魔女の隠れ家 Hag's Nook
[紹介]
〈魔女の隠れ家〉と呼ばれた絞首台の近くに建てられ、今は住人もなく荒れ果てたチャターハム監獄。その長官をつとめてきたスタバース家には、代々の当主が首の骨を折って死ぬという不気味な伝説があった。現在の当主マーティンは相続の儀式のために、二十五歳の誕生日の夜を独り監獄の長官室で過ごすことになっていたが、窓から見えていた灯が予定よりも早く消え、異変に駆けつけたランポール青年らは崖下で、転落死したと思しきマーティンの死体を発見する。そして長官室では、金庫に保管されていたはずの書類が消え失せていた……。
[感想]
カー作品で最多の登場を誇る(*1)シリーズ探偵、博学にして豪放磊落な辞書編纂家、ギデオン・フェル博士の初登場作。デビュー長編『夜歩く』などに登場した最初のシリーズ探偵アンリ・バンコランや、『毒のたわむれ』で探偵役をつとめたパット・ロシターらに比べて、かなり貫禄がある――体格だけでなく性格も――せいか、事件に関わる人物たちに、ひいては読者にもある種の安心感を与えるところがあるように思います。
探偵役の交代とともに、初めて本格的にイギリスが舞台の物語となっているのも見逃せないところで、本書を皮切りに――カー自身がイギリスへ移住した(*2)こともあって――H.Mらを探偵役とするディクスン名義のものも含めて大半の作品で、イギリスが舞台とされていくことになります。特に本書では、(この時点で(*3))フェル博士の住む片田舎の(架空の)村チャターハムに舞台が据えられることで、華やかなパリを舞台としたバンコランものから思いきった雰囲気の刷新が図られています。
その内容は、荒れ果てて薄気味の悪い監獄跡を現場に、そして呪われているかのように不可解な死を繰り返す一族を中心に、現在の事件と並行して監獄や一族に伝わる秘密の解明に力が注がれるなど、全体的にゴシックロマン風の味つけが強くなっているのが特徴的。また、冒頭の主人公(アメリカ人青年タッド・ランポール(*4))とヒロイン(ドロシー・スタバース)の出会いが恋愛につながる展開にしても、本書以前にはほとんど見られなかったもので、カーが新たな作風を模索していたことがうかがえるようにも思います。
代々の当主が首の骨を折って死ぬという事件は、カーの代名詞ともいえる不可能犯罪でこそないものの、不可解な繰り返しが強力な謎として読者の興味を引きつけます。現在の事件については、“とあるネタ”があからさまにすぎるように思われますし、さらに終盤のある部分までくると犯人もほぼ見え見えになってしまいますが(苦笑)、それでも事件の全貌を見抜くのは容易ではありません。その肝心の部分を隠蔽している、後年のある作品に通じるところのあるトリックが秀逸で、フェル博士による解明にうならされます。
少々意外な形で指摘された犯人が、最後に残す告白書も大きな見どころ。丸々一章をかけて微に入り細を穿ち綴られていく犯人の心の動きには真に迫ったところがあり、強烈な印象を残します。最後に描かれるその姿と合わせて、ある意味“名犯人”小説といっても過言ではないのではないでしょうか。数多いカー作品の中で代表作に挙げられることは少ないように思いますが、なかなかの佳作といっていいでしょう。
*2: ダグラス・G・グリーン『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』によれば、移住の時期は本書を執筆した後、刊行される直前のようです。
*3: 後の『盲目の理髪師』になると、フェル博士はロンドンのアデルフィ・テラス一番地に新居を構えています。
*4: 次の『帽子収集狂事件』と『三つの棺』にも登場します。
2000.02.04再読了
2012.07.10再読了 (2012.08.06改稿)
帽子収集狂事件 The Mad Hatter Mystery
[紹介]
密かに入手したばかりのポオの未発表原稿を盗まれてしまったウィリアム・ビットン卿は、フェル博士をロンドンに呼び寄せて事件の解決を依頼する。その頃ロンドンでは、次々と帽子ばかりを盗んでいく“帽子収集狂”が世間を騒がせていたが、その“帽子収集狂”を追いかけていた新聞記者フィリップ・ドリスコルが、ロンドン塔で心臓を太矢で貫かれた死体となって発見される。しかもその頭には、数日前に“帽子収集狂”に盗まれたらしいウィリアム卿のシルクハットがかぶせられていたのだ……。
[感想]
江戸川乱歩が高く評価したことで知られ(*1)、カーの代表作の一つに挙げられることも多い作品ですが、個人的にはカーの持ち味がさほど強く表れているとは思えない――カーの代名詞ともいえる“密室もの”ではなく、怪奇趣味やドタバタといったカーが多用する要素も見受けられない――上に、今ひとつ面白さをつかみにくい作品という印象が拭えないところで、カーの代表作とするには抵抗があります。
上の[紹介]でもお分かりのように、本書には“ポオの未発表原稿盗難事件”・“帽子収集狂事件”・“ロンドン塔の殺人事件”という三つの事件が盛り込まれており、これら三つの事件がどのように融合していくかがポイントとなることは誰しも予想できるのではないかと思いますが、本書ではその部分が早い段階で少々見えやすくなっているのが残念。加えて、三つの事件が序盤で立て続けに示されながらも、その後は捜査の対象がほぼ“殺人事件”一本に絞られてしまうという展開のせいもあり、魅力的な序盤に比して中盤がやや盛り上がりに欠ける感があります。
そしてその“殺人事件”がまた微妙で、創元推理文庫版の中島河太郎氏による解説では“密室以上の不可能トリック”
とされている(*2)ものの、その不可能状況がわかりにくいのが難点。要するに、カーにしては珍しい(一応伏せ字)“アリバイもの”(ここまで)なのですが、多くの登場人物の証言を突き合わせてようやくそれが浮かび上がってくる(*3)有様で、(創元推理文庫版にせよ集英社文庫版にせよ)巻頭に付された見取り図では現場の様子が把握しづらいことも相まって、事件の様相が一目瞭然とはいかないのが苦しいところです。
また、題名にもなっている割には“帽子収集狂”が物語の中心となっていないのも、読んでいて肩すかしを食らったような感覚を禁じ得ないところではありますが、“The Mad Hatter”――“いかれ帽子屋”(気違い帽子屋)――という題名はむしろ、L.キャロル『不思議の国のアリス』に通じるナンセンスで不条理なユーモアを象徴したものだと考えるべきなのでしょう(*4)。それが事件の表面ではなく裏面に隠された真相の側に配されているのが、本書をとらえどころのないものにしている所以であって、いくつかの事実が明らかになっていくにつれてようやく江戸川乱歩が“陰惨とユーモアの異様なカクテル”
