黒面の狐/三津田信三
炭鉱住宅の一号棟で連続した密室殺人については、木戸殺し(一ノ一)、喜多田殺し(一ノ四)、そして丹羽殺し(一ノ五)と、(個々のトリックはさほどでもないとはいえ)一応は異なるトリックが使われている上に、いずれも大なり小なり炭鉱住宅ならではの事情によって成立するトリックとなっている(*1)ところがよくできています。
最初の木戸殺し(一ノ一)では、子供たちの“監視”のせいで窓から脱出せざるを得なかったところ、その後に地盤沈下で窓が開かなくなり、犯人の意図しない密室状況が完成したという流れが自然ですし、ちょうどその頃に“地の底から”
(192頁)聞こえた“獣の鳴き声”という手がかりもよくできています。
続く喜多田殺し(一ノ四)は、折った鍵の棒を使って窓の鍵がかかっていたように見せかける、海外古典で既視感のあるトリックですが、炭鉱住宅のボロさゆえに実行しやすくなっているといえます。また、“合里隆一”を案内した一ノ三で窓の鍵の棒がなかったこと(231頁)が、さりげない手がかりとなっているのもうまいところ(*2)。さらに、犯人が明らかになった後には、握り飯で糊を作る(*3)という補強手段が付け加えられているのも巧妙です。
しかし、いかに炭鉱住宅の建てつけが悪いとはいえ、警察がしっかり確認すれば窓の状態は明らかになりそうですが、作中では警察が確認したか否かすら完全に伏せられているのが釈然としないところです。これはもちろん、〈窓が施錠されていない〉ままの最初のトリック(411頁~412頁)と、〈窓が施錠された〉ことになる“より確実なトリック”(433頁~434頁)との二段階の解明を両立させるため、ひいては最初の解明の時点で犯人が明らかになる(*4)のを避けるためですが、波矢多が密室トリックを本気で解明しようとするならば、そこを曖昧なままにしておくのはあり得ないでしょう(*5)。
さて、最後の丹羽殺し(一ノ五)は、以前から開かなかった窓を一時的に開閉可能とする、木戸殺しとは逆方向のトリックとなっているのが面白いと思いますし、注連縄祓いの注連縄を立坑櫓の歯車に噛ませて屋根を持ち上げるという、豪快な手段が愉快です。しかも、注連縄が切れたという手がかりが、迷信深い炭坑夫たちに“凶兆”と受け止められるのもさることながら、読者にとってはホラー/怪談で定番の“不吉な演出”に見えてしまうことで、しっかりと隠蔽されているのが秀逸です。
合里、木戸、喜多田、そして丹羽までは、一号棟の住人であることが被害者たちの共通点となっていますが、次の被害者・発破係の岩野が殺される前に、丹羽が殺された際(293頁~294頁)とダイナマイト盗難が発覚した際(343頁~344頁)の水盛課長の反応によって、隠された“別のつながり”の存在をあらかじめ示唆しておくことで、いたずらに混迷が深まって謎がぼやけてしまうのを回避してある(*6)のが、地味ながら見逃せないところでしょう。
その“別のつながり”は鄭南善の手記によって明かされますが、木戸だけがそこに当てはまらないのもさることながら、生き残っている関係者がほとんどいないために、事件の背景がほぼ明らかになったにもかかわらず、容疑者が見当たらないという状況が面白いところ。かくして波矢多は、こじつけめいた推理も駆使して、吉良初代・葉津子の母娘、大取屋重一、そして南月尚昌と、何とも意外すぎる容疑者を取り出してくる羽目になっています(苦笑)。
まず吉良母娘については、母の初代が鄭南善の手記に登場する“食堂の小母さん”
(383頁)だったという推理に驚かされますが、“吼喰裏坑の食堂で働いていた”
(113頁)という手がかりが実にさりげなく示されているのがお見事。また、どこからどうみても怪異としか思えない“狐面の女”に、娘の葉津子が当てはめられるのも予想外です。
続く大取屋はがらりと変わって、木戸が朝鮮名の“朴”の字から日本名を作ったことをヒントに、“大取屋”の名前から“鄭”の字(の左側)を作り出して、戦死したことになっている鄭南善の兄だったと推理されていますが、これまた波矢多が聞いた大取屋の過去――戦死の誤報を機に故郷を捨てた話(148頁~149頁)がうまく使われています。
