ヘンリ・メリヴェール卿vol.2

カーター・ディクスン

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殺人者と恐喝者 Seeing is Believing

ネタバレ感想 1938年発表 (高沢 治訳 創元推理文庫118-36/森 英俊訳 原書房/長谷川修二訳『この眼で見たんだ』 別冊宝石63号)

[紹介]
 殺人者と恐喝者が同居するアーサー・フェインの邸。そこでは、アーサーの妻ヴィッキーを被術者とした催眠術の実験が行われようとしていた。催眠術で犯罪行為を行わせることはできないが、本物そっくりに見えても危険のないゴムの短剣であれば、施術者の命令に従って夫のアーサーを刺すことも可能なはずだった。だが、短剣が置かれていたテーブルには近づいた者はいなかったにもかかわらず、ヴィッキーが手に取った時には本物の短剣にすり替わっていたのだ……。

[感想]
 かつて『この眼で見たんだ』という題名で別冊宝石63号に掲載された後、『殺人者と恐喝者』と改題されて創元推理文庫で刊行されたものの、長らく入手困難となっていた“幻の作品”で、2004年に原書房ヴィンテージ・ミステリ・シリーズの一冊として刊行された後、2014年に創元推理文庫の新訳版が刊行されました*1。入手困難な時期が続いたとはいえ決して出来が悪いわけではなく、色々な意味でカーらしさが満載の愉快な作品といえるのではないでしょうか。

 冒頭でいきなり殺人者と恐喝者の同居という奇妙な構図が示され、それに気づいたヴィッキーの苦悩もひとしおというところで、さらに道ならぬロマンスを絡めて登場人物間の緊張を高めた上で、特にヴィッキーにとっては何とも皮肉な催眠術の実験へとつなげていき、思わぬ事件を引き起こす、サスペンスフルな展開が非常によくできています。

 その一方、随所で物語の雰囲気を変えるのに大きく貢献しているのが、H.Mが口述しているとんでもない回想録です。特に、不倶戴天の敵として立ちはだかる叔父に対して、幼少のH.Mが次から次へと仕掛ける壮絶な悪戯は、老いてなお“悪ガキ”であり続けるH.Mらしいエピソードで、ファンであれば絶対に見逃せないところでしょう。

 さて、いかにもカー好みの題材と思われる催眠術の実験の最中に起きる事件は、なかなか面白いものになっています。それ自体がトリッキーな実験を逆手にとって、本来であれば不可能なはず*2の“催眠術による殺人”が演出されているのが実に巧妙ですし、その手段である短剣のすり替えは一見するとまったく隙のない不可能状況で、強烈な謎として読者にアピールしています。

 その後も巧みにロマンスとサスペンスを組み合わせながら物語は進んでいき、最後に明かされるのは……微妙に脱力もののすり替えトリックと、あまりにも大胆にすぎてかなりアンフェア気味のトリック。客観的にみて、腹を立てる読者がいてもおかしくない、やや唖然とさせられる真相ではあります。カーがどこまで意図していたのかはわかりませんが、犯人の迎える凄まじい“結末”も含めて、全体としては『魔女が笑う夜』に勝るとも劣らないバカミスという印象です。

 ……というようなことを念頭に置いて広い心で読みさえすれば、十分に楽しめる佳作といっていいように思います。そして創元推理文庫新訳版では読後の楽しみとして、本書でのカーの騙しの技巧を読者の立場から一つ一つ解き明かしていく、麻耶雄嵩氏による名解説が用意されており、カーの魅力を存分に味わえる一冊となっています。

 なお、創元推理文庫新訳版137頁(原書房版では133頁)に登場する人名は、心当たりがなければ速やかに忘れることをおすすめします。

*1: 創元推理文庫新訳版の帯の“半世紀ぶりに復活”という惹句は、創元推理文庫版としては“半世紀ぶり”という趣旨でしょう(旧訳版の刊行は1959年)。
*2: 作中で詳しく説明されていますが、端的にいえば催眠術は万能ではない、ということです。

 なお、本書の旧訳『この眼で見たんだ』Kaluさんよりお譲りいただきました。あらためて感謝いたします。

2000.09.03 『この眼で見たんだ』読了
2008.03.09 原書房版『殺人者と恐喝者』読了 (2008.03.17改稿)
2014.02.04 創元推理文庫新訳版『殺人者と恐喝者』 (2014.02.09改稿)読了

仮面荘の怪事件 The Gilded Man

ネタバレ感想 1942年発表 (厚木 淳訳 創元推理文庫119-5/村崎敏郎訳『メッキの神像』 ハヤカワ・ミステリ491)

[紹介]
 かつての大女優が建てた、個人劇場まで備えられている豪勢な邸〈仮面荘〉。現在の持ち主である富豪ドワイト・スタンホープは、邸内に数多くの高価な名画を陳列していたが、招待客の目には不用心とも映っていた。はたしてその夜遅く、名画が飾られた広間からの時ならぬ激しい物音に一同が駆けつけてみると、絵画を盗みに押し入ったとみられる覆面の盗賊が、その場にあった果物ナイフで胸を刺されて倒れていた。ところが、その覆面の下から現れたのは、他ならぬ〈仮面荘〉の主人スタンホープの顔だったのだ……。

[感想]
 本書は、カー名義の『死が二人をわかつまで』と同じく短編を長編化したもので、カー名義で発表したフェル博士ものの短編*1をH.Mものの長編に仕立て直してディクスン名義で発表したという、一風変わった“経歴”が目を引きます。しかし、『死が二人をわかつまで』とは違って短編のプロットをそのまま引き延ばしたような形で長編化されたため、短編を先に読んでいると面白味がかなり薄いのが難点。加えて、本書単独でみても長編化の弊害が顕著に表れているという、何とも困った作品になっています。

 もちろん、長編化されたことで事件が発生するまでの導入部が長くなり、舞台背景や登場人物がじっくりと描き込まれることで物語に厚みが出ているのは評価すべきところで、原型の短編には(少なくともはっきりした形では)存在しなかったロマンスが導入されているのも、定番といえば定番ながら雰囲気を盛り上げるのに一役買っています。

