セーラー服と黙示録/古野まほろ
2012年発表 角川文庫 ふ31-1(KADOKAWA)
2016.06.18読了
- SCUDERIA MOTIVO
- ホワイダニット班ではまず、三枝美保と紙谷伸子の二人が自殺を図った可能性を検討するにあたって、二人がカトリックの信者であることや自殺する理由が見当たらないことをもってあっさり片付けるのではなく、
“どうして十字架に掛かったか”
(242頁)にまで踏み込んであるところがよくできています。十字架に掛かった死体の態様からその意図を読み解く過程は図像解釈学(*1)めいた面白さがありますし、後の他殺説の検討で巧妙に再利用されているのももちろんですが、さらに三枝美保について“自殺するとすれば(中略)利他的な理由しか残らない”
(245頁)と、ハウダニットの“伏線”ともいえそうな心理(*2)が示されているのがうまいところです。
一方の他殺説の検討では、葉月茉莉衣が“各論から入るの~、嫌なんです”
(246頁)と、他殺の動機の分類を始めるのがまず意表を突いていますが、その分類――“I怨恨、II痴情、III金銭その他の利害、IV愛情、V精神異常、VI通り魔その他の無差別、VIIドグマ、VIII依頼、IX口封じ、X太陽、XIその他”
(247頁)は、およそ考えられる動機の大まかな類型を網羅している(*3)、見事な分類といっていいでしょう。そして事件の状況をこの分類に当てはめることで、ホワイダニットでは本来困難なはずの(擬似的な)消去法が可能となっているのが秀逸。〈X太陽〉と〈XIその他〉が半ばメタ的(?)な理由で除外されるのは愉快です(*4)が、自殺説で検討された“十字架”によって脅迫状に関わる〈I怨恨〉と〈V精神異常〉までが棄却され、最後に〈VIIドグマ〉だけが残るのが鮮やかです。
最後には再び図像解釈学風に、事件の態様から宗教的な意味を引き出すことによって、(トリックを駆使して)神の奇跡を現出させるという動機が導かれているのがお見事。そしてこの動機が、『主に最も近づく』という特別試験の課題に“対応”していることを考えると、犯人はおおよそ見えてしまうきらいがあるかと思いますが、まあそこはそれ。
- SCUDERIA METODO
- ハウダニット班では、古賀校長が
“聖アリスガワ女学校事件のハウダニットの本質”
(257頁)と称して、以下の五つの論点を挙げています。
A 女生徒ふたりはどの様に密室を脱出したのか
これはハウダニットの
B 女生徒ふたりはどの様に十字架へ到達したのか
C 女生徒ふたりはどの様に十字架へ固定されたのか
D 女生徒ふたりはどの様にいまひとつの大鐘楼へ移動したのか
E 三枝美保の制服はどの様に紙谷伸子に与えられたのか
(257頁)“設問”
(258頁)としては至極妥当だと思われますが、それに対して古野みづきが示した以下の六つの“真実”は、いわば解明につながる着眼点であり、それ自体がすでに“解答”
(258頁)でもあります。
I 何故大鐘楼の鐘は午前零時四五分及び五五分に鳴ったのか
前半のI~IIIでは手がかりが列挙され、“そこから何が導かれるか”が眼目となっています。最初の〈I 大鐘楼の鐘の時間〉は、かなり目につきやすい手がかりではあるものの、特殊な知識を要する(*5)ためにその意味するところがわかりづらいのは否めませんが、あまりにも不自然な時刻を踏まえれば、時刻を知らせる以外の目的で機械が動かされたことは納得できます。石壁が動くトリックはどことなく“秘密の抜け穴”に近い印象もないではないですが、〈II 転がっていた懐中電灯〉や〈III 畳まれていたベッド〉といった手がかりもそれを示唆するものですし、石室からの出口が天井の換気穴しかないことから逆算するのも不可能ではないでしょう。
