ヘンリ・メリヴェール卿vol.1

カーター・ディクスン

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プレーグ・コートの殺人 The Plague Court Murders

ネタバレ感想1934年発表 (仁賀克雄訳 ハヤカワ文庫HM6-4)

[紹介]
 黒死病が流行した時代の絞刑吏ルイス・プレージにまつわる、不気味な伝説の残る邸〈プレーグ・コート〉。現在の住人たちに取り入った降霊術師ロジャー・ダーワースがたびたび降霊会を行い、幽霊屋敷と呼ばれるこの邸で事件は起こった。儀式のため、庭に建てられた石室に独りでこもったダーワースが、血の海に倒れた無惨な死体となって発見されたのだ。だが、石室の扉には鍵がかけられたまま、窓には鉄格子がはめられ、さらに雨でぬかるんだ周囲の地面には誰の足跡も残されていないという密室状況。そして死体のそばには、ルイス・プレージが使っていたという因縁の短剣が……。

[感想]
 本書は、カー名義のシリーズ探偵ギデオン・フェル博士と対をなす、ディクスン名義のシリーズ探偵ヘンリ・メリヴェール卿(H.M)が初めて登場した作品です。もっとも、そのH.Mが実際に読者の前に姿を現すのは物語も半ばを過ぎたところ「13 ホワイトホールの思い出」で、それまではH.Mの元部下である語り手ケンウッド・ブレイクとスコットランドヤードのマスターズ警部の二人が事件に臨むことになります。

 H.Mが登場するまでの前半部は、数あるカー作品の中でもその怪奇趣味が最もストレートに表れている*1といってよく、たびたび降霊会が繰り返される“幽霊屋敷”に、黒死病で命を落とした絞刑吏の不気味な呪詛と、序盤からおどろおどろしい雰囲気が全開です。そしてまた、怪しげな儀式を行っていた降霊術師が、誰も足を踏み入れることができない密室状況の石室の中で、因縁の“ルイス・プレージの短剣”でめった刺しにされて死んでしまう、という顛末も、見方によっては怪奇小説さながらの展開といえるでしょう。

 それに対して後半では、それまで構築されてきた怪奇がミステリらしく合理的に解体されていきます。つまり本書は、怪奇小説とミステリとを直列的につなげた形の怪奇ミステリととらえることができますし、後半になって満を持して登場するH.Mは事件を解決する探偵役であると同時に、怪奇小説としての文脈ではいわゆる“ゴーストハンター”*2に近い――後の「奇蹟を解く男」『パリから来た紳士』収録)のような“奇蹟を解く男”との位置づけといえる(少なくとも本書では)ように思われます。

 本書の怪奇/謎の中心となるのはもちろん強固な密室状況で、被害者と凶器が室内に存在するにもかかわらず、扉は施錠された上に窓には鉄格子がはめられて出入りが不可能、さらにぬかるみの上に足跡が残されていないという極めつけのもの。そしてそのトリックは、『ユダの窓』ほどではないにせよ)今となってはどこかで見たことのある状態かもしれませんが、それでも非常に秀逸――とりわけそれを成立させるための工夫は出色の出来で、私見ではカーが考案した数々のトリックの中でも最高峰の一つといっても過言ではありません。

 また、犯人の隠蔽についても(見方によってはやりすぎともいえるほど)よく考えられていて、ある程度見当をつけることは不可能ではないとしても、カーの企みを完全に見抜くことは容易ではないでしょう。主にそのあたりに関して、最後に明らかにされる事件の真相にはやや強引に感じられる部分もありますが、ある意味ではそれを逆手に取って印象に残る結末を用意してあるのもまた見事なところです。間違いなくカーの代表作の一つであり、必読の傑作といっていいのではないでしょうか。

*1: もちろん、怪奇趣味については『火刑法廷』が別格ではありますが、それがはっきり前面に出された度合いでは本書(の前半)に軍配が上がるように思われます。
*2: 今回再読するまですっかり忘れていたのですが、マスターズ警部が心霊術のイカサマを暴くのを道楽とし、“幽霊狩人{ゴーストハンター}のマスターズ”と紹介されている(13頁)のも興味深いところで、カーとしては当初、ディクスン名義の作品を(カー名義よりも)怪奇色の強いものにしようという思惑があったのかもしれません。