 やがて起こる事件は原型の短編ほぼそのままですが、“邸の主人が変装して自宅に盗みに入ったのはなぜか?”という不可解な謎はやはり魅力的ですし、“〈覆面の盗賊〉の犯行を阻止した人物が名乗り出なかったのはなぜか?”というもう一つの謎と相まって逆説めいた不条理感を生じているのが見どころです。また、当のスタンホープの依頼で招待客を装って滞在していたウッド警部によって、多少なりとも筋の通りそうな仮説を封じる事実が早い段階で持ち出されているのも周到です。

 とはいえ、どう考えても短編で扱うべきネタ*2なのはいかんともしがたく、それだけで長編を支えきるには明らかに力不足である上に、その性質からみて事件をこれ以上発展させようがないというのが厳しいところです。そこでカーは長編化に際して、事件を終盤まで引っ張るための唯一の手段とも思われる“ある改変”を加えているのですが……実のところは単に事態が停滞しているにすぎず、物語が完全に中だるみしてしまっているのは否めません。

 フェル博士からH.Mへの探偵役の変更には、H.Mお得意のドタバタで物語を引き延ばそうという狙い*3もうかがえるところで、いつものように登場するなり笑わせてくれるのはもちろんのこと、終盤にはインドの大魔術師に扮して舞台上で奇術を演じるという大きな見せ場まで用意されており、少なくともH.Mのファンならば必見といえます。が、いつも以上に事件の解決そっちのけでドタバタに興じているように見えてしまうあたりは、さすがにいかがなものか。

 というのは、前述の“ある改変”の結果としてH.Mらが“最優先すべきこと”が生じているにもかかわらず、ドタバタにかまけてそれがおろそかにされているように見えるからで、結果として事件の結末がより後味の悪いものになっています。実をいえば、その結末そのものは謎解きのために不可避ともいえるのですが、“改変”による事態の先送りがそれを回避し得る余地を生み出してしまったのが致命的で、残念ながら長編化によって無残に破綻してしまった失敗作といわざるを得ないのではないでしょうか。

 なお、手持ちの『仮面荘の怪事件』は1981年に刊行された初版ですが、2000年に再版された際に若干改稿されているようです*4

*1: あまり意味はないようにも思いつつ、一応は伏せておきますが、短編集(一応伏せ字)『妖魔の森の家』(ここまで)に収録されている(一応伏せ字)「軽率だった夜盗」(ここまで)です。
*2: カーの作品の中に、「よくこんなネタを長編にしたものだ」と思わされるものがいくつか見受けられるのは確かですが、本書はそれらとは一線を画しているように思われます。
*3: あるいは、ディクスン名義での出版契約などの事情もあったのかもしれませんが……。
*4: 少なくとも、“ドワイト・スタンホープ”“ドワイト・スタナップ”に変更されているようですが、その他の変更点は不明です。

1999.10.14 『メッキの神像』読了
2009.01.24 『仮面荘の怪事件』読了 (2009.02.11改稿)

貴婦人として死す She Died a Lady

ネタバレ感想 1943年発表 (高沢 治訳 創元推理文庫118-40/小倉多加志訳 ハヤカワ文庫HM6-3)

[紹介]
 海辺の村の人里離れた一軒家で、年老いた元数学教授の夫アレックと暮らす妻リタ。彼女は、村を訪れていたアメリカ人青年サリヴァンと、いつしか人目を忍ぶ恋に落ちていった――やがて事情を知った友人たちが、リタとサリヴァン、そしてアレックの関係を密かに見守る中、ついに破局が訪れる。家から海辺の断崖〈恋人たちの身投げ岬{ラヴァーズ・リープ}〉へと向かうただ二筋の足跡は、リタとサリヴァンのものに違いなかった――道ならぬ恋に悩んだ二人が手に手を取って海に身を投げる、ありふれた心中事件かと思われたのだが、引き上げられた二人の死体が事態を一変させて……。

[感想]
 ハヤカワ文庫版が長らく(もしかすると十年以上?)品切れになっていたところ、創元推理文庫から新訳で刊行されてようやく入手しやすくなった、カーとしてはやや異色の傑作です。というのも、オカルト要素が完全に排除された上に、恒例のH.Mによるドタバタも(その場面自体は強烈ではあるものの)物語の中では控えめに感じられますし、人妻と青年の道ならぬ恋というモチーフが全編に影を落として静かな雰囲気が漂うところも、カーにしては珍しい印象です。

 事件に関わった老医師による手記という体裁*1を取っているのもカーとしては異例で、リアルタイムの描写ではなく手記という形に落とし込まれること、そしてまた手記の主であるルーク・クロックスリー医師が(年齢や立場のせいもあって)ロマンスや冒険などとは無縁な人物であることで、物語の淡々とした印象が強まっている感があります。例えば、事件に直結しているはずのリタとサリヴァンの数ヶ月にわたる恋の経緯が、本書の序盤で実にさらりと描かれるにとどまるあたりにも、ルーク医師と当事者たちとの微妙な距離感がうかがえます。

 実のところ、冒頭に“察しが悪い私は、残念ながら何が起こっているのか最後まで気づかなかった。”(7頁)と記されているように、リタと夫のアレックの友人でありながらも悲劇の前兆に気づくことなく、事件を防ぐために何の手立てもできなかったというルーク医師の後悔が、手記の端々ににじみ出ています。そしてそれが、誰よりも積極的に事件の真相解明に当たる*2原動力の一つとなっているのも、本書の見どころといえるかもしれません*3

 さて事件の方は、ある晩リタとサリヴァンが二人して姿を消し、その名も〈恋人たちの身投げ岬{ラヴァーズ・リープ}〉という断崖へ向かう足跡だけが残されていたことから、心中という結論に疑いの余地があるようにはみえません。ところがその完璧すぎる状況がさほど引っ張られることなく、殺人であることを示す証拠が早々に発見されるのがうまいところで、それによって生じる強烈な不可能状況が興味を引きます。

 カーは足跡テーマの作品をいくつか書いています*4が、少なくともトリックの扱いまで含めて考えれば、本書はそれらの作品の中で最高の出来といっても過言ではありません。細部までよく考え抜かれていながら無闇に複雑なものになってはいない、非常によくできた仕掛けだといえるでしょう。そして本書の中で最も印象に残るのが、ついに犯人が明かされる箇所の切れ味鋭い演出と、あくまでも静かに語られる真相がもたらす苦く重い余韻で、数あるカー作品の中でも屈指の味わい深い結末といっていいのではないでしょうか。