そして南月については、鄭南善の手記の冒頭に記された“朝鮮慶尚南道居昌郡南上面月坪里四三一”
(357頁)という住所から、“南月尚昌”の名前が拾い出されるのが実に鮮やか。しかも、単に鄭南善と同じ朝鮮人というだけでなく、手記に“私たち家族が住む面で(中略)今ではすっかり日本人炭坑夫になった者”
(359頁)と記された、鄭南善の身近だった人物とされることで、動機が若干補強されているのがうまいところです。
しかし、吉良母娘と大取屋はいずれも“四日目”に鯰音坑を離れていたために、波矢多が注目している“四日目の中断”(323頁~324頁)に説明がつくものの、坑内に入らない吉良母娘には“合里殺し”と岩野殺しが不可能で、大取屋の場合は“合里殺し”の手段が不明で木戸殺しの機会がなく、犯人でないことは確実。さらに南月は、大取屋と同じく“合里殺し”の手段が不明の上に、“四日目の中断”の理由がない――ということで、ほぼ完全に“容疑者不在”となってしまうのが困ったところ。
そこで、波矢多が容疑者探しを一旦あきらめて、“四日目の中断”の理由――“犯人は注連縄連続殺人を中断してまで何をしたのか”へと推理を方向転換するのが面白いと思いますし、別の殺人のために連続殺人を中断したという逆説的(?)な構図もユニーク。そして、“ケツワリ”したと思われていた菅崎由紀則を合里の身代わりとして殺害した、すなわち、死んだと思われた後で身代わりの死体を用意する、炭鉱の坑内という“密室”をうまく利用した“時間差バールストン先攻法”(*7)ともいうべき真相は、非常によくできています。
ただしこの推理、よく考えてみるとかなり怪しいところがあるのが難点。菅崎は“昨夜のうち”
(303頁)に“ケツワリ”したと見なされていたわけですし、波矢多が推理したように犯人が“夜中に神社で待ち合わせ、そこで菅崎を殺害した”
(436頁)とすれば、“三日目”の終わりからせいぜい“四日目”が始まる頃の犯行だと考えられるので、その後の作業で疲れた犯人が翌朝は“熟睡していた”
(437頁)とはいえ、菅崎殺しそのものは“注連縄殺人事件”の“四日目”の妨げにはならないはずです。
実際のところは、ここまでの推理の結果として“容疑者不在”となったことを受けて、死んだことになっている合里を容疑者として“復活させる”のが先で、菅崎殺しはそれを可能にするための手段として浮かび上がる、という手順になるのでしょうが、演出効果のために順序を逆転させて真犯人を最後に明かすというのはわからないでもありません。しかしそれにしても、“なぜ四日目に中断されたのか”という設問が適切でないように思われます。
というのも、“四日目”は救護班の入坑から“合里”の遺体の引き上げ、そして“合里”の通夜と、遅くまで“イベント”続きなので、犯人が犯行を延期しても不思議はないのではないでしょうか。合里の肉親である“隆一”には特に注目が集まるはず(*8)で、通夜が終わるまで犯行の機会はなさそうです(*9)し、この時点で次の被害者と目される水盛課長からして、普段より多忙でつかまえにくいことは明らかでしょう。そう考えると、波矢多が“四日目の中断”をことさらに問題視していること自体、どうもおかしな話だといわざるを得ません。
作中の波矢多の推理はさておき、第一に鄭南善の復讐という動機を考えると、合里が生きていさえすれば最も犯人にふさわしいことは明らかなので、少なくとも前述のように“容疑者不在”となったところで、合里の生存を疑うことは難しくないように思います。一方で、“合里殺し”の不可能性の高さ――とりわけ、凶器の注連縄を正規のルートでは坑内に持ち込めそうにないこと(*10)から、“秘密の抜け穴”の存在を十分に想定できると思われる(*11)ので、そこから“時間差バールストン先攻法”にまでたどり着くことも可能ではないでしょうか。
