その可能性はすでに考えた/井上真偽
依頼人が語った事件の顛末は、確かに一見すると“奇蹟”とも思える、強固な不可能状況となっています。それを構成する主な要素は、以下のようなものです。
- ドウニの首を斬った凶器はギロチン(の刃)だった。
- リゼにはギロチンの刃やドウニの胴体を運ぶことができなかった。
- 動力源となり得る水車は動いていなかった。
- 生き残ったのはリゼ一人で、村の外部からの人間の出入りはなかった。
- リゼとドウニ以外は外から施錠された拝殿に閉じ込められていた。
上の1.~3.から、リゼが犯人だとすると凶器や死体の移動が不可能となる一方、4.と5から、犯人たり得る人物はリゼ以外に存在しない、という形で不可能状況が成立しています。裏を返せば、(1)凶器を移動させる、(2)死体を移動させる、(3)別の犯人が存在する、のいずれかをトリックによって達成することができれば、不可能状況を打破できることになるでしょう。実際に、作中で提示される三つの〈仮説〉は、この三項目それぞれに対応しています。
- ・大門の〈仮説〉――炙り家畜踏み車
- 最初の〈仮説〉は凶器消失トリック。凶器を水車で引っ張るところまでは
“王道の機械トリック”
(50頁)そのままで、川が涸れて動かない水車をいかにして回すかがポイントとなるわけですが、豚を“動力源”に使う――しかも鉄製の水車を火であぶって強制的に“運動”させるという発想は、なかなかのバカミス感をかもし出しています。
ドウニがギロチンの刃を祠まで運んだあたりの説明(特にその動機)には、少々納得しがたい部分もないではない(*1)ものの、そこは蓋然性に関わる問題なのでスルーするとして、実効性の面で少々気になるのがトリックの痕跡。平地の部分であればまだ凶器を引きずった痕を消すこともできるかと思いますが、崖に血痕が残ったりしてしまうと隠滅するのが難しそうです(*2)。
上苙による〈否定〉は、〈仮説〉の中で“動力源”とされている豚の不在を証明するものですが、最後の晩餐で配られた豚の足の数から下限を導き出すのは予想できるとして、豚の番号札に関する依頼人の話の中から細かい手がかり――“デジタル時計みたいな角ばった数字で、シンプルに「12」とだけ書かれていた”
(28頁)や“少年は受け取ったプレートを横に持ち替えると”
(29頁)――を拾い上げて、豚の数の上限を導き出しているのが見事です。
野暮を承知で細かいことをいえば、〈仮説〉ではリゼが犯人とされているので、当のリゼの話を〈否定〉の根拠とするのは危うい気もしますが、そこまで見通してあらかじめ嘘をつくくらいならば、最初から“生き残った豚はいなかった”と証言すればすむ話ではあります。より大きな問題は、後に明らかにされるように“依頼人がリゼと別人”であるため、事件の話が実体験ではなく伝聞にすぎないところにあり、大筋はともかく何気ない細部の描写にはどこまで信頼が置けるのかわからない(*3)ことになるはずですが、そこは“お約束”として受け入れざるを得ないところでしょうか。
- ・リーシーの〈仮説〉――水車トレビュシェット・ピンホールショット
- 二番目の〈仮説〉は死体移動トリックで、やはり死体を飛ばすのはバカミスのロマン(?)というべきか。定番といえば定番なのであまり驚きがないのが玉に瑕ですが、鳥居をくぐる“ピンホールショット”に衝撃の少ない着地といったとんでもない偶然が加わることで、教科書のようなバカトリックに仕上がっています。しかし着地の衝撃に関して、発泡スチロール製の祭壇による衝撃吸収という説明まで用意されているところが周到です。
偶然に頼った部分が大きいトリックだけに、蓋然性以外のところにツッコミを入れるのが難しいのは確か。ドウニの脱出計画がベースとなっているため、必要な力仕事はドウニがやったことにできるのもうまいところです。
上苙による〈否定〉は、リゼのギプスだけでなく祭壇もまだ壊れていなかったことを証明するもので、朝日による逆光の中でドウニの生首の顔が見えたことから、語られなかった鏡の状態を導き出す推理が秀逸です(もちろん、これも最初の〈否定〉と同様に、伝聞による描写が頼りではあるのですが……)。
作中でも指摘されている(159頁)ように、ドウニの死体だけを飛ばしたという仮説――当然、着地の衝撃が問題にならなくなる――も想定はできますが、トレビュシェットを“村からの脱出手段”と考える限り、死体だけを飛ばす動機が成立しない、というのは十分納得できます。
- ・聯の〈仮説〉――君の神様はどこにいる? 聖ウィニフレッドのクリーン発電
- 三番目の〈仮説〉は入れ替わりトリック……ではなく、
“このトリックの本質はどう考えても(中略)古典的なアリバイトリックだろう”