*1: 作中作などのように最初からはっきりと示されているわけではありませんが、“事件のことを書くといまだに不快な衝撃がよみがえる。しかし書いておかねばなるまい。”(8頁)という記述をみれば、手記であることは明らかでしょう。
*2: 本来の探偵役であるH.Mを、脇に追いやってしまうかのような勢いです。
*3: もちろん、(強力な不可能状況ゆえに)ルーク医師自身の証言の信憑性が疑われている、ということもありますが。
*4: 本書以外には、カー名義の『テニスコートの殺人』『月明かりの闇』『引き潮の魔女』、ディクスン名義の『白い僧院の殺人』、そして短編の「空中の足跡」『不可能犯罪捜査課』収録)・「見えぬ手の殺人」『パリから来た紳士』収録)など。

2000.01.30 ハヤカワ文庫版再読了
2008.05.08 ハヤカワ文庫版再読了 (2008.06.06改稿)
2016.03.08 創元推理文庫版読了 (2016.05.08一部改稿)

爬虫類館の殺人 He Wouldn't Kill Patience

ネタバレ感想 1944年発表 (中村能三訳 創元推理文庫119-02)
[創元推理文庫版『爬虫類館の殺人』(山田維史)]

[紹介]
 第二次大戦下のロンドン。動物園の園長であるエドワード・ベントンは、ドイツ軍による空襲の危機が迫るのを受けて、動物園の閉鎖を余儀なくされるという苦境に直面していた。私財を投げ打って郊外に私設動物園を作り、何とか動物たちを救おうとする計画も難航する中、ベントンはドアや窓の隙間に内側から目張りされた自宅の書斎で、〈ペイシェンス〉と名づけられたとともにガス中毒死してしまう。現場の密室状況から自殺以外の可能性は考えにくかったが、爬虫類に特別な愛情を注いでいたベントンが、蛇まで一緒に死なせるはずはなかったのだ……。

[感想]
 本書の原題は『He Wouldn't Kill Patience』――“彼がペイシェンスを殺すはずがない”*1というもので、邦題ももともとは『彼が蛇を殺すはずがない』*2だったのですが、文庫化に際して改題されています。動物園の爬虫類館が重要な舞台の一つとなっているのは確かですが、実際には爬虫類館で殺人が起きるわけではないので、『爬虫類館の殺人』という題名にはやはり問題があるように思われます。

 それはさておき、物語はその爬虫類館で、ともに〈消える大蛇〉という演目の参考にしようと訪れた男女二人の奇術師、ケアリ・クイントとマッジ・パリサーが出会うところから始まります。曾祖父の代からの確執を抱える二人は、今またどちらの一族が考案したのか定かでない奇術をめぐって対立することになるのですが、それが(冒頭の一文で宣言されている*3通り)カー名義の『連続殺人事件』さながらにロマンスへと転じていくのは、もはやカー作品のお約束。本書ではさらにいきなり登場したH.Mが絡んで、華々しい(騒々しい?)幕開けとなっています。

 かくして、爬虫類館でH.Mとともに大騒動を起こしてしまった二人の主人公(ケアリとマッジ)が、謝罪のために園長のベントンのところへ赴くことになりますが、このあたりの導入はなかなか巧妙です。というのは、

(以下、本書のネタを暗示するおそれがあるので、一部伏せ字にしておきます)
本書では解決の手がかりを示すのに奇術師の存在が不可欠であるために、本来であれば被害者(事件)との間に接点が作りにくいところを、強引に騒動を起こして事件に巻き込んでいるわけで、ドタバタがついて回るH.Mのキャラクターが生かされているところも含めて、よく考えられているというべきではないでしょうか。
(ここまで)

 やがて起きる事件は、おそらくカー作品の中でも比較的有名な部類に入ると思われる“目張り密室”。クレイトン・ロースンとの“競作”というエピソードでも知られるこの謎は、単に施錠するだけの密室と比べて難易度が高く、作例がさほど多くない*4こともあってか、実質的な“元祖”である本書がいまだに代表的な作品とされています。トリックの中心部分はミステリクイズ本などで知られたものですが、シンプルで効果的なものであるのは確かですし、ミスディレクションや手がかり(の示し方)も含めて非常によくできていると思います。

 ベントンが自殺したと見せかける犯人の計画がすぐに破綻してしまい、密室の意義があっという間に台無しになっているのはいただけませんが、これはトリックとの兼ね合いもあって致し方ないところでしょう。気になるのはむしろその後で、犯人の対応が少々お粗末なのは否めませんし、それが物語としての間を持たせるだけのためという印象を受けてしまうのが残念なところです。

 とある理由で、謎解きに関してはH.Mの独壇場というわけではないのですが、それでも最後にはH.M最大の見せ場が用意されています。一筋縄ではいかないH.Mの魅力が最も強く表れた、屈指の名場面といえるでしょう。

*1: 本書と同じく“目張り密室”を扱った大山誠一郎「彼女がペイシェンスを殺すはずがない」の題名は、いうまでもなく本書の原題を下敷きにしたものでしょう。
*2: ディクスン・カー作品集11(東京創元社)。ちなみに、早川書房からは『爬虫館殺人事件』(村崎敏郎訳 ハヤカワ・ミステリ418)という邦題で刊行されています。
*3: “ふたりのロマンスは――そう呼んでよければ――ロイヤル・アルバート動物園の爬虫類館ではじまった。”(6頁)
*4: わかる範囲で、おおよそ発表年代順に並べてみます(未読・未確認のものもあります)。
  • カーター・ディクスン『爬虫類館の殺人』
  • クレイトン・ロースン「この世の外から」(オットー・ペンズラー編『魔術ミステリ傑作選』などに収録)
  • 荒巻義雄『天女の密室』
  • 折原一「密室の王者」・「脇本陣殺人事件」『七つの棺 密室殺人が多すぎる』収録)
  • 法月綸太郎『密閉教室』
  • 二階堂黎人「最高にして最良の密室」『増加博士と目減卿』収録)
  • 大山誠一郎「彼女がペイシェンスを殺すはずがない」(本格ミステリ作家クラブ・編『本格ミステリ03』『論理学園事件帳』収録)
  • 綾辻行人・有栖川有栖『安楽椅子探偵とUFOの夜』(映像作品)
  • 有栖川有栖『マレー鉄道の謎』
  • 二階堂黎人『稀覯人の不思議』
  • 二階堂黎人「亡霊館の殺人」(芦辺拓・他『密室と奇蹟』収録)
1999.10.30読了
2008.07.23再読了 (2008.08.10改稿)