(*5)と評したという味わいがにじみ出てきます。
その意味ではやはり、意外すぎる犯人が恐ろしく唐突に明かされた後、事件の真相が滔々と語られていく“解決篇”こそが本書の最大の見どころというべきで、(細部に難はあるものの)盲点を突いた秀逸なトリックもさることながら、犯人を取り巻く状況の端々に漂う“奇妙な味”が圧巻です。ある意味ではこれもまた“バカミス”といってもいいのかもしれませんが、例えば『魔女が笑う夜』のように比較的ストレートに笑いを誘うものではない、不思議な雰囲気の残る作品です。
*2: これも元々は江戸川乱歩による評でしょうか。
*3: しかも、それと平行してハドリー警部らがいくつかの仮説を披露していくため、事実と仮説が錯綜して余計にわかりにくくなっている印象です。
*4:
ちなみに、リンク先で引用されている本文は創元推理文庫版で191頁(集英社文庫版での対応箇所は206頁)にあります。
*5: 集英社文庫版の森英俊氏による解説を参照。
1999.10.02再読了
2008.10.17再読了 (2008.12.02改稿)
剣の八 The Eight of Swords
[紹介]
幽霊が出るという噂のあるスタンディッシュ大佐の屋敷。そこに滞在中の主教が、階段の手すりを滑り降りたり、メイドの髪を引っ張ったり、犯罪の発生を予言したりと、奇行を繰り返す騒ぎが持ち上がった。警察は取り合おうとはしなかったが、やがて主教の言葉通りに事件が起こったのだ。激しい嵐の夜、屋敷のゲストハウスを借りていた男に、得体の知れぬ訪問者が強引に面会を求めてきた。そして男は翌朝、部屋の中で射殺死体となって発見され、死体の側には八本の剣を描いた謎のカードが……。
[感想]
ハヤカワ・ミステリ版は何とも凄まじい翻訳(*1)で辟易とさせられましたが、新訳によって非常に読みやすい文章になっているのはありがたいところ。とはいえ、やはりカーの(特にこの時期の)作品の中では、微妙な出来といわざるを得ないでしょう。
問題の一つは、作中に盛り込まれた様々な要素――幽霊の出る屋敷という場、時おり顔をのぞかせるドタバタ、定番のロマンス、奇妙な訪問者の謎、“剣の八”を描いたカード、そして“探偵”たちによる推理合戦(*2)――がうまくかみ合わず、全体がちぐはぐなものになっている点です。そのために、終始物語の“軸”がはっきりせず、読み進めるのには少々根気を必要とします。
事件そのものもかなり地味で、インパクトに欠けるきらいがあります。そもそも本書は、カーの一般的なイメージとは裏腹に、不可能犯罪やトリックよりもフーダニットを重視した作品となっているのですが、そのせいもあってか興味を引く謎に乏しく、物足りなく感じられるのは否めません。とりわけ、最も面白そうな謎が中盤で解き明かされてしまうのが難点で、その解明自体が十分に面白いものになっているだけに、何とももったいないところです。
その後は少しずつ事件の背景が明らかになっていくとともに、犯罪学マニアの主教、犯罪学を学ぶために留学したその息子、著名なミステリ作家といった“素人探偵”たちが様々な推理と仮説を展開しますが、いずれも“決め手を欠いている”感が歴然としているために、読んでいてもさほど面白味がなく、推理合戦という趣向が成功しているとはいえないように思います。
フーダニットを重視したといわれればなるほど、最後に明らかになる犯人は確かに意外ではあります。が、(一応伏せ字)意外性を狙って犯人を隠しすぎている(ここまで)ために、サプライズ/カタルシスというよりもむしろ、唐突な印象の方が先に立ってしまいます。本書のような展開の中で犯人を明かすのではなく、犯人に至る“決め手”――これ自体もなかなか面白いと思います――の方を先に示すようにすればよかったのではないかと思えるのですが……。
なお、事件の全貌が明らかになる最終章では、“とにかく話を戻してくれ。これは最後の章なんだ。早くすっきりしたいのだよ”
(329頁)や“あとは誰かが(中略)一ページか二ページ使って語ってくれれば完璧だな”
(341頁)という風に、事件を推理小説になぞらえる台詞が連発されているのが目を引きます。後に『三つの棺』の“密室講義”に盛り込まれたメタ趣向の原点は、このあたりにあるのかもしれません。
1999.10.18読了
2008.03.30再読了 (2008.04.20改稿)
盲目の理髪師 The Blind Barber
[紹介]
大西洋をイギリスへと向かう豪華客船クイーン・ヴィクトリア号で起きた事件。外交官の青年カーティス・ウォーレンは暴漢に襲われ、一大政治スキャンダルを招きかねない内容の映画フィルムを盗まれてしまう。推理作家ヘンリー・モーガン、元船長のヴァルヴィック、そしてあやつり人形師の姪ペギーと、親しくなった船客たちが協力して犯人を捕らえる企みを巡らすが、そこへ頭を殴られて死に瀕した見知らぬ女性が出現し、かと思えばはずみで宝石収集家のエメラルドの象を奪い取る羽目になり、瀕死の女性が消え失せた後には血に濡れた剃刀が残され、どこかの船室に放り込んだはずのエメラルドはなぜか持ち主の手に戻り、そして……。
[感想]
本書で扱われているのは航海中の船上での事件ですが、ディクスン名義の『九人と死で十人だ』とは違って探偵役のフェル博士は乗船することなく、他の船客より一足先に下船して博士を訪ねた推理作家ヘンリー・モーガン(*1)から、船上で事件に巻き込まれた顛末を聞いて真相を推理するという、いわゆる安楽椅子探偵の形式となっています。
カー自身の長編ではもう一作、『アラビアンナイトの殺人』で安楽椅子探偵形式が採用されていますが、“純粋”な安楽椅子探偵もの――探偵役がまったく捜査活動に関わることなく話を聞くのみ――を長編に仕立てるのは、本来ならば相当に無理があります。というのは、安楽椅子探偵ものにおける語り手の役割が聞き手に対する“出題”であり、物語の主要部分――語り手が語る内容は原則として“何が起こったか”のみに重点が置かれ、心理描写(語り手自身のものを除く)や情景描写が入り込む余地があまりないためです。
