過ぎ行く風はみどり色/倉知 淳
第二の事件の刺殺トリックと第三の事件の毒殺トリックもよく考えられていますが、本書のミステリとしての中心はやはり第一の事件における神代のアリバイです。このアリバイが崩れてしまえば(他の登場人物のアリバイが成立しているために)すべてが瓦解してしまうという、ある意味かなりシンプルな構成になっていますが、そのアリバイを支える二つのトリックがかなり強力で、容易に真相を見抜けなくなっています。
まず一つは、左枝子の目が見えないことを隠蔽する叙述トリック(→「叙述トリック分類」の[A-2-3]その他身体的特徴の誤認)です。見た目でわかりやすい(つまりは描写しやすい)右足の障害によっていわば“マスキング”を行っているところや、身体障害者に対するある種のタブーのようなものを利用しているところなどは少々あざとく感じられますが、それでも視覚障害が非常にうまく隠されているのは間違いありません。とりわけ、その障害が事故による後天的なものであるために、例えば“母さんの笑顔は、神々しいまでに輝いていたっけ”
(3頁)といったフェアな記述が可能となり、ミスディレクションとして有効に機能しています。
もちろん、左枝子の視覚障害を隠蔽するだけでは単なるサプライズにしかならないのですが、本書の場合にはそこに神代と大内山の取り違えを組み合わせることで、神代のアリバイトリックを成立させているのが秀逸です。大内山の態度には釈然としないところがありますが、左枝子に対する遠慮があるのはわかりますし、同僚の神代をかばう心情もある程度は納得できるもので、さほど無理のないトリックといえるのではないでしょうか。
ただ、叙述トリックが絡んでいるので仕方ないとはいえ、解決のための手がかりが少ないように思います。取り違えを示す手がかりは、左枝子の証言のみに支えられた神代のアリバイが最も脆弱であること、その左枝子が狙われていること、“大内山は何気なく口にしたようだが、左枝子はその言葉にぎくりとして俯いてしまった”
(162頁)という記述、そして茶封筒の件くらいでしょうか(何か見落としがあるかもしれませんが)。もう一つ気になるのが、猫丸先輩が屋敷を訪れる前に左枝子の視覚障害を知っていた節があるところで、読者としてはややアンフェア気味な印象を拭えません。