXが特定できなくなる(*6)ので、“犯人”当てが成立するとすればXがロスを識別したはずである、と結論づけることは可能かもしれませんが……。
迫りくる炎の恐怖も一瞬忘れて、Xは思案した。
(あいつは……どっちが?)
迷っている場合ではもちろんない。ためらっている場合でもない。
東か西か、選択は一度だ。炎はすぐそこまで来ている。いったん片側へ降りてしまえば、そこから反対側へ引き返すことはもはや不可能だろう。
そして、Xは西側を選んだ。午後四時十分のことである。
(123頁)このように、三人称の地の文に(“虚偽”とはいえないまでも)真相とやや矛盾するような記述があるという点で「ルール2」が完全に守られているとはいえないと思いますし、
“(あいつは……どっちが?)”
と迷っているような独白を考えると「ルール3」も微妙です。なお、「ルール4」については特に問題ないと思われます。*5: 綾辻とU君のやり取りの中では言及されていませんが、嗅覚については、Xの視点による描写の中に“今やこの森全体を火災の異臭が覆い尽くしつつあり、まるで鼻が役に立たない”
(122頁)と明記されています。
*6: 逆に、人間ならば迷うことなく識別できたはず、という理由でタケマルを除外することも不可能です。なぜなら、Xがエラリイとロスを識別したという前提が崩れてしまうと、犬には犯行が不可能とはいえなくなってしまい、タケマルが人間だとする根拠もなくなるからです。ついでにいえば、エラリイの体が青いペンキで汚れていた事実を知っていたか否かも条件ではなくなり、さらに容疑者(犬)の範囲は広がります。
- 「フェラーリは見ていた」
メインとなるのは、“フェラーリ”という名前の馬を車のフェラーリと誤認させるトリック。動物絡みなので[A-2-4](動物)種の誤認トリックととらえることもできますが、人間/非人間の誤認ではないので[D]物品の誤認トリックと考えた方がいいかもしれません。いずれにせよ、比喩表現かと思われた題名が大胆に真相を示唆しているところが見事です。
「叙述トリック概論」中の「偽の真相」の項にも記したように、叙述トリックは真相の隠蔽とミスディレクションによって実現されますが、この作品ではそのあたりがうまく工夫されています。まず、酔ったU山さんの言動によってK子さんの話がで再三中断された結果、“フェラーリ”=馬という真相が比較的自然な形で隠蔽されている点。そして、一人称の記述者である綾辻自身(及び善意の第三者であるA元君)の勘違い(←“嘘”ではない)が非常に強力なミスディレクションとなっている点。この二点の、いわば“合わせ技”によってトリックが成立しているところが見逃せません。
特に“ガレージ”などは絶妙で、事件当時“フェラーリ”がいた場所として言及しないわけにはいかないのですが、K子さんが普通に説明すれば“馬小屋”か“フェラーリがいた小屋”といった表現になってしまうところ。せいぜいぼかして“フェラーリの小屋”という言い方もできるかもしれませんが、車の置き場所としては非常に不自然な表現には違いありません。それが、綾辻の勘違いとU山さんの強引な介入により、
「何か建物ですか?」
「え? ああ。それはね、もともとは納屋だったらしいんだけど、フェラーリのために改造して……」
「なるほど。ガレージですか」
「はい。はーい」
と、そこでまたまたU山さんが手を挙げて立ち上がり、上体をふらふらさせながら唐突に主張しはじめた。
(210頁)という比較的自然な流れになっているのが巧妙で、その後は一人称とはいえ地の文に堂々と
“図中のガレージの部分に「フェラーリ」と書き込んでから”
(212頁)と書かれることで、読者の誤認がさらに補強されています。ついでにいえば、211頁の「葛西邸略図」で“ガレージ”の部分に何も書かれていないのはフェアプレイを意識したものでしょうし、そこに「フェラーリ」と書き込むのは事実と矛盾しないのでK子さんも何も行動を取ることなく(*7)、読者に対しては“フェラーリ”(客観的な事実)と“ガレージ”(主観的な誤認)が結びつけられた形で提示されているところがよくできています。すでに多少触れましたが、フェアプレイの「ルール2」~「ルール4」については細部に至るまで気を配って書かれていると思います。
問題は「ルール1」で、“犯人”を特定するための手がかりが十分に示されているとはいえません。決め手となっているのは、“フェラーリ”がかつて鈴木さんが飼っていた馬だったという事実ですが、他の容疑者を除外するこの重要な手がかりが叙述トリックによって隠されており、“問題篇”にあたる「第7章」まで(217頁1行目まで)の記述をもとに読者が“真相”を見抜くことは不可能(*8)で、“挑戦状”が挿入されていないのも納得できます。
