N・Aの扉/飛鳥部勝則
本書における作者の狙いは、「出口 『ここは私の遊び場』――入口ふたたび」の最後に“浜崎茂”の言葉として記されている、“この《作者》パターンと《メビウスの輪》を組み合わせたらどうだろう”
(236頁)に沿ったものだと考えられます。それは、本書の冒頭と最後が“ゴースト・ストーリーを語ろう。”
(7頁及び237頁)という同じ文章になっていることにも表れています。
仮に『魔性』浜崎茂著という本があるとする。(中略)登場人物《田村》が書いているという設定でもノンフィクション風だと《浜崎》を作者と見てしまう。(中略)ところが、最後まで読むと記述者《田村》の正体は、作者《浜崎》ではなく登場人物《石塚》だったということがわかるのだ。石塚すなわちN・Aである。(237頁)
“浜崎茂”は最後に上のような具体例を挙げています。これはあくまでも作中の《浜崎》=《田村》の視点によるものですが、実は本書を「第一の扉」から読み始め、「出口」の後に「入口」に戻れば、ほぼそのまま――《田村》=《浜崎》の記述だと思っていると「入口」で記述者が《石塚》にすり替わる――だととらえることもできるのではないでしょうか。
もちろん、本書――飛鳥部勝則『N・Aの扉』――の読者としては、最初から順番どおりに読むのが当然ですし、またさらにもう一つ外側に“枠”――作者・飛鳥部勝則の存在――があるわけで、上の例よりはやや複雑なものとなるでしょう。そのあたりを、できるだけ上に引用した記述を生かして以下に表してみます。
『N・Aの扉』飛鳥部勝則著という本がある。(中略)登場人物《石塚》が書いているという設定でもノンフィクション風だと《飛鳥部》を作者と見てしまう。そうすると、登場人物《田村》が語っているという設定の部分も《飛鳥部》=《石塚》を作者と見てしまう。(中略)ところが、最後まで読むと石塚すなわちN・Aであり、記述者の正体は《石塚》ではなく《浜崎》すなわち登場人物《田村》だったということがわかるのだ。(筆者が一部改変)
最初の「入口」(のうち、少なくとも授賞式の部分(13頁後半以降))は明らかに《石塚》の視点で描かれているわけですが、それを《飛鳥部》の実体験に基づくノンフィクション風とすることで《石塚》と《飛鳥部》が重なり合い、読者は続く「第一の扉」の《田村》による語りの背後にも《飛鳥部》=《石塚》の影を意識させられます。ところが、その石塚成文は《田村》の作品の登場人物(→“ワトソン役の石塚成文”
(121頁))であり、さらには《田村》の創造した名探偵“N・A”その人だったことが明かされ、最後の「出口」では《浜崎》すなわち登場人物《田村》が“記述者”として仕掛けを解説し、そして“ゴースト・ストーリーを語ろう。”
という一文を介して冒頭に戻ると本書“『N・Aの扉』飛鳥部勝則著”の読者は途方に暮れる――というのが、作者・飛鳥部勝則の狙いだと考えることができます。
さらにいえば、「第一の扉」が非合理的な幕切れとなっているのは、最後の《浜崎》による“ホラーをでっちあげている方がいいかもしれない。”
との一文に、あるいはよりストレートに“ゴースト・ストーリーを語ろう。”
(237頁)に対応するものとも考えられますし、やや唐突に挿入されている感のある「第二の扉」の『それからの孤島』は、《田村》の“記述者”としての立場を補強するとともに、その中で語られている“千春”・“千夏”・“千秋”が登場(?)する「第一の扉」がフィクションであることを示す伏線ととらえることもできるでしょう。
つまるところ、本書の不可解な構成に対して、最後の《浜崎》による解説は一つの光明を与えるものであり、それぞれメタレベルでの“謎”―“解決”に対応する形になっている点で、本書は“メタ視点でのミステリ”といっていいのではないでしょうか。
ところで、田村の作品『EVIL SPIRIT――魔性』の中に登場する密室構成のための道具、展示棚から持ち去られた“十二センチ四方くらいの正方形の底をしたもの”
(131頁)が何なのか、さっぱり見当がつきません――と書こうとしたところで思いついたのですが、もしかして『ヴェロニカの鍵』に出てきた“アレ”のことでしょうか。