カーは本書で(*2)その困難を、一見すると事件と関係があるのかないのかよくわからないものまで含め、次から次へと大量のイベントを物語に詰め込んで“何が起こったか”を極度に肥大させるという、強引な力技で克服しています。結果として――なのかどうかはわかりませんが、物語全編を通じて際限のないドタバタ劇が繰り広げられているのが本書の大きな特徴で、見方によっては“最も笑える本格ミステリ”といっても過言ではないように思います。
発端となったフィルムの盗難にエメラルドの象の盗難、そして殺害された(と思しき)被害者の消失と、一つ一つの事件はさほどのものとはいえないのですが、それらが絡み合ってとらえどころのない謎となっているのが何ともいえません。そして話を聞き終えたフェル博士による“解決篇”において、そのとらえどころのない謎を解きほぐす手引きとなる“手がかり索引”――掲載頁を付記して手がかりを一つ一つ指し示す――の趣向が見どころです。
類似の趣向は後のディクスン名義『孔雀の羽根』でも採用されていますが、本書では“手がかり索引”そのものよりもはるかに前、物語の中間部(「幕間狂言 フェル博士の所見」)で早々に、モーガンが語る事件の前半部分からフェル博士が見出した手がかりが次のような形でリストアップされているのが非常にユニークです。
一、暗示の手がかり。
二、機会の手がかり。
三、友愛的信頼の手がかり。
四、見えざるものの手がかり。
五、七本の剃刀の手がかり。
六、七通の電報の手がかり。
七、消去の手がかり。
八、省略文の手がかり。
(新版(*3)242頁/旧版211頁;ただし旧版では“手がかり”ではなく“鍵”とされている)
フェル博士の表現は、漠然としたものからある程度具体的なものまで様々ですが、いずれも程度の差こそあれ“何が手がかりなのか”/“どこに手がかりがあるのか”を示唆する、いわば“メタ手がかり”となっているわけで、いまだ物語半ばであることを考えれば実に大胆で挑戦的な試みといえるでしょう。そして、モーガンが後半を語り終えた直後にも同様にさらなる八つの“メタ手がかり”を提示し、その上で読者に推理する時間を与えるかのように若干“脱線”しておいてから犯人の正体を明かす手順など、何とも心憎いものがあります。
決して大トリックが仕掛けられているわけではなく、真相そのものは正直なところさほどでもないのですが、それでも“自分が目の前の真相に対していかに“盲目”になっていたか”を痛感させられる解決は圧巻。そしてまた、事件の真相と安楽椅子探偵形式、そしてドタバタ劇という要素が、ある意味でうまくかみ合っているところがなかなかよくできています。
カーの個性の一つが突出したあくの強い作品だけに、大いに――執拗な(苦笑)ドタバタ劇を受け入れられるかどうかで――好みが分かれるのは間違いないところですが、裏を返せばカーにしか書き得ない作品ともいえるわけで、その意味でも一読の価値があるといえるでしょう。
*2: 前述の『アラビアンナイトの殺人』も基本的に同様ですが、そちらではさらに三人の語り手を用意するという工夫も凝らされています。
*3: 以前に刊行されていた創元推理文庫版に代えて2007年に新たに刊行されたもので、アントニイ・バウチャーによる「緒言」と戸川安宣氏による「好事家のためのノート」が追加されています。また、
“改訳”との表示こそされていないものの、訳文も全面的に細かく改訂されているようで、例えば最初の一文はそれぞれ以下のようになっています。
定期船クィーン・ヴィクトリア号がサザンプトンとシェルブルグにむかってニューヨークを出たとき、かなりな有名人が、ふたり乗っているとうわさされていたし、悪名高いもうひとりの人物がやはりこの船の客になっているというひそかなうわさもあった。
(旧版8頁)
定期船クィーン・ヴィクトリア号がサウサンプトンとシェルブールに向かってニューヨークを出たとき、かなりの有名人がふたり、乗っているとうわさされていたし、悪名高い人物がもうひとり、やはりこの船の客になっているというひそかなうわさもあった。
(新版19頁)
2009.10.07再読了 (2009.11.07改稿)
死時計 Death-Watch
[紹介]
有名な時計師ジョハナス・カーヴァーの屋敷に暮らす下宿人たち――その中の一人カルヴィン・ボスクームは、退屈しのぎに人を殺す計画を立てていた。はたして、夜中に呼び寄せられて玄関からこっそりと入り込んだ男は、暗い玄関ホールを抜けて二階へ続く階段を上り、突き当たりの部屋のドアを開いたところで殺害されてしまう。そして天窓越しに目撃者が見守っていた部屋の中には、消音器付きのピストルを手にしたボスクームが……。ところが、男の命を奪ったのは銃弾ではなく、首筋に突き刺さった金色に輝く大時計の針だったのだ。不可解な事件はさらに、少し前にデパートで起きた万引きと殺人へとつながり……。
[感想]
恥を忍んで告白すると、二度読んでもなお今ひとつ面白味の感じられない作品だと思っていたのですが、三度目にしてようやく本書の楽しみ方がわかったような気がします。つまるところ、本書は物語の/本格ミステリとしての完成度を省みずすべてを“ある一点”に奉仕させた作品であって、物語そのものよりもむしろ(というと語弊がありますが)カーのやりすぎぶりをニヤニヤしながら眺める、ある種メタ的な読み方をするのが一番楽しめるのではないでしょうか。
まず序盤の、これでもかというほど凝りまくった状況がなかなか魅力的。雰囲気十分な暗い屋敷の中、大時計の針という奇妙な凶器を使った殺人というだけでも印象的ですが、屋根の上の目撃者が殺人計画の進行を見守る(*1)中、銃を手にして室内で待ち構える“殺人者”の鼻先で被害者が“横取り”されるという、ひねくれた事件の様相が何ともいえません。さらに、泥棒よろしく夜中にこっそりと屋敷に忍び込んだ被害者の意外な正体から、“もう一つの事件”とのつながりが浮上してくる展開も面白いところです。
しかしながら、この序盤以降は事情聴取が中心となっていくこともあって物語にあまり動きがなく、いささか冗長に感じられるのも否めません。このあたりは、単純に比較的ハイペースな序盤の反動ということもあるでしょうが、それ以上にカーの狙いの弊害が露呈しているようにも思います。端的には、この段階で“謎”として残っている部分が少なく、また(一応伏せ字)容疑があからさまに一人の人物に向けられている(ここまで)ことによるもので、意図はわかるのですが少々もったいないところではあります。