青銅ランプの呪 The Curse of the Bronze Lamp

ネタバレ感想 1945年発表 (後藤安彦訳 創元推理文庫119-06)
[創元推理文庫版『青銅ランプの呪』(山田維史)]

[紹介]
 エジプトの〈王家の谷〉にて、セヴァーン卿らが率いる調査隊は新たな王墓の発掘に成功し、発掘品の一つである青銅のランプがエジプト政府からセヴァーン卿の娘ヘレン・ローリングに贈られた。だが、現地の占い師アリム・ベイはヘレンに恐るべき予言を告げる――青銅ランプにかけられた呪により、ヘレンはこの世から消失してしまうだろう、と。ランプを英国に持ち帰ったヘレンは、無事に邸に到着したはずだったが、自室にたどり着く直前に不可思議な状況で予言どおり姿を消してしまったのだ。関係者がいくら探してもヘレンは見つからないまま、やがて新たな予言が……。

[感想]
 エジプトというやや毛色の変わった*1舞台で幕を開ける本書ですが、お約束のH.Mによるドタバタを含めた発端の後、すぐに舞台が英国に移ってしまう展開は少々肩すかし。とはいえ、いわゆる“ファラオの呪い”を下敷きにしたオカルトネタが、青銅のランプという魅力的な小道具を媒介に、エジプトから遠く離れた英国に持ち込まれることで、より印象深いものになっている感はあります。

 その“青銅ランプの呪”の中心となるのは、本家“ファラオの呪い”とはまったく異なる、不可解な状況での“人間消失”です。この“人間消失”の謎は、カーとエラリイ・クイーンとのミステリ談義の中で、事件の発端として“最も魅力的”との結論に至ったというもので、そのあたりの経緯にも触れたクイーンへの献辞が添えられた本書は、カーにとって自信作の一つだと考えていいでしょう*2

 密室殺人などと比べるとインパクトに欠けるようにも思われる“人間消失”ですが、フーダニット(誰の意思による消失なのか)、ハウダニット(どのように消失したのか*3)、そしてホワイダニット(なぜ消失という形をとったのか)の集積としての、事件全体を包む謎めいた雰囲気――とらえどころのなさは、殺人のようにはっきりした事件とはひと味違った魅力といえるように思います。

 また、人間が“消失”するだけという現象が、犯罪行為の結果としては中途半端で不合理なものに感じられる部分があるのは確かですが、その不合理さ(筋の通らなさ)ゆえにオカルトとの親和性が高い*4のも見逃せないところで、本書でも“青銅ランプの呪”や(『読者よ欺かるるなかれ』を思わせる)怪しげな予言といったオカルトネタとの組み合わせにより、いかにもカー好みの謎に仕上がっています。

 序盤のヘレン・ローリングの消失に端を発し、さらに細々とした謎が提示されつつ、全体としてはやはり何が起こっているのよくわからない状態で物語は進んでいきます。派手さに欠ける割には分量があることもあって、やや冗長な印象を与えるきらいがないでもないですが、それなりにイベントも用意されていますし、例によってなかなか口を開かないH.Mに代わってマスターズ首席警部らが様々な解釈を持ち出すなど、十分に見どころはあると思います。

 消失トリックの一部には釈然としないところがありますし、それを支える伏線の一つに至っては噴飯ものというより他ないのですが、それらを物語の中にうまく組み込んだ手際は見事で、総体としてはまずまず。そして、表に現れていた事件の背後で“何が起こっていたのか”が、一つ一つ明らかにされていく場面は圧巻です。個人的には若干微妙な感覚の残る結末も含めて、傑作とはいかないまでも、カーらしい佳作といっていいのではないでしょうか。

*1: ただし、「カブト虫殺人事件」「RAY'S ミステリ批評」内→残念ながらリンク切れです)などで指摘されているように、ミステリの題材としては意外にポピュラーといえます。
*2: 実際、ダグラス・G・グリーン『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』によれば、カー自身が気に入っている作品の一つとして本書を挙げたことがあるようです(同書418頁及び423頁)
*3: 場合によっては、どのようにして消失し続けている(発見されない)のか、という謎も含めて。
*4: 三津田信三のホラーミステリでたびたび“人間消失”が扱われている(『蛇棺葬』『凶鳥の如き忌むもの』(及び原書房版に併録された短編「天魔の如き跳ぶもの」)・『山魔の如き嗤うもの』など)のも、それを裏付けているといえるかもしれません。

1999.12.28読了
2009.05.19再読了 (2009.06.27改稿)

青ひげの花嫁 My Late Wives

ネタバレ感想 1946年発表 (小倉多加志訳 ハヤカワ文庫HM6-9)

[紹介]
 変名を使って次々と結婚を繰り返す謎の男、ロージャー・ビューリー。相手の女たちはいずれも行方不明となり、現代の“青ひげ”と噂される中、ついに妻の死体を処理しようとするビューリーの姿が目撃される。だが、警察の張り込みをあざ笑うかのように、ビューリーは死体とともに消え失せてしまった……。
 ……そして十一年後、何者かが舞台俳優ブルース・ランソムのもとに、殺人鬼ビューリーを主役にした脚本を送りつけてくる。しかしその中には、警察しか知らないはずの事件の詳細が記されていたのだ。そしてランソムはとある田舎町を舞台代わりに、脚本に従ってビューリーの役を演じ始めるが……。

[感想]
本書は、H.Mものとしては珍しく不可能犯罪が扱われていない*1というだけでなく、捜査の手を逃れて行方をくらました“連続殺人鬼”を探し出すというストーリーも異色の作品です。カーの作品では、(クローズドサークルとはいかないまでも)ある程度限定された人間関係の中で事件が起こるのが基本で、被害者をあまり選ばず所在もわからない――なおかつ犯行をやめて久しい犯罪者を探し当てる本書のプロットは、カーとしてはあまり例を見ないものといえるように思います。