2000.01.22再読了
2010.03.11再読了 (2010.04.16改稿)

白い僧院の殺人 The White Priory Murders

ネタバレ感想 1934年発表 (厚木 淳訳 創元推理文庫119-03)
[創元推理文庫版『白い僧院の殺人』(山田維史)]

[紹介]
 ロンドン近郊の由緒ある建物〈白い僧院〉。その別館に泊まっていたハリウッドの人気女優マーシャ・テートが、ある朝死体となって発見された。他殺だということは明らかだったが、別館の周囲三十メートルに及ぶ地面は折から降り積もった雪で白く覆われ、事件が起こる前に降り止んでいたにもかかわらず、その上には発見者の足跡がただ一筋残されているだけだったのだ。マーシャを殺害した犯人は、一体どうやって別館から脱出することができたのか……?

[感想]
 『プレーグ・コートの殺人』『赤後家の殺人』と同様に歴史的な建物を舞台にしていながら、それらとは違って怪奇色がまったくなく、H.Mものの初期作品の中ではやや異色です。主人公であるH.Mの甥ジェームズ・ベネットや被害者となるハリウッドの女優マーシャ・テートなど、少なからぬ登場人物がアメリカ人であるところも異色といえるかもしれません。

 “毒入りチョコレート事件”という“軽い前フリ”もありますが、メインとなるのはもちろん“足跡のない殺人”です。死体発見時、主人公のベネットが雪の上に目にするのは第一発見者による“ただひと筋の足跡”(49頁)であり、しかもそれは“新しい足跡で(中略)ほんのちょっと前につけられたものだとわかった”(50頁)という具合であるにもかかわらず、被害者は“もう何時間も前に死んだのだ”(54頁)(ただし雪が降り止んだ後)という、シンプルにして強固な不可能状況が興味を引きます。

 作中でH.Mは、犯人が密室を構成する理由(動機)に着目し、“自殺への偽装”・“超自然現象への偽装”・“偶然”の三点を挙げています(202頁~203頁)が、本書の事件にはいずれも当てはまらないとしています*1。その中で“偶然”については、“一人の人物が雪に足跡をつけないということに、いったいどんな偶然があるのだ?”(203頁)という台詞があり、これが施錠による密室と違った“足跡のない殺人”の特徴を端的に表しているところに注目すべきでしょう。

 つまり、単に(痕跡を残すことなく)現場に出入りすることが困難であるというだけでなく、(一見すると)痕跡が残っていないという事実が“実際に出入りがなかった”ことの(ある程度の)裏付けとなってしまう*2わけで、状況がシンプルであればあるほどトリックを弄する余地が制限されることを考え合わせると、本書の謎の地味なすごさが浮かび上がってくるのではないでしょうか。

 そして、中島河太郎氏の解説によれば“江戸川乱歩が「カーの発明したトリックの内で最も優れたものの一つだ」と激賞している”とされるトリックは、古典的な作品だけに素朴に感じられる部分もないではないものの、盲点を巧みに突いた実に見事なものであることは確かで、“足跡のない殺人”を扱った代表的な作品とされるに足る鮮やかな切れ味を備えています。

 ただしそのトリックを成立させるために、そしてまた真相を隠蔽するために、プロットのあちらこちらに様々な無理が生じるとともに、いたずらに複雑化してしまっているという大きな難点があり、個人的にはあまり好きな作品ではありません。とはいえ、トリックの中心部分が非常によくできているのは確かで、やはり“足跡のない殺人”テーマの古典として一読の価値があるといえるでしょう。

*1: 本書に怪奇趣味が盛り込まれていないのは、密室が構成される理由を否定するというこの趣向のためだと考えられます。
*2: その意味では、施錠による密室よりも監視による密室に近いところがあるといえるかもしれません。

1999.12.23読了
2008.04.10再読了 (2008.04.27改稿)

