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月明かりの闇/J.D.カー

Dark of the Moon/J.D.Carr

1967年発表 田口俊樹訳 ハヤカワ文庫HM5-17(早川書房)/(田口俊樹訳 (原書房))

 “足跡のない殺人”とは、被害者の遺体の周囲に犯人の足跡が見当たらないことをもって、“犯人が被害者を殺害するために近づくことができなかった”という不可能状況を演出するものですから、犯人が被害者に近づくことなく殺害したという真相では、密室殺人において“犯人が現場に入らなかった”場合と同様、犯人が乗り越えるべき“障壁”の一つが最初から無効化されているという意味で、やや物足りなく感じられてしまうのは否めないでしょう。

 それでも密室殺人の場合には、現場が(一応は)閉鎖されているために、外部からの犯行が困難にみえる場合が多いのですが、“足跡のない殺人”の場合には一般に現場が開放されており、凶器の出入りを妨げる障害物がないため、いわば外部からの犯行の難度が低い状況となります。というわけで、本書でのヘンリー・メイナード殺しのトリックそのものは、今ひとつ面白味に欠けるものといわざるを得ません*1

 とはいえ、海賊ナット・スキーンの不気味な伝説を物語に絡めることで、ヘンリーがトマホークで撲殺されたように演出してあるところは、ディクスン名義の某作品*2を思い起こさせる、接近しての犯行と見せかけるミスディレクションになっていますし、まったく異なるトリックによる*3百年前のルーク・メイナード殺しとの表面的な類似が、読者をミスリードするのに貢献しているのもうまいところ。また、アランによるダミーの解決(ハヤカワ文庫版290頁)――野球のボールを投げつけて殺した(苦笑)というのも、アッシュクロフト警部による“ぶつけられたあとは(中略)砂のように軟らかな地面に落ちるしかない”(ハヤカワ文庫版292頁)という指摘を引き出す形で、“遠距離からの犯行”の否定、すなわち真相の隠蔽につながっているのが巧妙です。

 しかしながら、本書におけるミステリとしての最大の見どころが、巧みな犯人の隠蔽にあることは間違いないでしょう。ハヤカワ文庫版の新保博久氏による解説でのヒント(?)*4を待つまでもなく、冒頭のマッジの愛人が事件の焦点であることは明らかなのですが、それが最後まで徹底的に伏せられている一方で、マッジとヘンリーの関係というそれ自体驚くべき秘密*5を介して、マッジの“年上趣味”に説得力を持たせているのが秀逸です。

 マッジとヘンリーの関係が明かされることで、急にピントが合ったように様々な事柄の意味がくっきりと見えてくるところもよくできていますが、それに中途半端に気づいたヴァレリーの意思表示――“海賊の亡霊”からのメッセージが、犯人によるものとミスリードされてしまうことで、真犯人の動機、ひいてはその正体が見えにくくなっているのもお見事です。

*1: ついでにいえば、ポプラ並木や旗竿とテラスとの位置関係がわかりにくいこともあって、フェル博士の解説(ハヤカワ文庫版475頁~479頁)を読んでもトリックを把握しづらいという難点が。
*2: 長編(以下伏せ字)『黒死荘の殺人』/『プレーグ・コートの殺人』(ここまで)
*3: 至極単純なものではありますが、死体より高い位置にあった海藻という手がかり(52頁)をもとにした解明は鮮やかです。
*4: “冒頭で娘が逢引していた男が誰なのか、読者に最後まで伏せておく必要がある”(ハヤカワ文庫版503頁)
*5: フェル博士のメンデルスゾーン!”(ハヤカワ文庫版165頁)という“気づき”には苦笑を禁じ得ませんが。

2000.04.02読了
2013.01.10再読了 (2013.05.10改稿)