 どうもカーの作風にはそぐわなさそうな題材ではあるのですが、それでも強引な展開を盛り込むことで、いわば“自分の土俵”に持ち込んでいるのが何ともカーらしいところ。まず一つは、“殺人鬼”ロージャー・ビューリー自身の手による思しき、殺人鬼の犯行と“その後”を描いた脚本が俳優のもとに送りつけられるという発端で、この種の犯罪者らしい自己顕示欲の表れとしてもいささか無茶なのは確かですが、十一年の時を経て事件を再び動かすきっかけとしてはよくできています。

 さらにもう一つ、脚本を受け取った俳優ブルース・ランソムが、なぜか脚本に従って田舎町でビューリーを演じることになるという“超展開”が見どころ。誰しも予想するところではあるかと思いますが、いつしか“芝居”と“現実”の境界が曖昧になっていき、事情を知らない町の住人たちが疑心暗鬼に陥るのはもちろんのこと、視点人物をはじめ“芝居”であることを知っているランソムの友人たちに(ひいては読者にも)、奇妙な居心地の悪さのようなものをもたらしているのが何ともいえません。

 とにかくシンプルな“殺人鬼探し”がメインとなっているだけに、謎解きに重点が置かれているというよりもサスペンス寄りの印象が強く、“ビューリー事件”の再開を告げる死体出現の状況やタイミング、あるいは終盤の薄気味悪い舞台での対決など、演出には工夫が凝らされています。しかしその一方で、探偵役であるH.Mが序盤から物語に登場しながら、(ドタバタの見せ場*2はあるにせよ)探偵役として今ひとつ精彩を欠いているように感じられてしまうのは残念なところです。

 実のところ、死体の消失なども含めた真相は総じてさほどのものではないといわざるを得ないのですが、細かい伏線やミスディレクションなどの小技が利いているのは確かで、“驚愕の大トリック”こそないものの、まずまず見るべきところはあるといっていいように思います。

*1: 他には、『パンチとジュディ』『仮面荘の怪事件』くらいでしょう。
*2: もはや恒例の(?)初登場場面はもちろんのこと、後半のゴルフの場面にはさすがに苦笑を禁じ得ません。

 なお、本書はYABUさんよりお譲りいただきました。あらためて感謝いたします。

2000.01.20再読了
2010.04.23再読了 (2010.05.28改稿)

時計の中の骸骨 The Skeleton in the Clock

ネタバレ感想 1948年発表 (小倉多加志訳 ハヤカワ文庫HM6-2)

[紹介]
 H.Mは骨董品のオークション会場で、旧知のブレイル伯爵夫人と一悶着起こした挙げ句、振り子の代わりに骸骨が入った大時計を競り落とすことに。一方、同行した画家マーティン・ドレイクは、三年前に恋に落ちながら別れ別れになったジェニーと再会するが、何と彼女は伯爵夫人の孫娘だった……。そのマーティンは友人とともに、バークシャーの閉鎖された刑務所で一夜を明かすことになる。その近くにあるフリート荘では、二十二年前に当主ジョージ卿が屋上から不可解な転落死を遂げていたが、どうやらそれは殺人だったらしい。そして刑務所の絞首台の下では惨殺死体が……。

[感想]
 英語の慣用句である“戸棚の中の骸骨”*1をもじった題名で、医学用の標本とはいえ本当に骸骨の入った時計が出てくるのがカーらしい稚気というべきでしょうか。それがどのように物語に関わってくるのかが当然興味の対象となりますが、しかしこの作品、まずは何ともあらすじが書きづらい*2ところがあるのが特徴というか何というか。正直、上の[紹介]でも今ひとつよくわからないのではないかと思いますが(汗)、その主たる要因は、バラバラな要素をかなり強引にまとめて一つの物語に仕立ててあるところにあると思われます。

 ミステリ要素があるのはもちろんとして、ロマンス怪奇趣味、そしてドタバタというカー好みの“三本柱”が前面に出された、ある意味では盛りだくさんの内容となっているのですが、よくみてみるとそれらの要素はあまり絡み合っているとはいえません。そこを強引につなげているのが、序盤から連発されるご都合主義的な偶然で、立て続けに五、六個もの偶然*3が露見することで関係者たちが一堂に会し、物語が動いていくことになるというのは、どう考えても自覚的な“犯行”。このあたりのぬけぬけとした作者の姿勢には、さすがに苦笑を禁じ得ないところです。

 前述の“三本柱”のうち、ベタベタなロマンスはほぼ毎回のことなのでさておき、本書では、H.Mの好敵手*4ともいうべきブレイル伯爵夫人の登場により、パワーアップしたドタバタが特筆もので、冒頭のオークション会場での一幕もさることながら、物語半ばでの骸骨をめぐる騒動はシュールかつバカ(←絶賛)としかいいようがありません。その一方で、何とも薄気味悪い刑務所での“肝試し”の一夜は怪奇色濃厚ですし、クライマックスの舞台となる鏡の迷路でも不気味な雰囲気が十分で、さすがはカーといったところでしょう。

 “三本柱”に押され気味のミステリ部分*5は、正直なところやや微妙……というか、前述した偶然の連発と同じように、何か(読者の予想や期待を)意図的に“外そうとしている”印象さえ受けます。それが顕著なのが〈現在の事件〉で、どういうわけか“誰が殺されたのか”を伏せて引っ張った末に、意外すぎる被害者を登場させて読者を煙に巻くような感じになっています。また、この種のミステリでは定番である〈過去の事件〉とのつながりが、なかなか判然としないまま進んでいくあたりも型破りといえるかもしれません。

 対する〈過去の事件〉の方は、被害者に近づいた人間が見当たらないという衆人環視の密室状況ではあるものの、残念ながらトリックそのものにはあまり面白味があるとはいえないのですが、それよりもトリック解明のきっかけとなる愉快な手がかり(?)*6の方が見どころ。“それ”を手がかりとして拾える読者は皆無だと思われます(苦笑)が、それでいて、ほかならぬH.Mは“それ”に目を向けるよう周到に仕立てられているのが面白いところです。というわけで、トリックなどに期待しすぎなければ、ミステリとしてもそれなりに楽しめる部分はあると思います。

