隻眼の少女/麻耶雄嵩
本書では、いわゆる“後期クイーン問題”――偽の手がかりを用いて犯人が探偵を操る構図が打ち出されていますが、それでいて最終的な真相は“探偵=犯人”であり、操りの構図が“自作自演”だったというのが何ともいえません。単なる偽の手がかりによるミスリードにとどまらず、“偽の手がかりがばら撒かれる構図”それ自体を――ひいては“犯人に操られる探偵の苦悩”をミスリードとする仕掛けとなっているわけで、偽の手がかりの問題がクローズアップされているだけに効果的です。
そして、“探偵=犯人”という真相を看破するのに不可欠な“別の探偵”として三代目・御陵みかげが用意され、“御陵みかげ”の名前の継承というドラマと組み合わされているのが見事です。
(二代目)御陵みかげによる最終的な解決では、現場に残された血痕から“山科が秋菜より先に殺された”ことを明らかにした上で、その殺害順序の逆転をアリバイトリックのためだと断定し、アリバイが成立する〈スガル様〉を犯人だとしています。ここで、〈スガル様〉の口を借りて“それが犯人の詐術ではないという根拠はあるのですか?”
(257頁)と、“偽の手がかり問題”に触れられているのが面白いところ。つまりこの段階でも“偽の手がかりと本物の手がかりを峻別する”必要が生じているわけで、(二代目)みかげは“(〈スガル様〉にアリバイを与える)偽のアリバイトリック”が成立するかどうか確認できないことを根拠とし、別の犯人による偽の手がかりではないと結論づけています。
これはもちろん、山科が先に殺されたという事実に関する“解釈の誤り”――実のところは(二代目)みかげによる犯人の目的のすり替え――によるもので、あえて真相に肉薄する事実(*1)を明かしながらも――つまりは“本物の手がかり”をさらしながらも、巧妙に推理をねじ曲げて偽の真相へとミスリードし、さらに“父が動機から最も遠い人間だったから”
(258頁)と、山科本人には殺害される理由が存在しなかったかのように印象づけてあるところが絶妙です。
一方、(三代目)御陵みかげによる解決では、“改築を知らない者が犯人であるというロジックで誘導するには、知らない人間が容疑者の中にいなければ意味がない”
(398頁)、すなわち“誘導先が見つからない手がかりは本物の手がかりである”というロジックによって、偽の手がかりと本物の手がかりが見事に峻別されているのが非常に秀逸です。
とはいえ、このロジックにも“落とし穴”が潜んでいるのは事実。というのは、“誘導先が見つからない手がかり”が手がかりとして機能するためには“誘導先が見つからない”ままではあり得ないわけで、厳密にはその“誘導先”が見つかった時点で先のロジックが通用しなくなり、偽の手がかりである可能性を排除できないという無限後退に陥ってしまうからです。本書でいえば、容疑者の範囲を広げることで(二代目)みかげが“真犯人”として浮上しているものの、別の真犯人がそこまで想定して仕掛けたミスリードでないと論理的に断定することはできないのではないでしょうか。
当然ながら、それについては作者自身も十分認識している節があり、(三代目)みかげが決め手として持ち出した“犯人がわざわざ瓦屋根を乗り越えた”という“本物の手がかり”が、結局は犯人の(二代目)みかげが意図的に残したものだった――“真の解決”さえも犯人の操りの結果だった――というひねくれた真相が用意されているのが、何とも麻耶雄嵩らしく感じられるところです。
(二代目)みかげが〈スガル様〉と“対決”した場面の腹話術やオコジョの蔵臼を使ったトリックなどは正直いかがなものかと思いますし、あまりに都合のいい(二代目)みかげの影武者の存在や、岩倉辰彦との“疑惑の二時間”(250頁~253頁)など、気になる部分も残されていますが、ネタバレなしの感想の*3にも書いたように、解決のロジックが眼目となっている本書では、読者に解明が委ねられた部分は基本的にないと考えるのが妥当ではないかと思われます(*2)。
その中で、個人的には一点、最後の“その頃の私は静馬に夢中だったから”
(416頁)という(二代目)みかげの言葉が真実(*3)だとした場合、最初の春菜殺しに恋敵を排除するという意味合いも加わってくることになるのではないでしょうか。もっとも、(二代目)みかげが“偽の解決”の後に静馬の前から姿を消したことを考えれば、いささか微妙ではありますが……。
*2: “裏の真相”が用意されているにしては、手がかりが少なすぎるということもあると思います。
*3: その場合、
“種馬”発言(414頁)もツンデレの一環ということに。
2010.10.02読了