失われた時間/C.ブッシュ
The Case of the Missing Minutes/C.Bush
1937年発表 青柳伸子訳 論創海外ミステリ59(論創社)
当初からトロウト老の溺愛ぶりには何だかうさんくさいものが感じられたので、少女に対する虐待という構図はある程度予測できたのですが、この題材は作品が発表された年代を考えると珍しいのではないでしょうか。もちろん、当時は虐待がなかったというわけではないでしょうが、それがあまり表に出されることのない時代というイメージがあります。そもそも、この時代のミステリで子供に焦点が当てられること自体、ほとんど例がないという印象です。
そして、被害者であるトロウト老が虐待者へと立場を転じることにより、事件の性格もアントニイ・バークリー『試行錯誤』やリチャード・ハル『善意の殺人』などのような“善行としての殺人”の様相を呈するようになるのが見どころで、トラヴァースらが犯人を追究する姿勢も自然と鈍くなっていきます。もともと作者が“十分間の謎”を最重要視しており、それをクローズアップするために相対的に真犯人の提示が軽くならざるを得ない部分があるのですが、真犯人を善人とすることでそのような扱いに説得力を持たせてあるところがよく考えられています(実際、犯人は誰でもいいと思わされてしまう部分もありますし)。
最後に残る“十分間の謎”はやはり秀逸です。そもそも、トラヴァースが犯行直後に屋敷を訪れたのが偶発的な出来事であり、犯人が予めそれを計算に入れていた可能性はあり得ないので、わずか十分間の齟齬を生じるためにアリバイ工作を行ったとは考えられません。それが、誰も疑うことのなかった(そして警察の事情聴取も回避された)ジャンヌの手によるものだったという真相は十分に意外ですし、夜ごとの虐待に対する唯一のささやかな抵抗が結果的に真犯人を守ることになったという皮肉な相互作用が何ともいえません。
2007.04.21読了