それでも終盤には、大きな見どころとして「検察側の論告をするハドリー首席警部」と「被告人側の弁論をするフェル博士」(*2)という、対になる二つの章が用意されています。ここでは、とある容疑者をめぐって二人が裁判さながらの対決を繰り広げており、それぞれ丸ごと一章を費やした“論告”と“弁論”は質量ともに見ごたえあり。とりわけ、後の(ディクスン名義の)『ユダの窓』と違って(*3)手がかりに基づく推理で“誤った解決”が導き出されるあたりは、“多重解決”に通じる面白さがあるように思います。
しかして、最後に解き明かされる真相は……ちょっと“やらかしてしまった感”(苦笑)のあるもので、どう贔屓目にみてもやりすぎで印象を悪くしている部分があるのは間違いありません。また、解決の中でフェル博士が説明するトリックがわかりにくいのも苦しいところですが、これはもう大筋だけ把握して「こまけぇこたぁいいんだよ!!」と細部は流すのが吉。というわけで、特にカーを読み慣れない方は頭を抱えてしまいそうなところもありますが、これはこれでカーの“ある一面”が強く表れた作品といえるのではないでしょうか。
なお、創元推理文庫版の戸川安宣氏による解説は、私見ではややネタバレ気味なのでご注意ください。
1999.09.23読了
2010.09.28再読了
2011.04.28『死の時計』読了 (2011.05.10改稿)
三つの棺 The Three Coffins
[紹介]
シャルル・グリモー教授が友人たちと酒場で吸血鬼談義をしていたところへ、突然現れた見知らぬ男。奇術師ピエール・フレイと名乗ったその男は、“弟”のことを引き合いに出して教授を脅迫した挙げ句、後日の訪問を予告して去っていった。はたして三日後の雪の夜、謎の人物が教授の家を訪れる。やがて銃声が――話を聞いて訪ねてきたフェル博士らが教授の部屋に駆けつけると、教授は胸を撃たれて瀕死の状態で横たわり、中にいたはずの客は密室状況の部屋から煙のように消え失せていた。そして容疑者となるべきフレイは……?
[感想]
かの有名な“密室講義”が盛り込まれていることもあって、カーの代表作の一つとされることが多い作品ですが、客観的にみればやりすぎている部分があるため、正直なところ“最初に読むカー作品”としてはおすすめできません。もっとも、やりすぎていてこそカーだという気もしないでもないのですが……。
『三つの棺』という題名に合わせて(*1)、本書は「第一の棺 学者の書斎の問題」・「第二の棺 カリオストロ通りの問題」・「第三の棺 七つの塔の問題」という三部構成になっています。まず「第一の棺」では、密室状況の書斎から犯人が消失する事件の顛末が描かれます。次いで「第二の棺」では、衆人環視下における足跡のない殺人が扱われます。そして「第三の棺」では、“密室講義”を挟んでフェル博士による怒涛の解決が繰り広げられています。
まず“密室講義”――第17章「密室講義」でフェル博士の口を借りて行われる、推理小説における密室の分類と分析――について触れておくと、先駆的なものだということもあって“漏れ”(*2)があるのは確かですが、それでも“密室の巨匠”と呼ばれるカーの仕事だけあって実によくできていて、なおかつわかりやすく面白い読み物になっていると思います(様々なトリックが列挙されているだけでなく、いくつか作品名まで挙げられている(*3)のが難しいところですが)。また、フェル博士がいきなり“われわれは探偵小説のなかにいるからだ。そうでないふりをして読者をたぶらかしたりはしない。”
(〔新訳版〕289頁)などと言い出すメタ趣向も面白いところです。
本編の話に戻ると、二つの事件ではいずれもこれ以上ないほど強固な“密室”が構成されており、雪の上に足跡一つ残さず目撃者の目に止まることもないという恐るべき犯人像が浮かび上がってくるほどです。その犯人像が冒頭の吸血鬼談義をはじめとするオカルト趣味とうまく絡んでいるところもよくできているのですが、それはさておき、とにかく密室殺人という現象の鮮やかさは、本書において特筆すべき魅力といえるのではないでしょうか。
しかし、これが種明かしの必要がない奇術であれば申し分ないのですが、不可思議な現象を解き明かしてその裏側を読者に披露しなければならないミステリとしては、本書は少々難があります。フェル博士が犯人を指摘するクライマックスの演出は輝きを放っているのですが、それに続いて事件の真相が解明される手順はひたすら煩雑で、何度か本書を読んでいる私にしても、何から何まで完璧に理解できているとはいえません(恥)。
これほど鮮やかな現象を支えるためには致し方ない部分もあると思いますし、実際に細かい部分の工夫はよくできていると思います。そして何より、不可能犯罪を演出するというただ一点のためにここまでするという心意気はある意味感動的ですらあります。が、やはり(無茶でご都合主義的な部分も含めて)やりすぎという印象は拭えませんし、実際には(手がかりの配置などの必要上)かなり早い段階から裏側の煩雑さが透けて見える感もあり、(新訳によって訳文は読みやすくなっているものの)全体的にやや読みづらいものになっているのは否めないところです。
とはいえ、前述の“密室講義”も含めて、密室ミステリの金字塔というべき必読の作品であることは間違いないでしょう。余計なお世話かもしれませんが、カーの他の傑作(例えば『ユダの窓』や『連続殺人事件』など)を何冊か先に読んである程度カー作品に慣れてから、本書を読むことをおすすめします。
なお、本書の旧訳版(第17刷以降を除く)には、トリックに関する誤訳があることが指摘されていましたが、〔新訳版〕では問題が解消されています(*4)。
*2: 例えばクレイトン・ロースン『帽子から飛び出した死』で追加された分類(→拙文「私的「密室講義」」参照)など。
*3: ガストン・ルルー『黄色い部屋の秘密』、アンナ・キャサリン・グリーン『頭文字だけ(Initials Only)』、メルヴィル・デイヴィスン・ポースト「ドゥームドルフ事件」(作中の表記に従っています)。また、作者名が挙げられているのがイズレイル・ザングウィル。探偵の名前が挙げられているのが、ファイロ・ヴァンスとエラリイ・クイーン(旧訳版ではどちらも訳注で作品名まで明示されています)。
ついでに書いておくと、〔新訳版〕326頁2行~3行(旧訳版では307頁4行~6行)には『死時計』に関して微妙な記述があるので、そちらを未読の方はご注意を(ちなみに、旧訳版では