このあたりは、先の「どんどん橋、落ちた」や「ぼうぼう森、燃えた」と比べてみるとわかりやすいかもしれません。下の表(○/×はそれぞれ犯行可能/犯行不能を意味します)に示したように、それらの作品では叙述トリックに騙されている限りすべての“容疑者”が除外されて“犯人”不在となってしまうのに対して、この作品では(アリバイのある葛西氏を除いて)“犯人”以外の容疑者も除外されていない状態です。前者では、いわば容疑者を除外する根拠が過剰になっている状況ですから、その根拠の一つに誤り(誤認)(*9)があることが明らかであり、結果として叙述トリックを見抜くことが可能となります。一方この「フェラーリは見ていた」では、容疑者を除外する根拠が不足していることになります。つまり、容疑者を除外する偽の根拠を生み出すための叙述トリックと、容疑者を除外する根拠そのものを隠すための叙述トリックという使い方の違いにより、「ルール1」を満足するか否かの差が生じているといえるのではないでしょうか。
[叙述トリックの使い方の違い] 誤認 真相 「どんどん橋、落ちた」
「ぼうぼう森、燃えた」“犯人” × ○ 他の容疑者 × × 「フェラーリは見ていた」 “犯人” ○ ○ 他の容疑者 ○ × 提示された“真相”が最後にひっくり返されているのはご愛敬というべきでしょうか。犯人当て小説と違って容疑者が限定されない“現実”の事件に関する限界を強調したものといえるのかもしれませんが……。
*7: もし綾辻が図中の“ガレージ”の部分に「ガレージ」と書き込んでしまったら、さすがにK子さんとしても訂正せざるを得なくなるでしょう。
*8: もちろん作中には“フェラーリ”が馬であることを示唆する伏線がある(221頁~223頁に列挙されています)のですが、これは先に*2で言及したものと同様、“フェラーリ”が車であったとしてもはっきりとした矛盾を生じるものではないので、“馬”という真相を導き出すには不十分です。
*9: 「どんどん橋、落ちた」ではエラリイが(人間であり)丸木橋を渡らなかったとする誤りであり、また「ぼうぼう森、燃えた」ではタケマルが(犬であり)色を識別できなかったとする誤りです。
- 「伊園家の崩壊」
この作品で使われているトリックは、どうにも「分類」に当てはめづらいところがあります。騙されるポイントは、要するに
“殺害事件”
が何を指しているかであり、[C-2]状況の誤認の一種と考えるべきでしょうか。トリックの成立に一役買っているのが、二人の記述者による、三人称と一人称のパートが入り交じった複雑な作品の構造です(下の図参照)。
[「伊園家の崩壊」の構造] [A]「伊園家の崩壊」(綾辻)
・一人称
[B]問題篇(井坂)
・一人称
[C]事件の再現
・三人称
→→ [D]読者への挑戦(綾辻)
・一人称
↓ [E]解決篇(綾辻)
・一人称
[F]解決の再現
・三人称
この作品において不可欠なのがもちろん井坂先生の存在で、“解決篇”の中の綾辻による一人称で記述された箇所(上の図の[E]部分;332頁~333頁及び341頁~342頁)でも言及されている、フェアプレイの「ルール3」を逆手に取って読者を誤認させるトリックにはしてやられてしまいました。
また、最上位のレベルなので作中では言及されていません(*10)が、(作中作にあたる“問題篇”の読者ではなく)この「伊園家の崩壊」という作品全体の読者に向けては、綾辻とのやり取り(上の図の[A]部分・“問題篇”と“解決篇”の間)における井坂先生の台詞の中に同様のトリックが仕掛けられており(*11)、さらに誤認が補強されるようになっています。これは同じようにフェアプレイの「ルール4」を逆手に取ったものといえるでしょう。
一方、【読者への挑戦】よりも前に、真相を見抜いたという綾辻が
“次は若菜ちゃんの番ですね”
(312頁)と宣言し、実際に若菜が毒死してしまった事実を明示しておくことで、若菜が犯人だとは考えにくくなっているところにも注目すべきでしょう。犯人自身を死なせることで読者の疑惑を逸らすというのは古典的ではありますが、この作品の場合には単にそれだけではなく、若菜の死もまた“殺害事件”に含まれるかのように読者をミスリードする(*12)、実に巧妙な手法となっています。というわけで、フェアプレイの「ルール2」~「ルール4」については文句のつけようがないと思います。真相を知らない井坂先生の一人称による記述と、真相を見抜いた綾辻の一人称による記述とをきっちり区別してあるところはお見事ですし、ミステリには詳しくないという井坂先生とのやり取りの中でフェアプレイのルールを丁寧に説明してあるところもよくできています。
