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死者は黄泉が得る/西澤保彦

1997年発表 講談社ノベルス(講談社)

 〈死後〉のパートに仕掛けられた、カットバックと思わせてそうではないという時系列の錯誤のトリックは、やはり非常に秀逸です。これを成立させているのはもちろん記憶のリセットによる人物の誤認ですが、さらに、“殺害”場面まで描かれていることで通常ならば時系列に沿って人数が減っていくのが当然なところ、死者の復活という設定により逆方向でも不自然さが感じられないのが見事です。そしてまた、〈死後 A〉で“最初のひとり”の謎(ひいては屋敷の謎)がクローズアップされていることが、ミスディレクションとして機能しているところも見逃せません。
 (“最初のひとり”の謎があくまでもミスディレクションにすぎず、屋敷の謎が明らかにならないままで終わってしまうのは、致し方ないところでしょうか)

 一方、エピローグの“最後の一撃”については、いくつかの疑問が生じます。

[疑問1]:〈エピローグ〉で、ジュディが登場しているのはなぜか?
 最後に残った“生ける屍”がジュディだということは、この部分が“神の視点”で書かれた地の文であることや、またその直前のウインストンの視点による描写(16年前の事件の際にウインストンが死体を確認した女性である)をみても、間違いなく真実でしょう。
 屋敷を訪れることなく死んだはずのジュディが“生ける屍”として復活している理由は作中では説明されていませんが、〈インタールード〉で示唆されているように墓を掘り返して連れてこられたと考えるのが妥当だと思われます。

[疑問2]:〈クロスオーヴァー I〉で、クリスティンが“私”を“ミシェル”と呼んだのはなぜか?
 〈エピローグ〉へと至る流れをみると、この“私”がジュディであることは確実です。そして、“あんたには、昔っから、ほんとにイライラさせられる”〈死後 F〉(つまり、クリスティンと“私”は長いつきあいである)という台詞から、クリスティンは“私”がジュディだということに気づいていながら、意図的にをついたことになります。これに関して説得力のある理由は示されていません。
 この時点でクリスティンの行動を支配しているのは憎悪と嫉妬であり、なじみの深いジュディに対してそれが最も強く表れた、というところまでは納得できます。しかしそれが、(自分の犯した)殺人の罪をかぶせるという形になるかといえば疑問ですし、ましてや、わざわざ“ミシェル”と呼びかける必要はないのではないでしょうか。
 なぜならば、“私”の記憶がリセットされることで、(現に“私”をミシェルに仕立て上げたように)クリスティンはいくらでも好きなように話をこしらえることができるからです。“ジュディ”が殺人犯だという嘘をでっち上げるまではいかなくとも、目の前の人物をあえて別の名前で呼ぶという不自然な行為を避けることは、十分に可能でしょう。
 結局、このクリスティンの行動は、ラストのサプライズのためのミスディレクションとしての意味しか持たない、実に不自然なものといわざるを得ません。

[疑問3]:〈死後 A〉で、誰がジュディなのか?
 前述のように、少なくとも〈クロスオーヴァー I〉以降の“私”はジュディだと考えられます。記憶のリセットがあるために、〈死後〉のパートにおける“私”がすべて同一人物とは限らないのですが、クリスティンは〈死後 B〉と〈クロスオーヴァーI〉の“私”は同一人物だと説明しています(“ジェシカとして。(中略)あなたから聞き出した”〈クロスオーヴァー I〉)。そして、〈死後 B〉の“私”は“お嬢ちゃん”というニックネームに合致します(“五人の中では一番の小娘”〈死後 B〉)から、〈死後 A〉で“お嬢ちゃん”と呼ばれているのがジュディだということになります。
 ここで問題なのは、死亡時の実年齢が若いミシェルをさしおいて、ジュディが“お嬢ちゃん”と呼ばれていることです。ジュディの容貌に関する描写は極端に少ない(“ストレートのブリュネットを腰の辺りまで伸ばして”“映画に出てくる魔女のような印象”〈生前 I〉という程度)のですが、“見かけの大人っぽさとは裏腹に、彼女の実際の年齢がそれよりもかなり低いことを表している”〈生前 2〉)と描写されたミシェルよりも若く見えるというのは、かなり釈然としないものがあります。

 ところで、前述のようにクリスティンは好きなように話をこしらえることができ、また実際に一つは嘘をついている(ジュディを“ミシェル”と呼んだこと)ことを考えると、彼女が真実を語っているという保証はありません。年齢の矛盾があるとすれば、ジュディが“お嬢ちゃん”ではないという可能性もないとはいえません。
 まず、ジュディよりも若いミシェルが“お嬢ちゃん”だったとすれば、ほとんどの問題は解消します。エピローグの文章は、“本物のミシェルがスザンヌ・セクストンとして“抹殺”されたというだけで、〈死後 A〉の時点で“お嬢ちゃん”と呼ばれていたとしても矛盾は生じません(この場合、〈死後 B〉までの“私”がミシェル、〈死後 B〉までの“スザンヌ・セクストン”と〈死後 C〉以降の“私”がジュディということになります)。しかし残念ながら、〈生前 6〉でバイクを乗り捨てたミシェルは“スザンヌ・セクストン”のIDを持ち出して身に着けたと思われるので、そのIDが他人(ジュディ)の手に渡ったとは考えにくく、そのままミシェルが“スザンヌ”と呼ばれていたと考えるのが妥当でしょう。
 次に、“お嬢ちゃん”がジュディでもミシェルでもなかった(ミシェルよりも若い別の女性が“お嬢ちゃん”だった)とすると、IDを所持しているメアリとスザンヌ、名前を名乗った(生きて屋敷を訪れた)ジェシカとサラはジュディではないと考えられますから、ジュディ=“ミス・スマイル”(〈死後 E〉まで)ということになります。前述の、ジュディの容貌に関する描写をみると、名前とは裏腹に実は東洋人系だった(日本に留学する予定だったわけですし)ということも考えられなくはないのですが……。

[疑問4]:〈エピローグ〉で、ジュディが自分をミシェルだと思い込んでいるのはなぜか?
 この時点ではすでにマーカスと顔を合わせているわけで、マーカスが気づかなかったとは考えにくく、自分がジュディだとわかっているのが自然ではないでしょうか。まあ、これは単なるミスだと思いますが。

2004.08.30再読了

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