“あの“死の時計”事件”とされていたのが〔新訳版〕で
“死時計事件”になっているのは、早川書房としてはどうなのでしょうか)。
*4: ただし、細かいところですが一箇所新たな誤訳が。第1章の最後、
“フレイは(中略)グリモーのコートの襟を引き下げ、また立ててみせたのだ。”(〔新訳版〕18頁)とあるのは誤りで、正しくはフレイが、自分のコートの襟を一瞬だけ下げて、隠していた顔をグリモーに見せたものです(旧訳版ではそのように訳されています)。
2000.02.19再読了
2008.01.15再読了 (2008.01.24改稿)
2014.07.22〔新訳版〕読了 (2014.07.24一部改稿)
アラビアンナイトの殺人 The Arabian Nights Murder
[紹介]
ロンドンのウェイド博物館で、巡回中の警官が奇怪な出来事に遭遇する。塀の上を歩いていた、白い付け髭をつけた怪人物が、“きさま、あの男を殺したな”と叫んで襲いかかってきたのだ。しかも、思わず殴り倒して意識を失ったはずの相手は、ちょっと目を離した隙に消え失せてしまった。報告を受けたカラザーズ警部が博物館を訪れてみると、展示されていた馬車の中から、黒い付け髭をつけた男の死体が転がりだしてくる。アラビアの短剣で心臓を刺された男の手には、なぜか料理の本が――カラザーズ警部、警視庁副総監ハーバート卿、そしてハドリー警視が語る事件の顛末に対して、フェル博士がもたらす解決は……?
[感想]
“アラビアンナイト”と題されながらもアラビア趣味が横溢した作品というわけではなく、舞台となる博物館や凶器などに多少取り入れられている程度で、語り手が夜を徹して事件の顛末をフェル博士に語って聞かせるという構成を“アラビアンナイト”になぞらえたもののようです。というわけで本書は、『盲目の理髪師』と同様に安楽椅子探偵ものとなっているのですが、カラザーズ警部、ハーバート卿、そしてハドリー警視と、事件の捜査を順番に担当した三人の語り手が登場するのが大きな特徴です。
カーの作品では語り手(に類する人物)はただ一人なのが普通だということもありますが、それ以上に、安楽椅子探偵もので複数の視点から事件が語られるという形式は非常に珍しいのではないかと思われます。しかも、「第一部」(*1)では主にカラザーズ警部自身が直接体験した事件の経緯が、続く「第二部」ではハーバート卿に関係者が語った説明を中心に、そして最後の「第三部」ではハドリー警視が進めた捜査の結果が整理された形で、それぞれ語られていくのが興味深いところで、視点だけでなく立場の違いも反映された役割の分担がなされています。
とりわけ「第一部」と「第二部」では、一つの事件が“表側”と“裏側”から描かれるというユニークな状況。何とも不条理な出来事が次から次へと思うさま詰め込まれた「第一部」と、それらにある程度まで筋の通った説明がつけられていく「第二部」とのギャップ(*2)はなかなか面白いものがありますし、「第二部」の前半を占めている“ある人物”の愉快な武勇伝は、壮絶なまでの勘違いがもたらす笑いといい、“何が起こっていたのか”が明らかにされていくカタルシスといい、本書最大の見どころであることは間違いないでしょう。
実際のところ、そのあたりの事情まですべて推理によって解明するのは不可能に近く、(安楽椅子探偵ものとしての)“解決篇”ではなく“問題篇”の中でそれが明かされるのも妥当だといえます。しかし、提示された奇怪な謎の大半に「第二部」で解答がもたらされる結果、その後の興味が“殺人犯は誰なのか?”だけに絞り込まれてしまうのが難しいところ(*3)で、「第一部」と「第二部」に比べると、「第三部」――さらにフェル博士が事件を解決する「エピローグ」が、今ひとつ面白味を欠いている感があるのは否めません。
まず、事件のいわば枝葉末節の部分がすでに整理されているにもかかわらず、犯人を特定する手順が煩雑なのが大きな難点で、なぜかハヤカワ・ミステリ版と違って博物館の見取図が付されていない創元推理文庫版では特に、多すぎる容疑者たちの複雑な動きを追っていくのは至難の業といわざるを得ません。そしてまた、誰が犯人であってもさほど意外に感じられないのも残念なところ。フェル博士の解決には驚かされる部分もないではないのですが、それが若干アンフェア気味になっているのも、印象を損ねている一因といえます。
実験的な構成は魅力的ですし、序盤の不条理な謎とそれが解き明かされていく展開なども面白いと思うのですが、やはりどうしても竜頭蛇尾という印象が拭えないところです。
なお、実際にはそれぞれ「アラビアン・ナイトのアイルランド人 ジョン・カラザーズ警部の陳述」・「アラビアン・ナイトのイングランド人 副総監ハーバート・アームストロング卿の陳述」・「アラビアン・ナイトのスコットランド人 デヴィッド・ハドリイ警視の陳述」(いずれもハヤカワ・ミステリ版)といった題名が付されています。
*2: このあたり、リレー小説や都筑道夫「小梅富士」(『からくり砂絵』)などに通じる、他人が後先考えず広げた風呂敷を苦労して畳んでいるかのような印象もあり、興味深いところです。
*3: どうもカー自身は、“(原則として)フーダニットこそが最も魅力的な謎”というミステリ観によるものか、他の謎を惜しげもなく早い段階で解き明かしてもフーダニットで最後まで引っ張ることができると考えていた節があります(例えばディクスン名義の『五つの箱の死』なども参照)。
なお、本書を再読して感想を改稿するに当たっては、a_Yさんよりいただいたメールを参考にさせていただきました。あらためて感謝いたします。
1999.11.13読了2010.04.05再読了 (2010.05.09改稿)
死者はよみがえる To Wake the Dead
[紹介]
新進作家のクリストファ・ケントは、友人との賭けで南アフリカからロンドンまで無銭旅行をすることに。何とか目的地のロイヤル・スカーレット・ホテルまでたどり着いたものの、金のないまま空腹に耐えかねたケントは、たまたま拾った707号室の朝食券を使い、ホテルの宿泊客を装って朝食にありつく。ところが、前の宿泊客の忘れ物のせいでホテルの使用人とともに客室まで行く羽目になり、案内された707号室の中には女の死体が――そして田舎の屋敷で起きた不可解な殺人と、そこに現れた正体不明のホテル使用人の謎――フェル博士が解き明かす奇怪な事件の真相は……?
