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五つの箱の死/C.ディクスン

Death in Five Boxes/C.Dickson

1938年発表 西田政治訳 ハヤカワ・ミステリ320(早川書房)

 本書について巷間いわれるのが〈登場人物外の犯人〉という趣向*1ですが、巻頭の登場人物一覧にもその名前が挙げられ、また物語の中にも直接登場していることを考えると、この表現は不正確というかやや言葉足らずであるように思われます。

 実のところ、犯人は解決場面(231頁)以前にも登場しているとはいえ、その出番は「第八章 密封された箱」(88頁~100頁)に限られています。注目すべきは、この場面で犯人と顔を合わせているのがポラード巡査部長であって*2主人公のサンダース博士でも探偵役のH.Mでもないという点です。つまり、サンダース博士はもちろんのこと、“わしのところへ来たのは親の方のドレークで”(78頁)“彼がポラード部長に話したところによると”(235頁)などと語っているH.Mにしても、解決場面が犯人との初対面だったと考えられます。このように、〈主人公も探偵役も会ったことのない人物が犯人〉だというのが、本書の趣向だといえるのではないでしょうか。

 前述のように登場人物一覧に犯人の名前があり、また「第八章」のみとはいえ出番も用意されていることで、読者に対しては最低限のフェアプレイが保証されているとのエクスキューズにはなり得ていると思います。その一方で、サンダース博士ら登場人物にとっては、犯人はそれこそ“登場人物外”であり、そのために疑惑を向けるどころの話ではなくなっているのです。このように、登場人物(特に主人公)が犯人をまったく疑っていないことを利用して(その人物の視点を通して叙述を行うことで)、読者をミスリードしてしまうという仕掛けは、後のディクスン名義の長編(以下伏せ字)『貴婦人として死す』)(ここまで)に通じるものといえるでしょう。

 もっとも、その仕掛けが後の作品ほど成功しているかといえば、やはりそうとはいえないのが苦しいところです。おそらく読者のほとんどが想定できないという点では確かに意外な犯人ではあるものの、犯人としては例を見ないほどの存在感の薄さもあり、その人物が犯人であることを瞬時にある程度納得できるだけの伏線*3が欠けているために、読者が満足できるカタルシスを生じ得ないのです*4

 ただし、犯人指摘後にH.Mの口から語られる犯人特定の手がかりと手順は、後述するようになかなかよくできていると思います。また、あまりにも想定外のところから登場してくるせいで、逆説的に犯人が強く印象に残ってしまう*5という、独特のバカミス的味わいも見逃せません。

 一つもったいなく感じられるのが、解決場面で“ポラード部長やライト巡査には、ともすれば坐つてしまおうとする殺人犯人チャールズ・ドレーク弁護士をささえているのが苦労だつた。”(231頁)と、犯人の名前がいきなり地の文で書かれているところです。ここはやはり、サンダース博士ら事件関係者が口をそろえて“その人物は誰なのか?”とH.Mに尋ねる演出がほしかったところで、カーにしては珍しく演出不足の感があります。

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 毒薬のトリックについては、まず関係者の証言――とりわけシンクレア夫人がカクテルやハイボールを作った直後に味見していること、事件後にシェーカーから毒が検出されなかったこと、さらに誰も毒を入れる機会がなかったことがファーグソンの手記で裏付けられたことにより、念入りに不可能状況が構築されているところがよくできています。ただ、それらがいわば小出しにされていることにより、その不可能性が今ひとつはっきりしなくなっているのは否めません。

 というトリックの核心を見抜くには多少の知識が必要にも思える*6ので、若干アンフェア気味といえなくもないのですが、これは致し方ないところでしょう。シンクレア夫人による味見という難関をクリアできているのはうまいと思いますし、氷に毒を仕込む機会の有無によって犯人が特定されるところは非常に秀逸です。

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 “五つの箱”の中身とその意味が早い段階で明らかになってしまうのは残念ですが、ファーグソンの手記に記された“そこから室内へ忍び込んだが、二分間ほどすると再び姿を現して”(181頁)という行動から犯人の正体が浮かび上がってくるあたりは、まさしくH.Mの“この記述の行と行との間にその真相がひそんでいる”(183頁)という言葉通りで、よくできた傍証になっていると思います。

 “箱”の一つに記された“ジュディス・アダムス”という名前に込められたダジャレは、さすがにわかりにくく今ひとつといわざるを得ませんが、ヘイのひねくれたユーモア感覚がよく表れているといえるかもしれません。

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*1: 瀬戸川猛資『夜明けの睡魔』が初出のようですが、未確認。
*2: サンダース博士の視点で描かれていないパートが他にもある(「第十二章」「第十六章」「第十七章」)ことで、この「第八章」だけが浮き上がってみえることが防がれているのも巧妙なところです。
*3: ここでは、解決のための手がかりとは別の、“読者に真相を納得させるための示唆”を指しています。
*4: 拙文「ミステリにおける意外性」を参照。
*5: もちろん人によるかとは思いますが、私の場合はおそらくこの犯人を一生忘れることはないでしょう。
*6: カクテルはともかく、“甘味のハイボールには氷を入れなければ駄目なんだ。”(230頁)というのは一般的でないように思います。また、ハイボールと“ウイスキー・ソーダ水”(230頁)との違いが、今ひとつはっきりしないところではあります。

1999.10.16読了
2008.06.18再読了 (2008.07.13改稿)