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  4. 牧神の影

牧神の影/H.マクロイ

Panic/H.McCloy

1944年発表 渕上痩平訳 ちくま文庫 ま50-3(筑摩書房)

 犯人については、「訳者あとがき」で言及されている(361頁)アルゴスの反応*1という手がかりもありますが、メタ的な読み方――“作者の狙いは何か”に着目した読み方をすれば、見当をつけることができるようになっています。“メタな手がかり”となるのは、犯人を“牧神{パン}”になぞらえてあること、そしてフェリックス伯父が遺した暗号文の存在の二点です。

 まず、犯人が“牧神{パン}”になぞらえられている中で、あからさまに“牧神”を意識した造形の人物が登場しているのが注目すべきところ。コテージにあった大理石の像*2“山羊か雄羊か雄牛みたいな毛むくじゃらのふくらはぎと二つに割れた蹄”(89頁~90頁)を持ち、フェリックス伯父の著書にも“山羊の脚”(169頁)と記されている“牧神”の特徴をみると、ロニーが抱える足の障害はその暗喩だと考えることができるのではないでしょうか。

 これだけならレッドへリングの可能性もないではないが、そこでもう一つ、暗号文の存在が有力なヒントとなります。アリスンによる暗号の解読が、事件の真相解明と無関係とは考えにくい――とすれば、“牧神”が暗躍し始める前に亡くなったフェリックス伯父が知り得た事実が鍵となるわけですから、それは“牧神”の正体を直接指し示すものではなく、アームストロング大佐が指摘している(230頁)ように伯父自身の死に関するものだと考えられます。そうすると、容疑者は実質的にロニーただ一人に限られてしまうでしょう。

 「訳者あとがき」では、容疑者は“アームストロング大佐、ロニー、ヨランダ、ジェフリー、マットの五人”(361頁)とされており、コテージでアリスンを脅かす“牧神”については確かにそのとおりなのですが、“フェリックス伯父殺し”を念頭に置いてみると、アリスンがニューヨークを離れてから登場してきたヨランダ、ジェフリー、マットの三人には、フェリックス伯父を殺す機会があったとは考えにくく、待っていれば暗号が手に入ったはずのアームストロング大佐については、“暗号目当て”の動機が成立しないことになります。

 フェリックス伯父が死んだ日にはニューヨークにいた(298頁)ヨランダとジェフリーは、厳密にいえば犯行が不可能というわけではないのですが、これは単に“アリバイがない”というだけで、他に犯人であることを積極的に示唆する伏線なども見当たらないので、仮に暗号文の中で名指しされていたとしても読者を納得させるのは困難でしょう。これは、マットについても同じことがいえます*3

 またアームストロング大佐については、別の動機――例えば、ドイツのスパイであることをフェリックス伯父に知られた、など――も考えられなくはありませんが、そもそも、(まだ解読できていなかったとはいえ)暗号の専門家である大佐に暗号文で対抗するのは明らかな愚策なので、暗号文を作成した時点でフェリックス伯父は大佐を信頼していた、と考えるのが妥当でしょう。

 このように犯人の見当をつけやすくなっているのは、意図的な“親切設計”ではないかと考えられます。前述の手がかりもあるとはいえ、“正攻法”で犯人を解き明かそうとすれば、作中のアリスンと同様に暗号を解読するしかないわけで、実際に暗号解読に挑む読者がほとんどいないであろうことは作者も承知の上で、読者が暗号を解かずとも犯人にたどり着けるようになっている、ということではないでしょうか。

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 暗号の解読法については、まずフェリックス伯父の“紙と鉛筆とタイプライターがあればいい”(37頁)という手がかりが絶妙。アリスンが最後に指摘している*4ように、紙と鉛筆があれば十分でタイプライターは不要なのですが、“筆記用具つながり”で目立たないように紛れ込ませてあるのがお見事です。しかもこの言葉、“特別な装置が必要ない”という文脈で発せられているために、“普通の使い方”(タイプ打ち)にしか意識を向けにくくなっている感があります。

 もう一つ、フェリックス伯父のダイイングメッセージともいえる、タイプライターテーブルの移動も巧妙です。そのままでは犯人に変化を気づかれることなく、アルゴスがぶつかって初めて顕在化する上に、暗号文と組み合わせなければ意味がわからないという点で、ダイイングメッセージとしては非常に強力ですし、「訳者あとがき」で指摘されている(362頁)ように、読者に対する見せ方も実によく考えられています。

 そしてもちろん、ヴィジュネル暗号のための変則的なアルファベットとして、タイプライターのQWERTY配列(→Wikipedia)を使うアイデアが非常に秀逸*5で、戦地用暗号に求められる厳しい条件を見事に満たしています。また、英文の頻度順の文字列を鍵に使うのも面白い“トリック”で、エドガー・アラン・ポーの某作品(「黄金虫」ではなく)を思い起こさせるところがあります。

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*1: “犬が吠えなかった”というのは古典的すぎる手がかりともいえますが、本書の場合、“牧神”の実在を疑わせる根拠にもなっているところがよくできています。
*2: この像について、アリスンが“ディオニュソスなの? それとも(中略)牧神{パン}なのかな?”(90頁)としているのは、一見すると“迷彩”のようにも思えますが、本書の冒頭では“ロニーはアテネのアポロンではなく、ミュケナイのディオニュソスであり”(11頁)と評されているので、“ロニー≒ディオニュソス≒牧神”という形で間接的にロニーと“牧神”を結び付けてある、ということではないでしょうか。
*3: アリスンが出会った時の“確かにどこかで聞いた声だ。”(69頁)など、聞き覚えのある声で疑いを向ける記述が何度かありますが、それ以上のものではないので説得力を生じるには不十分(それにしても、まさか冒頭で電話をかけてきた新聞記者だとは思いませんでしたが……)。
*4: なぜかここでは鉛筆ではなく“普通のペン”(330頁)になっていますが……。
*5: マクロイのファンであればお気づきかもしれませんが、(以下伏せ字)以前の作品でタイプライターのキー配列をネタにつかっている(ここまで)ことが、この発想を生み出すきっかけになったのではないか、とも思われます。

2018.07.12読了