次に「ルール1」について考えてみると、
“足の不自由な若菜が笹枝殺しの犯人たりえたはずは絶対にない”
(291頁~292頁)のですから、若菜がタケマル殺害事件の犯人だと指摘するためには、やはり笹枝の死が殺人ではないことを見抜く必要があります。重要な手がかりとなるのはもちろん、笹枝が死んだ部屋の密室状況を支えている軽子と若菜の証言で、“解決篇”ではやたらに細かいところまで検討されていますが、結局のところ、二つの証言内容が真実であるとすれば笹枝を殺すことは誰にも不可能ということになるでしょう。厳密には、【読者への挑戦】(317頁)の中の
“殺害事件”
がタケマル殺しを指しているのであれば、“犯人以外の人物の当該事件に関する証言に“嘘”はない”
という記述も、“犯人(である若菜)以外の人物のタケマル殺害事件に関する証言に“嘘”はない”ことを保証しているにすぎないということになりますが、笹枝が殺害されたとすればそれも“殺害事件”――すなわち“当該事件”――に含まれることになるため、最終的には同じことになります(*13)。そして残るタケマル殺害事件については、午後四時五十分にタケマルを目撃したという若菜の証言が真実であれば“解決篇”の通り。また目撃証言が“嘘”であった場合には、【読者への挑戦】の条件から(自動的に)若菜が犯人ということになります。
現実の事件として考えた場合、このような謎の解き方が不可能なのはいうまでもありませんが、作中で綾辻が
“いわゆる“犯人当て小説”の『問題篇』のテクストだと割り切って捉えてしまうならば、その枠内で”
(305頁)と、あるいは(フェアプレイの)“ルールに則ってこのテクストが書かれている、という前提の下でならば”
(310頁)と述べているように、メタレベルで条件を設定してやることでフェアな“犯人当て小説”に仕立て上げられています。裏を返せば、メタレベルで追加された条件そのものが手がかりの一つとして積極的に機能しているともいえるわけで、なかなかよくできていると思います。なお、“解決篇”では笹枝の自殺トリックも解き明かされていますが、これについての手がかりはタケマルの水浴びくらいしか見当たらず、明らかに不足しています。もっとも、【読者への挑戦】の記述をみる限りでは自殺トリックまで解き明かす必要はなく、最低限、笹枝の死が“殺害事件”に含まれないというところまで明らかにすれば十分だと考えられるので、問題はないでしょう。
*10: 某作品の解説から再度引用しますが、“叙述トリックに関するフェアな伏線というのは、上位のレベルに属するため、物語中で言及することができない”
ということです。
*11: 具体的に挙げてみると、以下の通りです。
“誰が笹枝さんを殺したのか?”
(304頁)“笹枝さんが殺された時の密室状況”
(311頁)“今度は若菜ちゃんが殺されると?”
(312頁)“どうやら毒を飲まされたらしいですな、若菜ちゃんは”
(313頁)“次は若菜ちゃんが殺される番”
(314頁)
“殺害事件”
に含まれないのは明らかですし、また実際に綾辻は“問題篇”の記述だけをもとに真相を見抜いた(ということになっている)のですが、「伊園家の崩壊」という作品の読者にとってはかなり強力な仕掛けといえるのではないでしょうか。
*13: 井坂先生が“解決篇”で指摘している(323頁)ように、軽子と若菜の二人は笹枝を殺した犯人ではあり得ないので、“犯人以外の人物の当該事件に関する証言に“嘘”はない”
という条件から、いずれかの証言が“嘘”であるとすれば笹枝の死は“当該事件”に含まれないことになります。つまり、軽子と若菜の証言の真偽にかかわらず、与えられた条件から笹枝の死は殺人ではあり得ないという結論になるのです(軽子または若菜の証言が“嘘”であってなおかつ笹枝の死が殺人ではない、という可能性は残りますが……)。
- 「意外な犯人」
作中のドラマ「意外な犯人」のトリックは、オーソドックスな[A-3-1]視点人物の隠匿トリックを映像用にアレンジしたもの。撮影者は原則として映像内に登場しない上に、ホームビデオなどの場合を除いて映像に登場する人物は撮影者の存在を無視するというお約束があるなど、撮影者(視点人物)が他の人物から切り離された立場にあるため、小説の場合よりもはるかに実現しやすいトリックだといえます(そう考えると、映像の方で先に生み出されたトリックなのかもしれません)。
しかし、小説「意外な犯人」のメイントリックはそれではなく、U君の
“綾辻さん自身”
(356頁)という言葉が綾辻行人当人を指しているにもかかわらず、それを“アヤツジユキト”
