冬のスフィンクス/飛鳥部勝則
“夢”と“現実”とが次第に判然としなくなっていき、楯経介自身も“夢オチの夢オチの夢オチの夢オチが続いているような”
(201頁)と評する状況となるのは、この種の作品ではある意味定番といえますが、物語の発端――楯経介が団城美和と由香に亜久直人の失踪の経緯を語り始める「第一章」からして“夢”だったというのが何とも。それなりに意外ではあるものの、拍子抜けするような亜久の“失踪”の真相も相まって、“夢オチ感”が強くなってしまうのは否めません。
とはいえ、それでも本書では(最終的には)“夢”と“現実”とが厳然と隔てられているのが見逃せないところで、事件が夢の中で起きたことは最初からはっきり示されていますし、夢の中の手がかりによって解決されるわけですから、本書は決して夢オチとはいえないでしょう。そしてまた、“夢”と“現実”とがしっかり切り離されているという設定が、間島京子の“動機”につながっているところがよくできています。
“愛しい“探偵”に会うため”というその動機にはいくつかの前例(*1)があり、またとある伏線が作中に配置されている(*2)こともあって比較的見えやすくなっていると思いますが、それがフーダニットに関するミスディレクションとして使われている――京子が犯人だと読者をミスリードする仕掛けになっている――のが秀逸です。
京子は自らの思いを楯に告げるのと引き換えに事件の真相につながるヒントを残し、その“スフィンクスの謎”を解き明かした楯にはもはや夢の中の団城家を訪れる理由はなく、絵の中の京子は楯に別れを告げる――という美しくも哀しい結末は、実に見事といえるでしょう。
事件についてはまず、亜久が“捜査サイドが犯人を想定することにより、本来なら不在の犯人が、存在せざるを得なくなった。”
(301頁)と指摘している、“事件”と“犯人”の逆転の構図がなかなかユニーク。また、亜久の説明(210頁)とはやや違った意味合いながら、“作者イコール犯人”の図式にも当てはまるように思います。
亜久の“解決”では、切った首をアリバイトリックに利用するという首切りの理由が示されています。このトリックには前例(*3)がありますが、その実行に州ノ木正吾の奇怪な彫刻が使われているのがうまいところです。
最終的に解き明かされた真相は、いかにも怪しげな州ノ木正吾が犯人だったという、今ひとつ面白味を欠いたものではありますが、解決の決め手となったフランチェスコ・バルディーニの『最後の晩餐』の扱い――まさに“その時”しかイエスの顔の傷を目にする機会がなかった――がなかなか巧妙です。
*2: 前例をご存知の方はお分かりかと思いますが、作中で楯経介が(以下伏せ字)読んでいる本(200頁)(ここまで)が伏線となっています。
*3: すぐ思い出せるのは、海外作家(作家名)クリスチアナ・ブランド(ここまで)の長編(作品名)『ジェゼベルの死』(ここまで)。
2011.01.08読了