 ところで、本書のしばらく後からカーが本格的に歴史ミステリに力を入れ始めた*7ことを踏まえると、本書に(実戦ではないものの)チャンバラの場面が盛り込まれていたり、H.Mが(『殺人者と恐喝者』での回想録執筆と同じように)生まれ変わり/前世に凝っていたりするあたりが、なかなか暗示的ではあります。つまりそれは、カーが前述の“三本柱”も含めてミステリ以外の部分――歴史冒険小説的な要素への意欲を高めていたことの表れであって、その意味で本書は、後の歴史ミステリへの“序曲”といってもいいのではないでしょうか。

*1: 「本棚の中にひそむもの」「本棚の中の骸骨:藤原編集室通信」内)で、“skeleton in the closet (戸棚の中の骸骨)”について“昔のゴシック小説などに、ヒロインが古い城や屋敷のなかを探検しているうちに戸棚の中に隠された骸骨を発見して震えあがる、といった場面がよく出てきます。転じて 「隠しておきたい家族の秘密」 の意味で使われるようになりました。”と説明されています。
*2: ハヤカワ文庫カバーでも、(前略)骸骨の入った大時計をせり落としてしまったヘンリー・メリヴェール卿は途方に暮れた。だがその夜、その骸骨が何者かに盗まれてしまった。”という箇所の“脚色(?)”など、苦労の跡がうかがえます。
*3: このうち、H.Mが骸骨入り時計を競り落としたことについては、わかっていてやったことだと見る向きもあるようです(「時計の中の骸骨」「RAY'S ミステリ批評」内)→残念ながらリンク切れです)が、“「(前略)あなたはあれが何かわかってもいないじゃありませんか!」/「なんだって構うもんか」”(44頁)や、“わしが二百ポンド出して買ったしろものは、いったい何なんだろうな。”(47頁)といった記述を素直に受け取る限り、うがち過ぎではないかと思われます。
*4: と同時にマーティンにとって、ジェニーとの間に立ちふさがる“障害”となるのはもちろんです。
*5: 実は、巻末の松山雅彦氏による解説でも、本書のミステリ部分にはほとんど触れられていなかったり……(苦笑)。
*6: 厳密には手がかりとはいえないように思いますが、少なくとも真相に至るヒントにはなっているといえます。
*7: 本書以前には1930年代に、ロジャー・フェアベアーン名義で発表された『深夜の密使』と、歴史上の事件を題材にしたノンフィクション的な『エドマンド・ゴドフリー卿殺害事件』がありますが、カー名義でフェル博士ものを中断して歴史ミステリを発表し始めたのは、1950年の『ニューゲイトの花嫁』からです。

2000.01.25再読了
2015.08.29再読了 (2015.09.05改稿)

墓場貸します A Graveyard to Let

ネタバレ感想 1949年発表 (斎藤数衛訳 ハヤカワ文庫HM6-6)

[紹介]
 “奇蹟をお目にかける。その謎解きをあんたに挑戦”――米国へとやってきたH.Mは、旧友の資産家フレデリック・マニングから挑戦的な電報による招待を受けて、ニューヨーク郊外のマララーチにあるその邸を訪れる。当のマニングは、自身の財団からの使い込みと経営破綻の疑惑が浮上する中、息子や娘たちを残して愛人とともに姿をくらまそうとしているらしい。そして――H.Mら多くの目撃者の目の前で、近づいてきた警察車のサイレンを耳にしたマニングは突然プールに飛び込み、そのまま予告通りにプールの中から消え失せてしまったのだ……。

[感想]
 本書はH.Mもので唯一アメリカが舞台となっている作品ですが、同じくアメリカを舞台とした『死者のノック』『仮面劇場の殺人』でのフェル博士とは対照的に*1、序盤から警官をからかった挙げ句に地下鉄を大混乱に陥れるなど、ここぞとばかりに羽目を外して大暴れしいる感があり、さながら“H.Mのアメリカ珍道中”といった趣の愉快な作品となっています。

 そのH.Mに対して、大胆な挑戦状を叩きつけている旧友、フレデリック・マニングが本書の一方の主役となります。登場するなり財団の経営難や使い込み、愛人との関係など様々な疑惑に包まれることになりますが、それでいて堂々とした態度を崩すことなく、息子や娘たちを前に一席ぶった後で“消失”を予告するあたりの大物ぶりは強く印象に残ります。そして演じられる“奇蹟”――プールからの消失は、多くの目撃者を目の前にした実に鮮やかな現象で、大胆な予告も相まってよくできた奇術*2のような印象を与えています。

 もっとも、この段階で主役のマニングが物語から“退場”してしまうことで、一旦は停滞感のようなものが生じているのは否めません。『青銅ランプの呪』の感想では、“人間消失”の魅力に関して“フーダニット(誰の意思による消失なのか)、ハウダニット(どのように消失したのか)、そしてホワイダニット(なぜ消失という形をとったのか)の集積”と書きましたが、本書ではマニングの自発的な消失であること、並びに消失――逃亡の動機がすでに示されていることで、興味が(ひとまず)ハウダニットのみに絞られてしまうということもあるでしょう。

 いくつかの手がかりらしきものは示されるものの、トリックの解明は進まずマニングの行方も定かでないまま、事件をよそにH.Mが野球をする一幕が挿入されているのはアメリカならではともいえますが、思いのほか力の入った見ごたえのある描写*3に加えて、それが次なる展開への“つなぎ”としても使われているのが巧妙。そしてそこで、事件ががらりと姿を変えるのがなかなか面白いところです。

 ただしそこから先に展開される“ドラマ”は、マニングの独特の人物像をより強く印象づけるものではある反面、やや強引かつ冗長に感じられる部分もないではないですし、(一応伏せ字)カーの作風を考えれば(ここまで)その中で次第に真相の一部が見えてきてしまうのも残念です。ついでにいえば、本書の真相にはカー自身の先行作品の一つとかなり似通っている部分もあり、少々意外性に難があるといわざるを得ません。