(204頁)と上苙は述べているのですが、確かにアリバイトリックも不可欠であるとはいえ、前述のように(リゼではない)“別の犯人”の登場によって不可能状況が打破されることを考えれば、やはり入れ替わりトリックの方が本質というべきではないでしょうか。
ドウニとの入れ替わりで拝殿から脱出するだけでは死体の数が合わなくなるわけで、それを御神体との入れ替わりで解決する、二重の入れ替わりトリックが巧妙で、リゼ以外の人物――教祖が犯人となることによって、ギロチンの刃とドウニの死体の不可能状況は霧消します。
その代わりに、ドウニとの入れ替わりのタイミングが三日間の禊の前しかないことから、ドウニの生首が“まだ生きてるような”
(46頁)状態に保たれていたことが、別の不可能状況として浮上してくるのが面白いところ。これはもちろん、何とか水車を回して発電するしかないわけですが、“クリーン発電”こと重り発電もさることながら、深いゴミ捨て場の穴――シンクホールを利用するというアイデアが秀逸。ただしこのトリック、上苙による〈否定〉を待つまでもなく、明らかに実行できない――蓋然性ではなく実現可能性の問題――という大きな難点を抱えています。
聯は、二百キログラムの岩を二十回落とすことで冷蔵庫を一時間以上稼動させられると計算して、“二十回岩を落とすのに必要な時間は二十分です。作業に十分間の余裕を取ったとしても、三十分あれば一時間分の電力を蓄電できてしまいます。”
(189頁)としていますが、聯がいうように“岩は底で落とせるよう”
(189頁)にする方式の場合、必要な岩の量は一時間分で四トン(!)。冷蔵庫を間欠的に稼動させて作業量を半分程度に抑えるとしても、三日分ともなれば百五十トン近くの岩が必要となり、調達・運搬・準備などの作業を考慮すると(*4)、どう考えても実行不能。というわけで、落とした岩を回収して再利用するしかなくなりますが、一時間で十回岩を落とすためには、五分程度で二百キログラムの岩を六十メートル持ち上げる作業を三日間ひたすら繰り返し続ける必要があるわけで、これまた人間業では無理といわざるを得ません(*5)。
しかも、発電の作業をしなければならないのは、他の〈仮説〉と違って禊の期間中――集団自殺より前の、まだ信者たちが健在である状況。“地震で「宿舎」が崩れたので、信者は以後「拝殿」で寝泊まりするよう命じられる。”
(38頁)とありますが、日中の活動が制限されていなかったとすれば、当然ながら発覚は免れないと考えられます。リゼが“他の信者たちと同じく拝殿に大人しく籠もるようになった。”
(38頁)ともあるので、信者たちが拝殿から一歩も出なかったと考える余地もありますが、そうだとしても、“ドウニ”が三日間も拝殿に戻ってこなかったことに、少なくともリゼが気づかないはずはありませんし、それに言及しないはずもないでしょう。
さて、上苙による〈否定〉は、ドウニの死がだいぶ早まったことで生じるタイミングの齟齬を突いたもの。教祖の禊入りより前に、ドウニが食料を運ぶ機会がなかったというのは――ここでは――まったく妥当で、他の人物にも不可能ですから、禊入りの前にドウニが殺されたとする〈仮説〉は否定されます。
かくして、三つの〈仮説〉に対して三つの〈否定〉が示されたところで、“推理対決”の黒幕であったカヴァリエーレ枢機卿による、〈否定の否定〉という罠が発動するのが圧巻です。第一の〈否定〉では「最後の晩餐」→「禊入り」の順序によって必要な豚の数が定まり、第二の〈否定〉では鏡の状態から「配達」→「最後の晩餐」の順序となり、第三の〈否定〉ではドウニが食料を入手できる機会から「禊入り」→「配達」の順序となる――三つの〈否定〉を並べることで初めて浮上してくる矛盾という趣向は斬新。ミステリの探偵役は本来、一つのロジックで一つの解決に至るので、このような問題は生じませんし、(本書の〈仮説〉に限らず)多重解決での個々の解決自体はそもそも同時に成立し得ないものです。つまり、提示される複数の〈仮説〉に対して、探偵役が複数のロジックを駆使して〈否定〉することに重点が置かれた、“対〈多重解決〉”ともいうべき形式の本書ならではの趣向であることは間違いないでしょう。
しかしながら、作中で〈否定の否定〉とされているこの趣向は、確かに“否定の理論体系自体が抱える矛盾への指摘”
(225頁)ではあるものの、あくまでも“体系”としての矛盾を指摘するにとどまり、個々の〈仮説〉に対する〈否定〉を覆すまでには至っていない――〈否定の間接的な否定〉にすぎず直接的な否定になり得ていないため、〈仮説〉を“肯定”する余地が生じきれていないところが、(後々のことを考えれば致し方ないとはいえ)どうも微妙に感じられてしまいます。上苙と激しく対立するカヴァリエーレ枢機卿としては、上苙の誤りを指摘することが何よりも重要なのかもしれませんが、〈仮説〉が妥当か否かという次元の話ではなく、事件の真相から乖離したメタレベルだけの“空中戦”になっているのは、個人的に好みではありません。