[感想]
どこかピントの狂ったような不条理に満ちた謎もさることながら、大胆を通り越してかなり無茶に近い仕掛けによって、ある程度心の広い方にのみおすすめできる怪作となっています。また、少なくともカー初心者にはまったく向かないと思われるのでご注意下さい。
物語の発端となるのは、主人公クリストファ・ケントが追い込まれるのっぴきならない窮地で、無銭旅行の末に食い逃げを企てたところが、他人の客室で見知らぬ死体と対面する羽目になるという、絵に描いたようなはまり具合。ところが、最大の容疑者となるはずの主人公がそこからまんまと脱出し、フェル博士に助けを求めるや否やあっさりと容疑が晴れるという、冗談のような展開(*1)には苦笑を禁じ得ないところです。
そこでは、ホテルでの事件に先立つ第一の殺人の様子が語られますが、その現場である田舎の普通の屋敷にホテルの制服を着た男が現れたという、奇怪きわまりない目撃証言がなかなか魅力的。あまりにも場違いな出で立ち自体がもたらすシュールな味わいに加えて、その時点ですでに第二の、ホテルでの事件を暗示していたかのような、筋が通るようで通らない奇妙な状況が何ともいえません。
しかしながら、終盤近くまで大小の謎が積み重ねられていくばかりで、捜査や推理がなかなか進展する様子を見せず、物語に強い停滞感が漂っているのが難点。しかもそれは、カーが真相の隠蔽に腐心するあまり、フェル博士らに必要以上に口を閉ざさせていることによるもので、結果としてアンフェア気味な印象を強めているのがいただけないところです。少なくとも“ある部分”を、真犯人を提示する直前にでも明かしておけば、多少は印象も違ったと思うのですが……(*2)。
本書でカーが最も重点を置いているのは犯人の意外性であり、クライマックスで明らかにされる、ディクスン名義の『五つの箱の死』と双璧をなす意外すぎる犯人には、読者のほとんどが呆気に取られてしまうことは確実でしょう。そしてそれを成立させるための仕掛けがまたほとんど反則に近いもので、伏線を張ってありさえすればいいというものではない、と言いたくなってしまうのは否めません。
もっとも、カーの狙いをよく考えてみればそれなりの妥当性を見出す余地はあると思いますし、読者を騙すためにはここまでするというカーの意気込み(あるいは稚気)に感心させられる部分もあり、手放しではほめられないにせよ、悪くない作品といっていいのではないかと思います。
1999.10.29読了
2009.06.16再読了 (2009.08.05改稿)
曲がった蝶番 The Crooked Hinge
[紹介]
15歳の時にアメリカの親戚に預けられ、兄の死により二十五年ぶりに帰国して家督を引き継いだ准男爵ジョン・ファーンリ卿。ところがそこへ、自分こそが本物のジョン・ファーンリ卿だと主張する男が現れたのだ。その男によれば、アメリカへ渡る際に乗船したタイタニック号で境遇の異なるパトリック・ゴアという少年と親しくなり、沈没事故の混乱に乗じて入れ替わりが行われたのだという。少年時代のジョン卿を知る家庭教師が呼び寄せられ、真贋の決着がつこうとしていたまさにその時、“ジョン卿”が謎の死を遂げる。自殺とも他殺ともつかない、何とも奇妙な状況で……。
[感想]
“カー作品のベスト”が読者によってバラバラだというのはしばしば言われることですが(*1)、本書は他の傑作とともにそこに挙げられることの多い作品の一つで、登場人物たちが織りなす複雑なドラマと、物語の背景に終始横たわる怪奇趣味とが大きな魅力となっています。
まず、“二人のジョン卿”による真贋争いという発端からして読者を引き込むには十分。とりわけ、後から現れた“ジョン卿”が語るエピソードは、(不始末により半ば放逐されたとはいえ)由緒ある准男爵家の子息と、サーカスに送られる途上の蛇使いの息子とが、タイタニック号の沈没事故を機にすり替わったという何ともドラマティックなもので、本筋である現在の物語とは別に強く心に残るものになっています。
この真贋争いをもう少し引っ張ってもよかったのではないかとも思いますが、手回しよく証人が呼び寄せられており、あっさり決着……かと思いきや、物語は序盤にしてめまぐるしい展開をみせます。しかも、真贋の判定を妨げるべく証人が狙われるという大方の予想を裏切り、なぜか現在当主におさまっている“ジョン卿”が怪死を遂げることで、混迷が一層深まっているのが見どころです。
事件そのものは、目撃者の視線にさらされている庭園の真ん中で起きた、いわゆる“衆人環視下”の不可能状況ですが、夜間だということもあって目撃者の証言にはかなり曖昧なところがあり、密室や“雪密室”のようにきっちりした不可能犯罪と比べると少々物足りなく感じられる部分もあります。しかし、事件の不可能性が強調されながらもその状況が今ひとつはっきりしないことで、どこか理屈で割り切れないような不気味な印象を生じている(*2)のが見逃せないところでしょう。
そしてそこから、邸に伝わる自動人形の奇怪な“挙動”や、そこかしこにちらつく悪魔崇拝の影など、物語が徐々にオカルト色を強めていくところが印象的で、その雰囲気の中で事件の真相が解き明かされていく「第III部」の終盤から「第IV部」にかけてのスリリングな展開は圧巻です。
最後に示されるのは、よくも悪くも想像を絶するトリック。人によっては呆れてしまうおそれもありますし、個人的にも少々難があるといわざるを得ませんが、いずれにしても強烈なインパクトを残すことは確実ですし、それが物語の中にうまく組み込まれているのは見事です。カー作品としては(おそらく)他に例を見ない幕切れが用意されているのも興味深いところで、ベストに挙げる読者が多いのもうなずける、色々な意味で印象に残る作品です。
*2: このあたりは、前年に発表された『火刑法廷』にみられる
“その女の首はぴったり躯にくっついていなかったような気がするんです”(ハヤカワ文庫版107頁)のような、曖昧であるがゆえに薄気味悪く感じられる表現に通じるところがあるように思います。
1999.11.03『曲った蝶番』読了
2009.02.09『曲った蝶番』再読了 (2009.03.09改稿)