II 何故先輩方の石室の懐中電灯は転がっていたのか
III 何故先輩方のベッドは畳まれていたのか
IV 何故三枝先輩は自らセーラー服を脱いだのか
V 何故三枝先輩は全裸で外界へ出ることを承諾したのか
VI 何故紙谷先輩は自ら三枝先輩のセーラー服を着たのか
(258頁~259頁)
そして後半のIV~VIでは、一応は“何故”
といいつつも、被害者の自発性、ひいては“操り”を露骨に打ち出してあるのが大胆。しかして、〈IV 三枝美保が自ら脱衣した理由〉と〈VI 紙谷伸子がセーラー服を二重に着た理由〉についてはI~IIIと逆方向への“展開”――“それが何から導かれるか”がポイントとなっているのが巧妙で、前者につながる下着の畳み方は一般的に通用しそうな話だと思いますが、後者を裏付ける完璧に左右対称なスカーフは、本書ならではの――紙谷伸子のキャラクター描写の一貫にすぎないように思わせるユニークな手がかりといえます。また、〈V 三枝美保が全裸で外界へ出た理由〉が――おそらくは水溶布(*6)のトリックを隠すために――“偽問題”に仕立てられているのも面白いところですが、“何故三枝先輩は全裸で外界へ出ることを承諾したのか”
という表現によって“偽問題”であることが匂わされているとすれば、実に周到というよりほかありません。
特別試験に関して絶大な支配力を有する犯人ゆえに、被害者たちの心理と行動を操ることはたやすく、また具体的な手段については、いわば“富豪の犯人”ゆえに何とでもなる――というところをみると、ハウダニットとしてはやや面白味が薄いのは確かではありますが、特別試験に臨む二人の思惑(の違い)を巧みに利用した“蛇のプラン”は、やはり強烈な印象を残します。と同時に、見方によっては“有栖川有栖オマージュ”(*7)ともいえそうなところがあるのにニヤリとさせられます。
- SCUDERIA CRIMINALE
- 実際問題として、ホワイダニット/ハウダニット/フーダニットの謎と解明を完全に分離するのは困難で、少なくともホワイダニット/ハウダニットの解明が済んだ段階では、読者には犯人が見え見えだと思いますが、本書では三つの班が分離されて“完全独立”の謎解きであるため、ホワイダニット/ハウダニットの結論を耳にすることもなく一から――登場人物表を作るところから謎解きが始まるのが印象的です。
さて、登場人物表に挙げられた11組の容疑者たちのうち、まずは(4 古野みづき)、(5 葉月茉莉衣)、(7 寮の女生徒五人)、(11 不審者X)があっさりと除外されますが、[1 被害者の所在を知らない]、[2 消灯後に出歩くと目立つ]、[3 雪の上に足跡を残す危険性]と、三つもの理由が用意されているところに脱帽。それでも、ここまでは比較的オーソドックスでわかりやすいようにも思われますが、ここから先の手順が本書ならではの見どころといえるでしょう。
フーダニット班の探偵である(6)島津今日子が、“私はいちおう、これが探偵小説になるとすれば、探偵小説の語り手になります。”
(301頁)というメタな理由で除外される(*7)のも面白いのですが、続いて今日子が仏教徒だからという理由で(10 神)が除外されるのがものすごいところで、マードレ・ルチアに“仏教には、奇跡は無いの?”
