ロジャー・マーガトロイドのしわざ/G.アデア
The Act of Roger Murgatroyd/G.Adair
作中で描かれた事件のポイントは、フォークス大佐こそが犯人の真の標的であり、レイモンド殺害は当初の予定になかったという、事件の構図の反転です。レイモンドを殺してもおかしくない動機を持った人物が多数いる反面、フォークス大佐の命が狙われる理由がはっきりしないため、第一の事件が“主”であり第二の事件が“従”であるという錯誤が生じることになります。
この仕掛けは、本来の標的であるフォークス大佐を“従”に追いやり、レイモンドを殺す動機を持つ人々に疑惑を向けるものですが、ミスディレクションのために本来の標的ではない人物を殺すという点では、アガサ・クリスティ(以下伏せ字)『ABC殺人事件』(ここまで)に通じるところがあります。解説によれば“自分がいわば六十七冊目のクリスティーばりの作品を書いてみる気になった”
(231頁)という作者のことですから、この仕掛けもそのクリスティ作品を意識したものなのかもしれません。
この仕掛けが、レイモンドのポケットにあった恐喝を示唆するメモによって補強されているのがうまいところですが、もう一つ、脱力ものの密室が果たしている役割を見逃すべきではないでしょう。レイモンドの死を“自殺と思われたくなかった”
(228頁)という状況では、わざわざ密室を構成するメリットがないようにも思えるのですが、あえて密室トリックを使うことで、いわば“おまけ”である第一の事件がメインであるかのような印象がさらに強まっているのです。
解決への最初の手がかりとなっている、“MISBEHAVIOR”
(58頁)という米国式綴りは、イヴァドニ・マウントが述べている(202頁)ようにミステリではありがちなネタではありますが、そこで安直に“犯人は米国人”とするのではなく、レイモンドが書いたことを否定するにとどまっているところが、堅実な推理という印象を与えます。
その手がかりにつながるヒントとなる“ミッシング・ユー”は、“ぼくたちがどんなにきみがいなくて寂しかったか、きみはちっともわかっていない。”
(123頁)という翻訳文ではまずわからないと思いますが、原文(*1)でも“missing you”という字面が目に入るためになかなか気づきにくそうです。これはあくまでも、台詞を耳で聞くことができる作中の登場人物向けのヒントというべきかもしれません。読者向けにも、“h-o-m-o-s-e-x-a-l――ううん、待って、何かおかしいわ、h-o-m-o-s-e-x-u-a-l-i-t-yを”
(103頁)というヒント(*2)が用意されていることですし。
第一の事件で使われた密室トリックは、凄まじいまでのバカトリック――今どきの作品で“人間椅子”にお目にかかるとは思いもしませんでした(笑)――で、強烈なインパクトを与えてくれます。そしてこのトリックの小道具となっている肘掛け椅子が、作中で犯人を特定する最後の決め手となっているのですが、この手がかりは読者にも他の登場人物にも事前にまったく知らされず、アンフェアの典型の一つである探偵役だけが知る手がかりによる解決という形になっています。
このあたりだけをみると、インパクトだけを狙った無茶でアンフェアな(あまりよくない意味での)バカミスという印象も与えかねないのですが、それだけで終わっていないのが本書の面白いところです。
本書にはさらに、読者だけに向けてメタレベルの企みが仕掛けられています。
その一つは、一貫してファラーの視点で記述されている物語を、“神の視点”と見せかける叙述トリックです(「叙述トリック分類」の[A-3-1]視点人物の隠匿を参照)。もちろん本書では、ファラーが物語に登場していることは読者に知らされているのですが、少なくともフォークス大佐が銃撃される第10章(150頁~150頁)ではその存在が完全に隠されています。また、図書室でフォークス大佐とトラブショウが会話する場面(67頁~71頁)では、“自分とトラブショウ以外にはだれもいないにもかかわらず、大佐は”
(71頁)という記述で二人しかいないことを明示する一方で、“この屋敷にはほんとうに秘密の通路があるんだ。”
(68頁)とヒントを出してあるなど、非常に巧妙です(*3)。