 最後の最後に解き明かされるプールからの消失トリック*4は、既存のトリックの応用の域を出ないといえばそれまでですが、状況に合わせた巧みなアレンジには十分に見るべきところがあると思います。また、一見すると不可解だった手がかりの意味が次々と明らかになり、揃って一つの真相を指し示していくという解明の過程も見どころといえるでしょう。決して飛び抜けたところはありませんが、少なくともカーのファンならばまずまず楽しめる作品といったところです。

*1: ただし『剣の八』の冒頭には、フェル博士が訪米中に後のH.Mばりの騒動を起こしたことが記されています。
*2: 本書がクレイトン・ロースンに捧げられているのも興味深いところです。
*3: ダグラス・G・グリーン『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』には、カーが少年時代から野球好きであったことが紹介されています(同書27頁)
*4: 同じようにプールからの消失を扱った作品としてはヴァン・ダイン『ドラゴン殺人事件』が知られていますが、残念ながらそちらは未読。これもダグラス・G・グリーン『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』によれば、“カーの謎解きはそれよりもずっと出来がいい”(同書365頁)とのことですが……。

2000.02.01再読了
2009.09.10再読了 (2009.10.27改稿)

魔女が笑う夜 Night at the Mocking Widow

ネタバレ感想 1950年発表 (斎藤数衛訳 ハヤカワ文庫HM6-8)

[紹介]
 郊外の静かな村ストーク・ドルイドは、奇怪な事件に揺れ動いていた。村外れにそびえる異形の石像の呼び名にちなんで〈後家〉と署名された、事実無根の性的な中傷の手紙が次々と村人たちのもとに送られてきたのだ。あまりにひどい内容に自殺者まで出る騒ぎの末に、事前に送りつけられた予告の通り、若い娘が眠る鍵のかかった寝室に〈後家〉が現れ、警備をあざ笑うかのように姿を消してしまう。そして数日後、石像では不可解な殺人事件が起こり……。

[感想]
 小さな村を舞台にシリアスとドタバタとロマンスが交錯し、思わず唖然とさせられる無茶なトリックが炸裂する、カー作品の中でも有数のバカミスとして名高い一冊です。実のところ、バカミスというつもりで心の準備を整えて読まないと、呆れて腹を立ててしまう恐れもなきにしもあらずという、心の広くない方にはおすすめしがたい作品です。

 匿名の中傷の手紙という、(本格)ミステリとしては一風変わった事件が扱われているところからして異色ではありますが、そのどちらかといえば――量はともかく質としては――ささやかでマイナーな事件に関して犯人の性格/動機の分類が行われている(第13章)あたりは、『三つの棺』の“密室講義”に代表されるカーの“分類趣味”*1が表れた興味深いものになっています。

 主立った村人たちはいずれも個性的に描かれていますが、それぞれの個性が中傷の手紙に対する様々な反応によって際立っているのがうまいところです。その中には自殺というシリアスなものもあるのですが、後のロマンスやドタバタへの発展を予感させる(他人事としては)愉快なものが多く、総じて楽しく読むことができます。そして村を訪れたH.Mが、いつもの無茶なドタバタ喜劇で楽しませてくれるのはいうまでもありません*2

 後に殺人事件も起こりはするものの、メインとなるのは中傷の手紙の主である〈後家〉の密室への出現と消失です。“実害”がないこともあってどうしても軽く感じられてしまうのは否めませんが、それでも不可能状況下の鮮やかな現象は目を引きますし、中傷の手紙という“前フリ”でその悪意をさんざん見せつけた上での出現が、当事者にとって十分に脅威となり得ることは確かでしょう。

 手がかりは随所に配置されており、H.M自身は早い段階で真相を見抜いていながら、例によって解決まではじらしにじらしてくれます。もっとも本書の場合には、H.Mは事件の幕引きをかなり冷静に計算している節があり、真相を指摘する前に村の“祭り”で事件による村人たちの鬱屈を発散させようという目論見がうかがえます。もちろん生来のドタバタ好き*3もあるのでしょうが、そのような狙いのもとにH.Mが率先して繰り広げる凄まじい大騒動は圧巻です。

 そして“祭りの後”の雰囲気の中、ついに解き明かされるバカトリックのインパクトは実に強烈。冷静に考えれば、少々(一応伏せ字)アンフェアになってしまっている(ここまで)部分に突っ込むべきかと思われるのですが、トリック自体のあまりのくだらなさ(←個人的にはいい意味で)がすべてを覆い尽くしている感があります。そのおかげで、本来シリアスであるはずの結末までがかなり微妙な印象になっているのも、もはや独特の味わいというべきかもしれません。

*1: “密室講義”以外にも、『白い僧院の殺人』の“犯人が密室を構成する理由の分類”や、『緑のカプセルの謎』の“毒殺講義”などがあります。
*2: ただし恒例の“出オチ”ではなく、その前にしっかりと“タメ”を作られているのが珍しいところではあります。
*3: H.M自身は決して認めようとしませんが。

 なお、本書はBishopさんよりお譲りいただきました。あらためて感謝いたします。

2008.09.29再読了 (2008.11.01改稿)

赤い鎧戸のかげで Behind the Crimson Blind

ネタバレ感想 1952年発表 (恩地三保子訳 ハヤカワ文庫HM6-7)

[紹介]
 人知れず休暇を過ごすために、モロッコのタンジールに降り立ったH.Mだったが、名探偵の到着はすでに広く知れ渡っており、歓迎の花文字とブラスバンドの演奏、そして赤絨毯で迎えられることに。そして当地の警視総監デュロック大佐が直々に、有名な宝石泥棒〈アイアン・チェスト〉(鉄箪笥)の逮捕に協力してほしいと依頼してきたのだ。ヨーロッパ各地で、猿の姿を彫った鉄の箱を抱えて犯行を重ね、警官に囲まれた現場から忽然と姿を消す、神出鬼没の怪盗〈アイアン・チェスト〉が、このタンジールに乗り込んできたらしい。H.Mは捜査の指揮を執るアルヴァレス警視らとともに、宝石店で〈アイアン・チェスト〉を待ち受けることになったが……。

