折れた竜骨/米澤穂信
まずトーステン・ターカイルソンの塔からの消失については、首を切り落とされない限り死なないという〈呪われたデーン人〉の性質が明確になった時点で、文字通り“困難は分割せよ”というトリックであることを見抜くのはさほど難しくないと思います。これは、いくつか前例のある密室状況からの死体消失トリック(*1)の応用ともいえますが、より近い例が某国内作家の非ミステリ作品(*2)にあります。
というわけで、消失トリックそのものに目新しいところはないのですが、トーステンがこのタイミングで脱走したこと自体が(後述するように)真相解明の手がかりの一つとなっているところがよくできていますし、自らを解体するための短剣の入手経路から協力者の存在が浮かび上がり、その協力者――ヤスミナ・ボーモントの目撃証言が最後の決め手になるという手順が巧妙です。
メインの謎である領主ローレント・エイルウィン殺害について、ファルク・フィッツジョンが容疑者として挙げている(289頁)のは、領主ローレントが作戦室にいることを知り得た八人。それぞれの容疑者たちについての、ファルクとニコラの推理を検討してみます。
- 吟遊詩人イーヴォルド・サムス/アミーナ・エイルウィン/家令ロスエア・フラー
- 【もともと小ソロンにいた(ソロン島に渡らなかった)ため、〈走狗〉の行動に当てはまらない】
夜の間は誰も出入りができない天然の“クローズドサークル”であったはずの小ソロンに、いわば“秘密の抜け道”があったというのが何とも皮肉ですが、そうでなければ容疑者が一気に三人に絞り込まれてしまうわけですから、読者としては当然予想できるところでしょう。しかしファルクによる“秘密の抜け道”の発見が、“探偵”であるファルクの慧眼を強く印象づけると同時に、他ならぬファルクには“秘密の抜け道”を通じた小ソロンへの侵入が可能だったことを示唆しているのが見逃せないところではないでしょうか。
そして、(ファルクが見出した“秘密の抜け道”が実際に使われたことまでは証明できないにしても(*3))〈走狗〉がソロン島から小ソロンにやってきたことを示す、踏まれて割れたビスケットの手がかりはよくできていますし、それによって鮮やかに“クローズドサークル”の“内”と“外”が反転し、“内”側にいた三人の容疑が晴れるのが面白いところです。
- 従騎士エイブ・ハーバード
- 【砦で夜警をしていたため、犯行の機会がない】
問題なくアリバイが成立。
- 傭兵スワイド・ナズィール
- 【
“〈走狗〉は作戦室に飾られていた剣をとった”
という条件に当てはまらない】スワイドは魔術師であるため、もともと剣を使った犯行にそぐわないのは確かですが、“作戦室の剣を使うはずがないこと”が論理的に示されているのが見事。
“豚の脂で剣を磨く連中”
(225頁)や“お前の剣を使うのは断る。穢れが移るわ。(中略)棍棒でも持ってくることだ”
(227頁)といった手がかりは、比較的目につきやすいかもしれませんが、よくできていると思います。 - 傭兵イテル・アプ・トマス
- 【
“〈走狗〉はその剣を右手でしっかりと握り込んでいた”
という条件に当てはまらない】〈呪われたデーン人〉との激しい戦闘場面の中に、さりげなく手がかりが配されているのが巧妙。また一方で、事件直後の魔法による調査の際にのみ
“五本の指の跡がある”
(78頁)と明言され、289頁でファルクが〈走狗〉の条件を挙げた際には(上にも引用したように)曖昧な表現になっているのもうまいところで、“作者によるトリック”(*4)が実に効果的といえるでしょう。 - 騎士コンラート・ノイドルファー
- 【ヤスミナの目撃証言に当てはまらない】
〈盗人の蝋燭〉によって姿が見えない、暗殺にはうってつけの状態でありながら、それゆえに〈走狗〉ではあり得ないという逆説的な解決が魅力的。そして明らかにされる、最後の決め手となったヤスミナの目撃証言の意味――というよりもトーステンの目撃証言だけでは不十分だったことの意味に、納得せざるを得ません。
- 傭兵ハール・エンマ
- 【〈呪われたデーン人〉であるため、暗殺騎士の魔術がかからない】