(302頁)と突っ込まれているのには笑いを禁じ得ません。
(8 三枝美保)と(9 紙谷伸子)については、ホワイダニット班とは違ってシンプルに自殺説が否定されていますが、さらに“一方が他方を殺した場合”について、模倣犯の可能性をしっかり否定しつつ“最終の犯人”に帰結させているのが巧妙です。
そして容疑者が残り三人になったところで発せられる、“奇跡の意味”に関する質問――三人のうち(3 マードレ・ルチア)ただ一人を除外するための設問が非常に秀逸。一見するとホワイダニット的なので困惑させられるところもありますが、ホワイダニット班(やハウダニット班)では検討されなかった“奇跡の意味”を明らかにすると同時に、“脅迫状の内容を知っていた人物にのみ犯行が可能”という条件を導き出してあるのが鮮やかです。
最後の(2 飯塚佑)については、ハウダニットで手がかりとして使われたセーラー服のスカーフが“再利用”されているのが面白いところで、奇跡のシナリオと矛盾すること――読者の視点からすれば“ハウダニットの手がかりとなり得たこと”自体が手がかりとなっている、ともいえるでしょう。もう一つの手がかりとなるのが飯塚佑の過去で、一種の性別トリック(?)が仕掛けられているものの、学園史でたったひとり“大学一年で国家試験に受かった娘”
とされている“飯塚佑さん”
(96頁)とはっきり書かれていますし、読者に対しては“セーラー服のスカーフがどれだけ面倒なものか、飯塚佑は自分の言葉で語ることができた”
(219頁)という記述もあり、十分にフェアであることは確かでしょう。
* * *
*1: 飛鳥部勝則『殉教カテリナ車輪』を参照。
*2: ここで三枝美保の利他的な心理に言及されることで、後に古野みづきがいうところの〈IV〉と〈V〉、ひいてはそこで解き明かされるシナリオを受け入れやすくなっている部分があるように思います。
*3: 飯塚佑は
*4:
*5: 装置の出力と重量(規模)の間に大まかな相関があるのは確かでしょうが、
*6: ここで、(
*7: 具体的には書きませんが、有栖川有栖の某長編に通じるところがあり、そちらをお読みになった方はピンとくるのではないでしょうか。
*8: (4)・(5)・(7)・(11)と同じように、[3 雪の上に足跡を残す危険性]によって除外できるようにも思われますが、特別試験の立会人だったために“深夜に寮へ帰ってくる正当な理由がある”のがネックでしょうか。もっとも、午前一時に図書室を離れたことははっきりしているのですから、“寮へ帰る時に雪が止んでいたらアウト”なのは他の生徒たちと同じではないでしょうか。
*2: ここで三枝美保の利他的な心理に言及されることで、後に古野みづきがいうところの〈IV〉と〈V〉、ひいてはそこで解き明かされるシナリオを受け入れやすくなっている部分があるように思います。
*3: 飯塚佑は
“微妙にそれぞれ排他的じゃないところがある”(247頁)と指摘していますが、葉月茉莉衣が
“もちろんIとVとVIIがぜんぶ競合してる、ってこともあります~”(250頁)としているように、動機は必ずしも排他的ではない――例えば〈I怨恨〉と〈IV愛情〉などは無理としても、いくつかの組み合わせは並立し得る――わけで、
“類型”(249頁)と表現されているところにもそれが表れているといえるのではないでしょうか。
*4:
“私たちの班の存在意義がないんで~、Xには寝ていただいて”(249頁)には、さすがに苦笑を禁じ得ません。
*5: 装置の出力と重量(規模)の間に大まかな相関があるのは確かでしょうが、
“世界の鐘楼の例”(261頁)のような知識がなければ、どの程度の相関なのかは一概にいえない……ように思えるのですが。
*6: ここで、(
“東急ハンズ”(272頁)はまだしも(?))
“ユザワヤ”(274頁)(→「ユザワヤ 手芸用品・生地・ホビー材料専門店」)が出てくるのがすごいというか何というか。
*7: 具体的には書きませんが、有栖川有栖の某長編に通じるところがあり、そちらをお読みになった方はピンとくるのではないでしょうか。
*8: (4)・(5)・(7)・(11)と同じように、[3 雪の上に足跡を残す危険性]によって除外できるようにも思われますが、特別試験の立会人だったために“深夜に寮へ帰ってくる正当な理由がある”のがネックでしょうか。もっとも、午前一時に図書室を離れたことははっきりしているのですから、“寮へ帰る時に雪が止んでいたらアウト”なのは他の生徒たちと同じではないでしょうか。
2016.06.18読了