好みの問題はさておくとしても、示された〈否定の否定〉をみてもなお、個々の〈仮説〉に対する〈否定〉は妥当としか思えない――枢機卿がそこまで踏み込んでいないことが、個々の〈否定〉の妥当性を裏付けているともいえます――ので、思わぬ方向からの“一撃”ではあっても致命的な“一撃”ではないことは明らかではないでしょうか。というのは、〈仮説〉を前提とした〈否定〉の論理が妥当だとすれば、矛盾の原因は当然ながら〈否定〉そのものにあるのではなく、〈否定〉の前提となっている〈仮説〉(とその前提)にあることになるからです。
実際に上苙の反撃はそこを突いたもので、“もし聯の仮説が正しければ、教祖は少年を殺して利用するつもり”
(206頁)(*6)だったことを根拠とした推理をひっくり返すことで、矛盾を回避することに成功しています。洞門の爆破についての解釈までもひっくり返し、推理を補強しているところも含めて、非常によくできているのは確かなのですが、問題の所在がある程度予想できてしまうために驚きがやや薄くなっているのは否めません。しかもこの反撃は、新たな問題を生み出す“諸刃の剣”となっています。
“教祖がドウニに協力的だった”という可能性は上苙が想定していなかったもので、“その可能性はすでに考えた”という趣向から外れるのはやむを得ないとしても、“奇蹟だった”とする結論の前提――奇蹟以外のあらゆる可能性を否定した――が大きく揺らぐことになるのは、誰の目から見ても明らかなはず。すなわち、報告書に記されていない可能性が見出された時点で上苙としては“負け”に等しいのですが、よりによってそのタイミングでカヴァリエーレ枢機卿があっさり負けを認めているのは、それまでに打ち出されていた激しい対立は何だったのかと途方に暮れてしまう、あまりにも不条理な展開といわざるを得ません。
実際のところは、上苙が“奇蹟を証明する”ことを目的としているとはいえ、ミステリである限りは読者が合理的な真相を期待してしまうのはやむを得ないところで、最後に合理的な真相にたどり着くためには、上苙が“その可能性はすでに考えた”といえない状況が必要になってくるのも明らか。ということで、結末から逆算して考えてみると、〈否定の否定〉という見せ場をきっかけとして、想定していなかった可能性に上苙が自力で気づく展開はよくできていると思えるのですが、それだけにカヴァリエーレ枢機卿の不可解な“豹変”(?)には釈然としないものが残ります。
最終章で上苙が到達する“真相”は、リゼではない別の犯人を想定したものですが、ドウニが集団自殺の際に母親に刺されてすでに瀕死の重傷を負っていたとするもので、前述の“教祖がドウニに協力的だった”という可能性を考慮して、不可能状況の演出を教祖に任せてあるところがよくできていますし、その動機も“いい話”になっていて印象的なだけでなく、おそらく依頼人も納得できるものになっていると思われます。ただ、“ギロチンの刃の破片が遺体に残ったのはただの偶然だろう”
(247頁)というのは少々疑問で、これが不可能状況の中核をなしていることを踏まえれば、意図的である方が望ましいでしょうし、教祖が持っている斧で首を斬ってもかまわないようにも思えるのですが……。
“少女の要望だった”(92頁)としても、五十キロ以上もあるギロチンの刃を、しかも崖の途中にある祠までわざわざ運ぶのは大変な作業ですし、さらりと書いてある
“簡易ギロチン台”(92頁)も作るのは難しいように思えるのですが……。
*2: ギロチンの刃についた血が完全に乾いてから実行すればまだましかもしれませんが、その場合、ギロチンの
“台と刃から、彼の血痕が検出されました”(49頁)ということに説明をつけるのが難しくなります。
*3: 例えば、リゼから依頼人・渡良瀬莉世への話(217頁)の中で、ドウニが番号札を見て“12”か“21”か迷ったことが省略された――リゼからすればまったく重要性がないので――可能性さえあるでしょう。“迷わなかった”ことが明言されればまだ話は別ですが、語られないことはリゼ本人にしかわかりません(伝聞ではなく依頼人自身の体験談であれば、そこで確認・訂正の機会があるので、信頼できるものとして扱うのが妥当でしょうが)。
*4: 他にも、百五十トン近くの量ともなるとさすがに、シンクホールの中にたまっていく岩が問題となるわけで、次第に落下距離を確保できなくなって発電が困難となるでしょう。
*5: もしこれだけの作業を実行できる筋力や体力があれば、直接水車を回す方がましではないかとも思われますが、いずれにしても無理なのは確かでしょう。
*6: この部分に傍点が振ってあるのが心憎いところです。
2015.10.03読了