という役名と誤認させる、メタレベルで仕掛けられた[A-1]人物の誤認トリックです。細かくみてみると、[A-1-2]二人一役トリックととらえることもできなくはありませんが、解決以前には“綾辻行人”の存在が隠匿されているので[A-1-3]なりすましトリックと考えるべきでしょう(下の表参照)。[「意外な犯人」のトリック] 真相 認識 解決以前 アヤツジユキト(榊由高) “綾辻行人” [カメラマン(綾辻行人);画面に登場せず] [隠匿] 解決以降 アヤツジユキト(榊由高) アヤツジユキト役の榊由高 カメラマン(綾辻行人) カメラマン役の綾辻行人 作中のドラマ「意外な犯人」だけを見たとすれば、謎が解かれた時に視聴者が認識するのは“(綾辻行人が演じる)カメラマンが犯人”という真相だと思われます。ところが、
“綾辻さん自身も劇中に登場していたりする”
(356頁)というU君の言葉と、“犯人の氏名”
(392頁)という記述を含んだ“挑戦状”がメタレベルで付け加えられることで、小説「意外な犯人」の読者が認識する真相は“(カメラマンを演じる)綾辻行人が犯人”へとシフトすることになります。このあたり、よく考えてみるとなかなか面白い構図だと思います。フェアプレイの「ルール1」について検討してみると、まずU君の“挑戦状”の中の
“犯人の氏名、それだけをお答えください”
(392頁)という記述から、単に“カメラマン”という解答では不正解であることが明らかです。そして、氏名がテロップで明示されていないカメラマンが犯人であり、なおかつその氏名を解答することが可能だとすれば、他に氏名が(劇中ではないものの)作中で示されたのは前述のU君の言葉にある“綾辻”
だけですから、自ずと真相は定まるでしょう。しかしながら、その前提となるドラマ「意外な犯人」の真相、すなわちカメラマンが犯人という真相についてはどうでしょうか。作中で綾辻が“伏線”として思い返している(399頁)のは懐中電灯とコーヒーですが、前者は伏線とはいえないように思いますし、後者は作中の綾辻にとってはともかく、小説「意外な犯人」の読者にとっては少々微妙です。
まず懐中電灯の“伏線”ですが、“地の文”に
“中には懐中電灯が六本入っていた”
と記されており、さらに由伊が“何だか物凄く都合のいい展開ですけど……”
と(いずれも375頁)という台詞を口にしています。この由伊の台詞が、“六本入っていた”
ことを指して言ったものだと解釈した場合には確かに手がかりとなり得るのですが、急に停電してしまったという状況を考えればそもそもその場に懐中電灯があったこと自体が“物凄く都合のいい展開”
といえるわけで、むしろそう解釈する方が自然でしょう。またコーヒーについては、“地の文”に
“アヤツジにカップを手渡すと、トレイをテーブルの上に置く。カメラ、コーヒーの入った五つのカップを捉える”
(372頁)と記されており、これをして綾辻は“アヤツジに一つが渡されたあと、テーブルの上に置かれた盆の上のカップは五つだった”
(399頁)と思い返しています。しかし、この“地の文”の表現では直ちに“盆の上のカップは五つ”
とはいえず、アヤツジとトレイが一緒に画面に捉えられてすでに渡されたものも含めて五つのカップが映っている、とも解釈できると思います(*14)。当然ながら、作中の綾辻は実際にトレイの上に五個のカップが置かれた映像を見ているはずで、綾辻にとって十分な手がかりとなっているのは間違いないでしょう。しかし、映像を見ているわけではない小説「意外な犯人」の読者にとっては、手がかりとしては不十分といわざるを得ません(*15)。
五篇中三篇で重要な役割を果たしている“U君”ですが、作者の本名(「綾辻行人 - Wikipedia」参照)を考えると、その正体は(若き日の)綾辻行人自身であろうと思われます。そしてその“U君”は、“無数の蟻たちによって内部から喰い荒らされた甲虫の……ああ、今さら考えるまでもなく、この甲虫は僕だ。ここにいる僕自身の、この空洞化した頭なのだ”
(403頁)と嘆く綾辻に対して、“あなたは違うんです”
(408頁)という言葉を口にしています。ミステリ作家・綾辻行人が“甲虫”だとすれば、“蟻”は読者の暗喩であることが容易に想像できますが、“U君”の否定を受けて綾辻が到達した“無数の蟻たちによって内部から喰い荒らされつつある大きな甲虫……貪欲に群がる赤い蟻の一匹が、僕だった”
(410頁)という結論からうかがえるのは、綾辻自身が本格ミステリという“大きな甲虫”を貪欲にむさぼる“蟻の一匹”だった、ということでしょうか。
そう考えるならばこの結末は、自らが一匹の“蟻”であることを自覚した綾辻が、これからもひたすら本格ミステリをむさぼり続ける(しかない)という、悲壮な決意表明であるのかもしれません。
2007.02.13読了