2013.01.22『曲がった蝶番』読了
緑のカプセルの謎 The Problem of the Green Capsule
[紹介]
村の菓子屋で毒入りチョコレートが売られ、子供たちがその犠牲になるという事件が起こった。解明の糸口が見当たらず疑惑だけが渦巻く中、犯罪研究を道楽とする村の荘園主マーカス・チェズニイが事件の謎を解いたと称し、それを証明するために犯人の使ったトリックを実演する公開実験を行う。ところが、家族や友人たちを前にしたその実験の最中、不意に出現した黒眼鏡とマフラーで顔を隠した怪人物に緑のカプセルを飲まされて、当のマーカス本人が毒殺されてしまったのだ。実験の観客たちはそれぞれに強固なアリバイを主張する一方、その目撃証言は曖昧で犯人は不明のまま……。
[感想]
カーといえばやはり“密室もの”――ないしは“不可能犯罪”――というのが一般的なイメージかと思われますが、実際には思いのほか幅広い作風で、密室もの以外にも優れた作品が存在します。「心理学的推理小説」という副題が付された本書もその一つで、物理的/機械的なトリックではなく心理的なトリックに基づく、不可能性というよりも不可解性の高い謎が扱われた佳作です。
発端となっているのは、菓子屋で売られたチョコレートに毒が仕込まれていたという“毒入りチョコレート事件”(*1)で、“本家”(?)のアントニイ・バークリー『毒入りチョコレート事件』とは違って犯行の機会がある程度限定されているとはいえ、愉快犯的な事件の性格もあって捜査は難航。そんな中、荘園主マーカス・チェズニイの姪であるマージョリイに疑惑が向けられますが、その状況が“クリスティアナ・エドマンズ事件”という現実の毒殺事件を下敷きにしているのが面白いところです。
それに対して、犯罪研究を道楽とするマーカスは、犯人の使ったトリック――いわば現実の毒殺事件の“別解”(*2)――を突き止めたと宣言します。実のところ、この第一の事件のトリック自体は奇術の仕掛けをそのまま持ってきたようなもので、さほど面白味があるとはいえないのですが、そのトリックの実演を含めた、“およそ人間の目くらいたよりにならぬしろものはない”
(61頁)というマーカスの持論に基づく観察実験が、やはり本書の最大の見どころでしょう。
その実験は、観客たちの目の前で“何が起こったのか”に関して多岐にわたる細かい質問に答えるという、目撃証言さながらのものですが、その最中にマーカスが毒殺されることで図らずも目撃証言の信頼性が問われることになるという展開が秀逸。そして犯人の犯行の様子を間近で目にしていたはずの観客たちの証言が、マーカスの持論そのままに食い違いをみせる結果、犯人につながる手がかりになり得ないという皮肉な状況が何ともいえません。
事件の捜査にあたるのは、『曲がった蝶番』にも登場したスコットランド・ヤードのエリオット警部ですが、捜査が行き詰ってしまっただけでなく、事件の渦中にある(しかも婚約者のいる)マージョリイへの恋の苦悩の果てに、旧知のフェル博士にすべてを任せてしまうという、何ともカーらしい展開には苦笑を禁じ得ません。
カーが不可能犯罪だけでなく毒殺にも強い関心を抱いていたことは、多くの作品からうかがえます(*3)が、パット・ロシターが探偵役をつとめる『毒のたわむれ』と並ぶ“毒殺づくし”の作品である本書には、フェル博士が毒殺者の性格について様々に論じる、“密室講義”(→『三つの棺』)ならぬ“毒殺講義”(「毒殺者とは――」と題された第18章)が盛り込まれており、非常に興味深いものになっています。
混迷を極める事件に光を当てるのが、実験の一部始終を撮影した映画のフィルムで、終盤になると現像も終わってようやく上映されることになりますが、そこで明らかになる被害者が仕掛けた罠には思わずうならされます。そして最後の決め手となる絶妙なオチ(?)のセンスには脱帽。細部に若干不満の残るところもありますが、やはりよくできた作品だと思います。
2008.06.08再読了 (2008.06.28改稿)
テニスコートの殺人 The Problem of the Wire Cage
[紹介]
嵐が通り過ぎた後、ニコラス・ヤング博士の邸内にあるテニスコートの中央には、先ほどまでテニスを楽しんでいた若者フランク・ドランスの絞殺死体が倒れていた。それを発見したフランクの婚約者、ブレンダ・ホワイトは慌てて駆け寄るが、雨上がりのコート上にはフランクとブレンダ自身のもの以外に足跡はなかった。フランクの死によって莫大な財産を相続することになるブレンダは、このままでは犯人にされかねない。通りがかった友人の弁護士ヒュー・ローランドの協力を受けて、不利な事実を隠し通そうとするのだが……。
[感想]
本書は、カーがいくつか発表している足跡テーマの作品の一つ(*1)ですが、雨上がりのテニスコート(*2)という一風変わった現場もさることながら、当然あるはずの犯人の足跡が見当たらないという“足跡のない殺人”であるにもかかわらず、探偵役のフェル博士をはじめとする捜査陣にとっては“足跡のある殺人”の様相を呈するという、なかなか面白い状況が目を引きます。
犯人の足跡がないために“誰にも犯行が不可能”に見える状態から、“足跡の主以外には犯行が不可能”に見える状態に転じることで、そのままでは、現場に足跡を残してしまったブレンダに濃厚な容疑がかかるのは不可避――というわけで、不可能犯罪の扱いは“『ユダの窓』の足跡版”といったところになるでしょうか。その苦境から脱するために、ヒューとブレンダは協力して偽装と偽証を重ね、“犯人がブレンダに濡れ衣を着せようとした”状況を演出することになります。
かくして、表面的には事件が不可能犯罪ではなくなってしまう(*3)という、“不可能犯罪の巨匠”らしからぬ(?)ひねくれた展開をみせる一方、偽装工作の“共犯者”となったヒューとブレンダは真犯人を差し置いて捜査の進展に一喜一憂することとなり、物語は二人のロマンスを絡めたサスペンスの味わいを前面に出して進んでいきます。“共犯者”たるヒューとブレンダのやり取り、そして捜査陣との肚の探り合いは、倒叙ミステリ風の緊張感を生み出しています(*4)。
