遠海事件/詠坂雄二
読者に対しては、佐藤誠が犯人であることが最初から明らかにされているだけに、“遠海事件”で容疑を免れる要因となったアリバイが興味を引くところですが、その“真相”は杜撰といえば杜撰ながら、ありふれた名前を逆手に取った“佐藤誠”ならではのものであるところがユニーク。しかもそれが、コラム「佐藤誠 その名と身分の透明性」で読者には早くから示唆されているところがよくできています。
とはいえそのアリバイは、水谷育がビデオ店から出てきた佐藤誠を目撃したという“証言”――それ自体は「おわりに」で否定されているものの――を突きつけられた佐藤誠が動揺しているところからみて、事実にほかならないと考えられるわけで、ありふれた名前を利用してアリバイ工作だったという余地を生じさせた逆説的な企みが何ともいえません。
“なぜ首を切断したのか?”の真相を隠蔽するための、86件もの殺人を告白した“大量殺人犯・佐藤誠”という壮大なミスディレクションはやはり強烈ですし、さらにそれを支える“実録犯罪小説”という体裁も非常に効果的。細かいところでいえば、“佐藤誠は後に、この時初めて恩師――蛎塚諒一の殺害を考えたのだと供述している。”
(35頁)といったあたりも、「はじめに」ですでに言及されている動機の“軽さ”を裏付ける記述であるようでいて、真相から読者の目をそらすミスディレクションとなっています。
首切りの理由が明かされるに至って、一見するとあまり関係ないように思われた(*1)少女売春までもが伏線となってくるところが巧妙。そして、“恩師とその娘を(些細な動機で)殺して首を切った血も涙もない犯人”から、“恩師の意を汲みつつその名誉を守るために首を切った人物”への、佐藤誠の人物像の反転が非常に秀逸です。
そして本編が終わった後の「おわりに」の最後の一行でさりげなく明かされる、まったく予想外の真相のインパクトが強烈。本編の中でも水谷育が佐藤誠に会いたがっているという事実が示されてはいるものの、“今、水谷の奴、弁護士になる為の勉強をしてんですよ。”
(246頁)及び“最短で七年、生きて待ってて下さいって伝言を頼まれました”
(247頁)という形で示される水谷育の“現在”をみれば、刑の執行に間に合わない可能性が高いと思われますし、「はじめに」などの執筆者とは結びつきにくくなっている感があります。
“ここの内規では、死刑囚への面会は、基本的に親族か弁護人にしか許可しない”
(246頁~247頁)という形で示された伏線、そして「巻末資料」の中でこれまた素っ気ないほどにさりげなく示された“結末”が、本書の主役である佐藤誠(そして意外な探偵役である詠坂雄二)の陰に隠されてきた“もう一人の主役”の存在を強く印象づけていますし、改めて「はじめに」などを読み返してみると抑制された文章の中に執筆者の“思い”が浮かび上がってくる(*2)ところが実に見事です。
2009.12.27読了