彼女がペイシェンスを殺すはずがない/大山誠一郎
2003年刊 本格ミステリ作家クラブ・編『論理学園事件帳』(講談社文庫 ほ31-5)収録
2013.04.01読了
カーター・ディクスン『爬虫類館の殺人』を下敷きにした目張り密室とガス中毒死ですが、目張り密室の特徴の一つである現場の密閉性を利用した犯行――と見せかけて、ガスの臭いだけを使ったトリック(この部分には前例(*1)もありますが)を組み合わせることで、ガス中毒死では想定しづらい“密室内に犯人がとどまっていた”パターンを成立させているところがよくできています。あるいは、ガスが充満した状態を演出することで“犯人がそこにいない”と思わせるための目張り密室、ととらえる方が適切かもしれませんが、前例のあるトリックの組み合わせで新たな盲点を生み出しているのが秀逸です。
トリックに使われたテトラヒドロチオフェンはあまりなじみのある物質ではありませんが、いわゆる“ガスの臭い”が別の物質によるものであることさえ知っていれば、トリックに思い至るのは必ずしも不可能ではありませんし、作中でフェル博士が挙げている第三の条件――“犯人は(中略)園芸や農園に関わりのある人物”
(77頁)――なしでも他の条件があれば犯人を特定することは可能なので、この点はさほど大きな問題ではないように思われます。
ただし、以下のようにいくつかの問題があるのは残念。
- 1.〈ペイシェンス〉の死の意味
- 『爬虫類館の殺人』では、〈ペイシェンス〉の死は犯人が意図した行為ではなく、結果的にそうなったにすぎず、単に“自殺ではない”ことを示す手がかりとして扱われているのですが、この作品ではそこに犯人の積極的な意図を組み込む、意欲的な試みがなされています。しかし、用意された真相はいただけません。
というのも、寝室に〈ペイシェンス〉の死体がなかったとしてもガス中毒死した被害者の遺体があり、さらにストーブから外れたホース、そして何よりガスの臭いがあれば、“ガスが充満している”と見せかけるには十分なはずだからで、〈ペイシェンス〉がもともと寝室にいたのならともかく、わざわざ居間から持ち込んで殺すことにさしたるメリットはないでしょう(*2)。つまり、この作品の密室トリックであれば、“目張りの密室を作るのに鸚鵡が必要不可欠”
(72頁)ではない、といわざるを得ないのです。
したがって、〈ペイシェンス〉の死は密室トリック解明の手がかりにもなり得ない、ということになります。
- 2.どうやって揮発させたのか
- 作中では
“ドアと窓に目張りすると、テトラヒドロチオフェンを揮発させた。”
(75頁)と簡単に書かれるだけで、具体的にどう実行するのかが説明されていないのが、いかにも作者らしいというか何というか。
ここで考えてみると、寝室にガスが充満するのに“四十分ほどかかる”
(60頁)のに対して、犯人にとっての時間的な余裕は、目張りの作業も含めて“四時四十分”
から“五時過ぎ”
(いずれも75頁)までの二十分ほど。液体が揮発する速度はガスが拡散する速度よりもはるかに遅く、例えば“瓶の蓋を開けて放置する”程度ではどう考えても無理でしょう(*3)。
加熱するか、あるいは部屋中に液体をぶちまけることで、揮発を速めることは可能ですが、前者は加熱手段や後始末の点で難がある一方、後者はフェル博士らの到着までに全部揮発しきれるかどうか――床などが濡れていれば不審を抱かれかねない――不明で、確実性に欠けるきらいがあります。
このあたりは、単なる密室ものにとどまる限りはそれほど問題ではなかったところ、密室トリックがアリバイトリックとしての意味を持たされたために、スケジュールをある程度厳密にする必要が生じ、その結果として苦しいことになっているように思われます。
- 3.ガスの臭いの隠蔽
- 犯人のヒギンズは、体に染みついたガスの臭いを隠蔽するために葡萄酒を浴びたとされていますが、その前に――ガスの臭いが染みついた体で一同の前に現れているのですから、その時点で露見してしまうのは確実。犯人にとってはまったく無意味なトリックで、作者の都合による以外の何ものでもありません。
- 4.犯人の“失言”
- ラストでフェル博士は、窓の指紋に関する
“モースタンさんのは遺体発見のときについたんだ。”
(59頁)というヒギンズの言葉を、ヒギンズが“ベッドの下に隠れて、一部始終を見て”
(87頁~88頁)いたことを示す失言だとしています。
しかしながら、フェル博士らが現場に侵入し、その中の誰かが窓を開けたことは明らかなわけで、窓からモースタンの指紋が発見される一方でフェル博士やハドリー警視の指紋は発見されなかったことから、“遺体発見の際にモースタンが窓を開けて指紋を残した”と推測するのはむしろ自然。他にどのような可能性が考えられるのか(それとも、巡査部長がそのような推測などするはずがない、ということなのか)、ちょっと問い詰めてみたいところですが、いずれにしてもフェル博士がいうほど致命的な失言とはいえないでしょう。
ついでにいえば、ベッドの下に気づかれないように隠れた状態で、モースタンが窓を開けるところの“一部始終”を目撃するのは、かなり困難ではないかと思われますが……。
- 5.“原典”との不整合
- これは半ば言いがかりに近いものがあるかもしれませんが(苦笑)、フェル博士が登場するジョン・ディクスン・カーの某作品(*4)の内容を踏まえると、フェル博士がこのトリックを解明しているのはどうも違和感が残ります。
5.はともかくとして、1.から4.は(目立たないかもしれませんが)大きな難点といわざるを得ません。
*1: すぐに思い出せるのは、国内作家(作品名)泡坂妻夫(ここまで)の長編(作品名)『妖女のねむり』(ここまで)ですが、他にもあるような気がします。
*2: “ガスが充満している”という印象をより強める効果があるのは確かですが。
*3: 揮発性とはいえ、テトラヒドロチオフェンの沸点は119℃(「テトラヒドロチオフェン - WIkipedia」より)で、例えばエタノール(沸点78.37℃;「エタノール - WIkipedia」より)よりも揮発しにくいと考えられます。
*4: フェル博士が(つまりはカーが)“やらかして”いる、(作品名)『連続殺人事件』(ここまで)のことです。
*2: “ガスが充満している”という印象をより強める効果があるのは確かですが。
*3: 揮発性とはいえ、テトラヒドロチオフェンの沸点は119℃(「テトラヒドロチオフェン - WIkipedia」より)で、例えばエタノール(沸点78.37℃;「エタノール - WIkipedia」より)よりも揮発しにくいと考えられます。
*4: フェル博士が(つまりはカーが)“やらかして”いる、(作品名)『連続殺人事件』(ここまで)のことです。
2013.04.01読了