スラッシャー 廃園の殺人/三津田信三
本書に仕掛けられたトリックは、映像を撮影しているカメラマンの存在を読者の目から隠す叙述トリックで、【現実】の一部をカメラの視点(≒カメラマンの視点)で切り取った【映像】を提示することによって、【現実】のうちカメラのフレームに収まらない部分を盲点とするものです(下図参照)。実質的に描写の視点となっているカメラマンを隠すわけですから、視点人物の隠匿トリック(→拙文「叙述トリック分類#[A-3-1] 視点人物の隠匿」を参照)の一種といえるでしょう。
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当然ながら、もともとは映画などの分野で発展したアイデアだと思われますが、ミステリ(小説)においても新規なトリックというわけではなく、知る限りでは二つの前例(*1)があります。しかし、カメラマンの存在を隠すという中核部分は同じであっても、本書ではその扱い方が前例とはかなり異なっています。
そもそもこのトリックは前述のようにカメラマンの存在を盲点とするものですが、裏を返せば、実際に映像が撮影されたという事実をもって、画面に映らないカメラマンがその場に存在した――物語に登場していたことを保証するものといえます。しかし小説では、(画面に映った)映像の内容のみを描写した文章は、三人称客観視点による“現実”の描写と区別がつかなくなるおそれがあり、カメラマンの存在自体がアンフェアなものになりかねません。それを回避するため、二つの前例の場合にはいずれも、“外枠”部分の物語の中で映像が一種の作中作として提示されることで、それが“実際に撮影された映像”であることが読者にはっきりと知らされています。
ところが本書では、犯人が事件を回想しているらしき「32 序幕」が冒頭に置かれ、そこからカットバックで物語が始まり、「0 暗黒」に続いて“スラッシャー 廃園の殺人”
というタイトルが示される(18頁)など、すくなくとも映画を意識した構成であることはうかがえるものの、“外枠”にあたる部分は真相が明かされた後の「幕間」しかなく、一見すると“本編”が撮影された映像なのかどうかがはっきりしない――というよりもむしろ、映像なのか目前の“現実”なのかを意図的に曖昧にしてある節があります。
「な、な、何をするんですか! これは、どういうことです?」撮影された映像の内容を文章で描写する場合には、映像を見ている“外部”の人物の視点(もしくは客観視点)となるはずで、地の文にカメラマンが“私”として登場することは通常あり得ません。そのため上に引用した箇所だけみると、犯人・洞末新二の一人称による、“撮影された映像”ではなく“撮影中の現実”の描写であるようにも思えます(*3)。しかしその一方で、が、例えば「27 拷問刑具」の
物凄い勢いで、莓が振り返った。
「何をするも、どういうことも――ないでしょう。この〈魔庭〉猟奇連続殺人の真犯人がこの私、プロフォンド・ロッソの社長にして、『スラッシャー 廃園の殺人』の監督でもある、洞末新二だというだけのことじゃないですか」
そう説明すると私は、これまで撮影を続けていたカメラを止めた。「30 真犯人」より (231頁~232頁)
“影は、(中略)黒いマスクのため表情は分からないが、明らかに喜々とした様子で犠牲者を見下ろした。”(216頁)という描写などは、犯人である“影”(洞末新二)自身の視点によるものでないことは明らかです。
辻褄が合いそうなのは、“本編”の内容はやはり“撮影された映像”――完成した「スラッシャー 廃園の殺人」の映像で、それが鑑賞中の“私”こと洞末新二の視点で描写されている、という解釈です。つまり上の引用箇所の最後の一文、
“そう説明すると私は、これまで撮影を続けていたカメラを止めた。”は、画面の映像を描写してきた洞末新二が、映像に表れない状況を撮影の当事者の立場から補足したものと考えることができます。
そうだとすれば、映像を撮影しているカメラマン・洞末新二の存在を隠すトリックに、撮影された映像を描写する視点人物・洞末新二の存在を隠すトリック(一人称を三人称に偽装するトリック)が組み合わされ、二重の“人物の隠匿”トリックになっているとみることもできるように思います。
いずれにしても本書では、「幕間」で説明されている(234頁~235頁)ように“もう一人”の存在を示唆する伏線はあるものの、二つの前例とはまったく逆に“本編”が撮影された映像であることを明示しないまま物語が進んでいくわけで、“カメラマンの隠匿トリック”が前例を逆手に取った仕掛けによって巧妙に隠されているといえます。さらにいえば、前述のように犯人自身が堂々と登場していることや、スタッフの騎嶋がすでにメイキング映像の名目でカメラを回していること、あるいは「1 血祭り」が“七、八年前”
(38頁)の出来事だと誤認させられることなども、“カメラマンの隠匿トリック”から目をそらすミスディレクションとなっています。
もっとも、“本編”が映像である可能性がまったく浮かばないかといえばそうではなく、あくまでもどちらなのか判然としないという程度にとどまるため、少なくとも前例を知っている場合にはさほどのサプライズが生じない――まったく予想外というわけではない――のが少々残念なところではあります。
前例との大きな違いとしてはもう一つ、実際に殺人が起きているのも目を引くところです。二つの前例ではいずれも事件が“虚構”(いわば“作中劇”)であることが明示されているのですが、それは事件が(作中の)現実に起きたものだとした場合、“犯人であるカメラマンがなぜ撮影を続けるのか”、そして“撮影された映像がなぜ犯人から第三者の手に渡っているのか”という問題に対して、納得のいく説明をつけにくいからだと考えられます。その点に関して本書では、スナッフ・フィルムの撮影というとんでもない動機を用意することで、どちらの問題も解決しているのがうまいところです。
加えて、単なるカメラマンではなく監督でもあるという立場を利用し、一行を巧みに誘導してばらばらにすることで、連続殺人を可能としているのも見逃せません。読者には見えなくとも登場人物にとっては犯人の存在は明らかですから、実際に殺人が起きていることが発覚すれば直ちに真犯人が明らかになってしまうところですが、ほとんど最後まで真相を気取られることのないまま殺人と撮影を進めていく、手際のよさ(?)が見事です。
最後に残された城納莓(そしてその時点で生き残っているという粕谷恵利香)の行く末が気になるところですが、最終頁で「スラッシャー2 狂園の逃走」の発売が予告されているところをみると……。
*2: 「31 新たなる恐怖」には
“映像が”、
“カメラは”、
“画面が”といった記述がありますし、最後の「0 暗黒」では「スラッシャー2」の予告とクレジットが表示されています。
*3: 本文で後述していますが、二つの前例ではいずれも映像の中の事件が“虚構”だということもあって、“映像”(虚構の可能性あり)と見せかけて実は“現実”だったという仕掛けなのかとも思いました。これはこれでアリな気もしますが……。
2010.01.06読了