[感想]
 まずお断りしておかなければいけないのですが、本書はカー/ディクスン作品の中で個人的に最もおすすめしづらい一冊です。ダグラス・G・グリーンの評伝『ジョン・ディクスン・カー〈奇跡を解く男〉』(国書刊行会)でも“不幸な一時的錯乱のようなもの”(同書393頁)と評されるほど、贔屓目に見ても色々な点で出来がよくないということもありますが、再読してみて改めて認識したのが、私自身がどうにも好きになれない作品ということです。そういうわけで、以下の感想ではほとんどほめることができませんが、ご了承くださいませ。

 カー自身がタンジールに滞在している間に書かれたという*1本書は、さながら“H.Mの珍道中・モロッコ篇”といったところかもしれませんが、“アメリカ篇”の『墓場貸します』とはだいぶ趣が違っています。やけに血の気が多そうな登場人物たちによるアウトローな雰囲気も相まって、H.Mの行動も愉快な悪戯の度を越して*2人が変わったように無茶苦茶な印象となっているのですが、そのあたりも含めて本書では全体的に歴史ミステリの“悪影響”――といっては語弊があるかもしれませんが――がうかがえます。

 本書に先立って、カーは本格的に歴史ミステリに着手するという念願を果たし、『ニューゲイトの花嫁』『ビロードの悪魔』といった冒険活劇の色濃い作品を発表していますが、続いて本書を執筆するに当たり、歴史ミステリの世界から“現代”に戻りきれなかったのではないか――と思われるほど、本書はそれらの作品に近いところがあります。事件の解決と無関係ではないものの、あからさまな“敵役”との“私闘”が(謎解きよりも)物語の中心となっていくあたりが顕著ですし、H.Mをも含めた登場人物たちが法にとらわれない正義”を求めるような前近代的な(?)行動原理を共有している節があり、他の“現代”ものとは一線を画しています*3

 高齢のH.Mが活劇の主役をつとめるのは難があり、『疑惑の影』で効果的だった“役割分担”*4が採用されるのは当然ともいえますが、本書では“役割分担”のバランスが悪いのが難点です。後述するように事件の内容とH.Mが担当する謎解き部分が力不足である一方(あるいはそれゆえに)、活劇に加えて(『疑惑の影』で欠けていた)ロマンスをも盛り込むべく、アルヴァレス警視をはじめ四人の男女が主役クラスに据えられているため、騒動でも起こさないことにはH.Mの存在感/存在意義が怪しい状態。また、四人もの主役の存在によって物語がいたずらに長大化している*5のも否めないところです。

 さて、本書で扱われる主要な謎は、犯行現場からの〈アイアン・チェスト〉の消失、赤い鎧戸の部屋での物品消失、そして〈アイアン・チェスト〉の正体の三つ。このうち、二つの消失は不可能犯罪といえなくもないものの、長編の分量をこれで引っ張るのは苦しいものがある*6上に、最後に明かされるのがあざとすぎるミスディレクションに支えられた脱力もののトリックときては、擁護のしようがありません。一方〈アイアン・チェスト〉の正体は、意外とも見え見えともいえる*7微妙なもので、どちらかといえば悪い意味で意外というべきでしょうか。つまるところ、ミステリ部分にはあまり見るべきところがないといわざるを得ないでしょう*8

 最後はいい話めいた結末で物語をまとめようとしてありますが、それ自体がいささか微妙に感じられるのもさることながら、そこへ持っていくためにプロットがあり得ないほど強引なものになっているのがいただけません。山口雅也氏による解説では、“現代人の行動律からはずれた騎士たちの冒険譚ロマンスと本格推理の見事なブレンド”とされていますが、前述のようにミステリとしては難がある一方、冒険譚としても――ミステリの体裁を取った結果として――すっきりしないものになっている感があります。どちらかといえば、“H.Mと同名のご先祖様が登場する、剣を持たない歴史冒険もの”くらいのつもりで読む方がまだしも受け入れやすいかもしれませんが、重度の“カーマニア”以外は無理して読む必要のない作品といったところではないでしょうか。

*1: ダグラス・G・グリーン『ジョン・ディクスン・カー〈奇跡を解く男〉』によれば、タンジールに移住していたアドリアン・コナン・ドイル――アーサー・コナン・ドイルの息子で、カーと『シャーロック・ホームズの功績』を合作した――に招待されたようです。
*2: 笑える部分もあるにはあるのですが……。
*3: 本書の舞台がタンジールとなった理由としては、滞在中の現地の異国情緒を“ご当地ミステリ”的に描くというのもさることながら、“現代”の英国よりも冒険活劇にふさわしい“異世界”として選ばれたということもあるのではないでしょうか。
*4: 『疑惑の影』では、シリーズ探偵のフェル博士が推理の主役を担っているのはもちろんですが、もう一人の探偵役・バトラー弁護士が主として冒険活劇の部分で事件の解決に一役買っています。
*5: 文庫版で431頁と、分量そのものは必ずしも長いとはいえないのですが、事件のスケールに比べるといかにも冗長といわざるを得ません(確認してみるまで、余裕で500頁以上ある感覚でした)。
*6: 消失トリックは、ラジオドラマ「鉄の金庫を持つ男」が元になっているようです。
*7: これは、カーに“ある種の信頼”を置くかどうかで変わってくるように思われます。
*8: 山口雅也氏による解説で、本書のミステリ部分にほとんど言及されていないことでも、お察しいただけるかと思います。

 なお、本書はBishopさんよりお譲りいただきました。あらためて感謝いたします。

2017.02.21再読了 (2017.03.11改稿)

騎士の盃 The Cavalier's Cup

ネタバレ感想 1953年発表 (島田三蔵訳 ハヤカワ文庫HM6-10)

[紹介]
 何者かが鍵のかかった部屋に入り込み、家宝“騎士の盃”を動かしているという、ブレイス卿夫人の奇妙な訴えに現地に赴いたマスターズ警部。頼みのH.Mは歌の練習にかかりきりであてにならないので、仕方なく自ら問題の部屋に泊り込むが、再び密室に忍び込んできた何者かに殴られ、失神してしまった……。

[感想]
 H.M最後の長編です。派手ではありませんが、この謎は気に入っています。しかし、このネタで長編を書けるのは、カーだけではないでしょうか。
 ある意味で現実的でない、のどかな事件という感じがしてしまいますが、この世界におけるリアリティは十分だと思います。登場人物もくせ者揃いで、全編が喜劇といった感じです。珍しく(?)マスターズが活躍しています。