トラブショウによる尋問――登場人物たちの告白――が大部分を占めるという本書の特異な構成には、“地の文”をできるだけ少なくすることで叙述トリックの不自然さを目立たなくするという狙いがあるのは間違いありません。作中でかなり目立っているイヴァドニ・マウントの長広舌もまた、同じ狙いに基づくものでしょう。さらにいえば、それぞれの秘密の告白が全員の前で行われるという例を見ない展開も、叙述トリックを成立させるために――視点人物であるファラーに聞かせる必要があるために採用されたものであることは、いうまでもありません。
そしてこの叙述トリックが、読者への罠であると同時に読者への手がかりにもなっているところが非常に秀逸です。というのは、叙述トリックを見抜きさえすれば――すなわち物語がファラーの視点で記述されていることに気づきさえすれば、フォークス大佐が銃撃された場面(第10章)に存在しているはずのファラーが犯人であることが明らかだからです。
作中でイヴァドニは自分だけが得た手がかりをもとに犯人を特定していますが、これに対して読者は叙述トリックという、登場人物が知り得ない手がかりをもとに犯人を特定することができるでしょう。つまり本書には、作中の探偵役と読者のそれぞれに、解決のためのまったく異なる手がかりが与えられるという、非常に面白い仕掛けが用意されているのです。作中でのイヴァドニによる解決が典型的なアンフェアとなっているのも、この仕掛けを意識した意図的なものといえるでしょう。
読者は、大佐がファラーに厨房を見に行くよう命じた(137頁)直後、厨房での使用人たちの様子が描かれた第9章(138頁~150頁)で、描写の視点がファラーに据えられていることに気づくことができるかもしれません(*4)。また、大佐を探しに出た一行(ファラーを含む)が屋敷に戻ってきた際の、メアリーに関する“いずれにせよ、荒地を夫が間に合わせの担架で運ばれてくる葬儀のような光景を見たにちがいなく”
(174頁)という、視点人物による推測が含まれた記述を手がかりに、叙述トリックを見抜くことも不可能ではないのではないでしょうか。
ただ残念なことに、気づいた限りでは一箇所だけではありますが、“トラブショウはこんどはファラーに尋ねた。”
(36頁)と地の文に“ファラー”の名前が登場しています。これはやはり、ファラーの一人称による記述としては不自然といわざるを得ないところです。
読者に対してはもう一つ、“ロジャー・マーガトロイド”に関する罠が用意されています。
「(前略)というのも、ロジャー・フォークスはほんとうの名前ではないからだ」
(中略)「では、ほんとうの名前はなんですか」
「ロジャーはそのままだ――ロジャー・フォークスではないだけで」
「ロジャー、なんというんです」
「それは……」
(71頁)
裏表紙のあらすじもそうですが、上に引用した箇所では“フォークス大佐”の本名が“ロジャー・マーガトロイド”だと思わせるミスディレクションが仕掛けられています。最後に“もう一人のロジャー”が登場するのは少々反則気味ですが、名付け親ということでは納得せざるを得ません(苦笑)。
『ロジャー・マーガトロイドのしわざ』という、犯人であることを示唆するような邦題は少々引っかかるところですが、“マーガトロイド”が“フォークス大佐”だと思い込んでいれば、その“フォークス大佐”が撃たれることで混乱が生じて事件の様相が見えにくくなるので、これはこれでいいのかもしれません。
解説で若島正氏が指摘しているように、アガサ・クリスティの某作品をネタにしたもの(149頁上段)など、本書には様々な悪ふざけ(ジョーク)が盛り込まれています。その中で、個人的に一番笑ったのはこれ↓でした。
「(前略)あたしの競争相手の何人かが執拗に自分の推理小説の冒頭に持ってきて、とりわけだまされやすい読者だけが参考にしようと考えるまったく意味のない平面図が、本当に起こっていることとは無関係なのと同じようにね」
(207頁)
*2: 若島正氏の解説で
“ジョークの中にこっそりと、作品の仕掛けを明かすようなヒントが紛れ込んでいるものもある”(235頁)と指摘されているうちの一つでしょうか。
ついでにいえば、解説の同じ箇所で
“わたしの注釈もその手を使っている”とあるのは、ジョン・ディクスン・カー『三つの棺』に言及されている点(233頁)ではないかとにらんでいるのですが……。
*3: この場面の描写がファラーの盗み聞きによって成立している点は、同じトリックが使われている国内の某作品(さらに“逆叙述トリック”が仕掛けられた、あの作品です)に通じるものがあり、興味深いところです。
*4: ちなみに私の場合には、かなり気にはなったのですが、恥ずかしながら叙述トリックに気づくまでには至りませんでした。
2008.01.22読了