ファルクによる“解決”のとおり、エンマは一見すると〈走狗〉の条件をすべて満たしうるように思えます(*5)が、そのエンマが〈呪われたデーン人〉だったという真相が見事。海から上がった後には〈呪われたデーン人〉としての素顔がほぼあらわになっているにもかかわらず、(“薄汚れた顔の下から美しい素顔が”という定番の(?)演出に紛れているというのもありますが)
“頬からは血の気がすっかり引いている”
(265頁~266頁)のが自然な状況であるため、真相が巧みに隠蔽されているのが見逃せません。そして、魔法がかからないために〈走狗〉ではあり得ないという、魔法の存在を前提としたこの世界ならではのロジックがやはり秀逸です。エンマが海に沈んでからどのくらい時間が経ったのか、読者に対してはっきりと示されていないのが少々難ではありますが、これは舞台設定を考えれば致し方ないところ(*6)で、そのあたりの描写(264頁)はニコラが
“到底息が続くはずもない時間をかけて”
(315頁)と表現するに足るものといっていいのではないでしょうか。
このようにして八人の容疑者たちがすべて“消去”された後に残るのは、“探偵”側の人間として恣意的に容疑者から排除されていた従士ニコラ・バゴと騎士ファルク・フィッツジョンのみ。そしてニコラについては、ファルクによる“解決”を覆そうとしている当人だということもありますが、“〈走狗〉は作戦室の入口から六歩で(後略)”
という条件に当てはまらないことが“現場検証”の際に強調されており、〈走狗〉でないことは明らかでしょう。
実際のところ、〈忘れ川{レテ}の雫〉という魔術の話題が持ち出された(167頁)少し後に言及されている、ファルク自身もどうやってできたか覚えていない顎の傷(189頁~190頁)という手がかりはかなりあからさまですし、さらにご丁寧なことに、戦いの最中に負ったかすり傷から“一すじの血が流れている”
(265頁)場面まで描かれていることで、ファルクが〈走狗〉であるという真相はほとんど見え見えです。
しかしながら、本書における“探偵=犯人”の構図は決して犯人の意外性を狙ったものではなく、自身が“犯人”である“探偵”が謎解きを行う動機を際立たせるためのものだととらえるべきでしょう。“探偵”ファルクは、エンマを“犯人”とする“偽の解決”を披露していますが、それは罪を免れるためではなく、ニコラをしてファルク自身を告発させる――ひいては“暗殺騎士エドリック”として(*7)討ち取られることを目的としたものであり、“兄弟団の勝利”のためにやむを得ない行動だったといえます。そしてそれを踏まえると、ファルクが最後の手がかりを得た際の(すなわち自身が〈走狗〉だという真相が確定した際の)、“やはり、そうだったのか”
(280頁)というただ一言に込められた余人ではうかがい知れない思いに、胸を打たれずにはいられません。
*2: ミステリも発表している国内作家(作家名)山田風太郎(ここまで)の非ミステリ短編(作品名)「忍者枯葉塔九郎」(ちくま文庫『野ざらし忍法帖』収録)(ここまで)。
*3: “密室トリックの解明が犯人の特定にほとんど寄与しない”という趣旨の、ファルクによる(ある意味では身も蓋もない)指摘(292頁~293頁)も、なかなか興味深いところではあります。
*4:
“論理的な解決を重視したミステリにおいては、作者は真相のみならず“真相につながる論理”をも読者の目から隠しておく(しかも“フェア”に)必要があるわけで、そこには(叙述トリックとは違った意味で)読者に対する作者のトリックが存在するともいえます。”(「有栖川有栖『月光ゲーム Yの悲劇'88』の感想」)より)。
*5: ある程度はイングランド語を解することまで――しかも手がかりから導き出される形で――示されているのが周到です。
*6: 作者自身が
“ミステリ的にたいへんだったのは、時間に対する感覚の違いですね。当時の人たちは分という単位を意識せずに暮らしているので、謎の組み立てが難しかったです。”(「『折れた竜骨』刊行記念 米澤穂信インタビュー」より)と述べているように、少なくとも分単位で時間を示すのはほぼ不可能でしょう。
*7: 〈強いられた信条{モットー}〉が使われたという事実を無視しさえすれば、暗殺騎士エドリックの犯行としても十分に成立し得るのがすごいところで、殺害手段や暗殺騎士という設定など、よく考えられていると思います。
2010.12.09読了