そこまで見抜くことができれば、(様々な変装により(*12)作中では正体を隠しおおせているとはいえ)絶妙なタイミングで登場してきた“隆一”に疑いを向けることも難しくはないでしょう。しかし、合里が“隆一”になりすましているとすれば、鯰音坑に来る可能性があった本物の隆一が宙に浮いてしまいますが、それが、鄭南善の手記でもわからなかった木戸が殺された理由につながる(*13)ところが非常によくできています。
事件が解決された(*14)後の結末ではさらに、“合里光範”が鄭南善その人だったことが明かされるとともに、終戦から間もない時期に注連縄を凶器に使ったことそのものが、犯人が日本人ではないことを示唆する手がかりだったことが示されますが、目の前に大胆にさらされているにもかかわらず、時代の違いゆえに読者がその重大さに気づきにくいところも含めて秀逸です。そして再会を約した二人の間に、やがて起こる朝鮮戦争が影を落とすラストも印象的です。
*2: 同じくなくなっていた電球とは違って、他の住人が持ち去っても役に立たないものですし、部屋の配置や犯行のタイミングを考えると、一ノ三にあった鍵の棒が実際にトリックに使われた可能性が高いのではないでしょうか。
*3: 波矢多が目にした握り飯が
“少しだけ齧ってある”(233頁)という手がかりも絶妙です。
*4: 窓が施錠されて開かないことが確認されれば、死体発見後に鍵の棒が本物にすり替えられた(434頁)ことになり、その機会があった人物は限られます。
*5: この問題を回避するには、犯人を突き止めた後に密室トリックを解明する手順にするのが手っ取り早いでしょうが、本書の真相を考えると、かなりまずい見せ方になってしまうのが難しいところです。
*6: 岩野がいきなり殺されると、“別のつながり”が(“秘密”ではなく)強力な“謎”となって、読者が謎解きを期待してしまう――結果として、鄭南善の手記による“別のつながり”の暴露が拍子抜けになる――おそれがあると思います。
*7: 思い込みもあるとはいえ、当日(か前夜)に殺されたばかりの死体を、死後三日の死体と見間違えるのかどうかが気になるところではあります。
*8: ……といいつつ、朝に寝ているのを波矢多が確認した(300頁)後は、“合里”の通夜(312頁)までの間――引き上げられた“合里の遺体”が運ばれて安置される場面ですら――波矢多視点での描写の中に“隆一”が登場しないのは、かなり不自然に感じられます。
もしかするとこれは、“四日目の中断”を謎として成立させるために、(日中不在だった大取屋らと違って)“隆一”には犯行の機会がなかったわけではないということにしておく狙いなのかもしれませんが……。
*9: 大取屋犯人説の中では、“四日目の中断”の理由を
“帰って来たのは夜でした。しかも戻ると同時に、合里さんの通夜に出ています”(417頁)と説明されています。
*10: これは後の岩野殺しも同様です。
*11: 神社付近の狸穴の話(112頁)も、一応の手がかりとなっています。
*12: これについて、波矢多の推理の中では
“剃刀と石鹸を買いました。それらが合里さんの部屋に見当たらなかったからです。”(431頁)と手がかりに言及されていますが、その場面の
“自分用の剃刀と石鹸を買うついでに、隆一のために日用品を揃えた。”(231頁)という記述では、読者が“合里の剃刀と石鹸がなくなっていた”と解釈するのはかなり難しいような気が……。
*13: 波矢多が隆一からの葉書を確認したわけではないようです(104頁~105頁)が、落盤事故よりも前から“隠れ蓑”を準備していたとは考えられないので、合里が語った葉書の内容は事実だと考えていいでしょう。
ちなみに、事件前に合里が
“鯰音坑を出て行くかもしれない”(426頁)と考えていたのは本当かもしれませんが、その根拠として、すぐ後に“嘘”だとされている(432頁~433頁)隆一に宛てた手紙を持ち出すのはいただけません。
*14: 犯人の合里を逃がした波矢多が、真相を警察に告げるとは考えられませんが、警察は岩野殺しが起きても菅崎を疑っている(352頁~353頁)ので、表面的にはそのままの決着でも問題ないように思われます。
2016.11.15読了