しかしながら、そのあたりからプロットが迷走を始めているのは否めません。“足跡のある殺人”への改変によってやむを得なくなっている部分もありますし、トリックスター的な振る舞いを見せる容疑者(*5)の登場によって、苦しいところをかなりうまくカバーしてあるように思われますが、それでも、行き当たりばったりで取ってつけたような第二の殺人につながっていくのはいただけないところで、カー自身も後に述懐している(*6)ように、第一の殺人だけで中篇に仕立てるべきだったのは間違いないでしょう。
そして最後に明かされる真相は……“足跡のない殺人”を演出したトリックそのものは、冷静にみるとまずまずよくできているようにも思えるのですが、それを成立させるための少々無茶な前提がかなり印象を悪くしているのが残念。もっとも、ある意味で意外な真犯人とその凄まじい往生際の悪さ、そして唖然とするほどぬけぬけとした“最後の決め手”のインパクトでだいぶ挽回してある感はありますし、カーの作品にしては珍しく最後にそえられた後日談が、物語を後味よく締めているのは確かですが……。
なお、二階堂黎人『吸血の家』では本書と同じくテニスコートでの“足跡のない殺人”が扱われており、トリックはカーのものよりもよくできていると思いますので、興味のある方はぜひそちらもお読みになってみてください。
*2: 原題の『The Problem of the Wire Cage』は、金網に囲まれたテニスコートを鳥かごに見立てたものです。
*3: ハドリー首席警視に呼び出されたフェル博士が、一見すると不可能犯罪ではないがゆえに、
“なんでわしはここにいる? 妙な話はどこにあるんだ? そもそも、そんなものがいささかなりともあるのかね?”(146頁)とぼやいている(?)のも面白いところです。
*4: しかし、その中にもしっかりと笑いどころを用意してある(「第14章」)のが愉快です。
*5: 人物描写と置かれた立場によって、その振る舞いにも十分納得できるところがあるのがさすがです。
*6:
“この作品は中篇小説にすべきだったのに、私は引き延ばすため、無理に別の殺人を持ち出さねばならなかった”(ダグラス・G・グリーン『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』195頁より)。
2010.02.03『テニスコートの謎』再読了 (2010.03.14改稿)
2014.08.16『テニスコートの殺人』読了 (2014.08.17一部改稿)
震えない男 The Man Who Could Not Shudder
[紹介]
17世紀に建てられてから代々の当主が悲運につきまとわれ、ついには幽霊が出るという噂まで流れる古い屋敷〈ロングウッド荘〉を買い取ったマーチン・クラークは、噂の真相を確かめるべく友人たちを招いてパーティを開いた。だが翌朝、客の一人ベントリイ・ローガンがクラークの書斎で射殺されてしまう。しかも、その瞬間を目撃した妻ギネスによれば、壁にかけてあった銃がひとりでに浮き上がり、弾丸を発射したというのだ。さらに別の客が、十七年前の未解決事件そのままに天井から落ちたシャンデリアの下敷きに……。
[感想]
『震えない男』という意味がわかりにくい邦題は、古い童話を出典とする原題ほぼそのままで、“決して怖がることのない男”という被害者ローガンの性格を表しているようです。訳者である村崎敏郎氏の解説によれば、当初は『幽霊屋敷の殺人』という仮題が予告されていたとのことですが、一見して内容がわかりやすいそちらの方がよかったのではないかと個人的には思います(*1)。
というわけで、いかにもカーが好みそうな幽霊屋敷が題材となった本書ですが、その割には怪奇色が薄いものに感じられます(*2)。その大きな理由としては、前述のローガンをはじめ登場人物の大半が、あまり幽霊を恐れているように見えないことがあるように思われます。特に、本書の記述者(視点人物)である作家ボブ・モリスンが、他人に“空想的で神経過敏なタイプ”
(24頁)と思われるのを嫌っているせいもあってか、怪現象に対する反応が全般的に抑え気味に描かれているという印象を受けます。
物語の序盤から、“くるぶしをつかむ手”や“突然動き出す時計”といった怪現象が次々と起こる中、誰も手を触れない銃によって被害者が射殺されるという不可能犯罪が発生します(*3)。ただし、演出効果を考えれば衆人環視下で事件を起こすのがベターなところ、本書の場合にはあえて目撃者が一人しか配されていない上に、現場の窓のすぐそばに誰かが立っていたというような証言もあるなど、やや曖昧な状況設定がなされているのが少々意外です。
この曖昧な状況が、作中において登場人物間に様々な疑心暗鬼を生み出し、プロットを錯綜させる効果を上げているのは確かです。しかしながら、読者、とりわけ“カーが魅力的な不可能犯罪をハッタリだけで終わらせるはずがない”と信頼(苦笑)している読者にとっては、必要以上に迂遠に感じられるだけであまり効果的とはいえないのではないでしょうか。
そしてフェル博士が解き明かすトリックは……正直なところ、さほど出来がいいとはいえないのが残念。面白い扱い方がされている部分もあるのですが、基本的には見え見えともいえるトリックをややあざといやり方で隠してあるという感じです。しかも、カーの“手癖”のようなものを考え合わせれば、そこから直ちにすべてが見通せてしまってもおかしくない……のですが。
本書の最大の見どころはそこから結末に至るまでの、見方によっては喜劇的ともいえる意外な展開で、アントニイ・バークリーの一部の作品を思わせる人を食った結末の味わいは何ともいえません。細部に難もあるにはありますが、全体としてはまずまずの作品といっていいように思います。
なお、法月綸太郎「世界の神秘を解く男」(『法月綸太郎の新冒険』収録)では、本書を元ネタにしたシャンデリアの落下による殺人が扱われています。興味のある方はぜひお読みになってみてください。
1999.10.20読了
2008.08.17再読了 (2008.09.06改稿)