赤後家の殺人 The Red Widow Murders

ネタバレ感想 1935年発表 (宇野利泰訳 創元推理文庫119-01)

[紹介]
 “いったい、部屋が人間を殺せるものかね?”――実業家アラン・マントリング卿の邸にあって、長らく封印されてきた一室、〈赤後家の間〉。フランス革命の血塗られた歴史を伝えるその部屋は、一人で長時間過ごすと必ず毒死するという恐るべき伝説に彩られていた。邸を取り壊す前に封印された部屋の謎を解こうと考えたマントリング卿は、トランプによるくじ引きで選ばれた人間が〈赤後家の間〉で2時間過ごすという試みを行う。かくして選ばれた男は、十五分ごとの外からの呼びかけにもしっかり返事をしていたはずが、とうの昔に毒死していたのが発見されて……。

[感想]
 H.Mものの第三長編となる本書ですが、ジョン・ゴーントが探偵役をつとめるディクスン名義の第一作『弓弦城殺人事件』の語り手、マイクル・テアレン博士が再登場している*1のが興味深いところです。作中、H.Mをして“あんたはワトソン役にぴたりですな。”(217頁)と言わしめているあたり、カーがH.Mとコンビを組むワトソン役を模索していたとも考えられます*2が、いずれにしても物語の発端は『弓弦城殺人事件』と同様、テアレン博士と友人のジョージ・アンストラザー卿によるカー好みの導入部――無味乾燥な日常における冒険への憧れ――となっています。

 題名の“赤後家”という見慣れない言葉はギロチンの異名のようですが*3、しかしギロチンそのものはまったく関係ないのが本書のややこしいところで、実際にはギロチンにちなんで名づけられた〈赤後家の間〉(もしくは〈後家部屋〉)という部屋を指しています。というわけで、本書の主役は部屋そのものといっても過言ではなく、一つの章を割いて説明される〈赤後家の間〉の来歴は後年の歴史ミステリに通じる魅力を備えていますし、その部屋で毒死が繰り返されることによって不気味な伝説が誕生する過程は雰囲気十分です。

 イーデン・フィルポッツ『灰色の部屋』(未読)を嚆矢とするらしい“部屋が人を殺す”という謎は、刺殺や撲殺といった人の手によることが明らかな事件とは違った(一見すると)原因不明の死を前提とするもので、怪奇色の強い演出で読者の興味を引くことができる反面、殺害手段がかなり限られてしまう(例えば本書のような毒殺など)という難点があります。さらにいえば、“犯人不在”という演出と殺害手段を考え合わせると(一応伏せ字)犯人が室内に入らなかった(ここまで)ことはまず確実といってよく、結果として謎やトリックの“幅”が狭くなってしまう――下手をすると同工異曲という印象を与えてしまう――きらいがあるように思われます。

 そのようなことを考えたのかどうかはわかりませんが、カーは本書で“部屋が人を殺す”という謎に“死者が返事をする”というもう一つの謎を組み合わせています。もちろん、被害者の死亡推定時刻が確かだとすれば別人が律儀に返事をしていた(苦笑)としか考えられず、単品としては面白味のある謎とはいえないのですが、それによって(一応伏せ字)犯人が室内に入った可能性が再び浮上し(ここまで)状況の不可解さが増しているのを見逃すべきではないでしょう。もっとも、事件発生後すぐに人の関与が明らかになることで、“部屋が人を殺す”という謎の演出効果が損なわれているのも否めないところではありますが。

 そのあたりも含めて、全体的にちぐはぐさが目立ってしまうのが残念なところです。メインの事件にしても、密室(誰にも犯行の機会がない)、アリバイ(誰も被害者の代わりに返事をする機会がない)、そして殺害手段(血液中に入らなければ効果がない――飲んでも無害な――毒が使われているにもかかわらず、死体に注射などの痕跡がない)と三重の不可能状況が仕掛けられているのですが、うまくかみ合わないものを無理やり寄せ集めたという印象は拭えませんし、それらが一つずつクローズアップされては解き明かされていくというプロットは、焦点が定まらずに迷走しているようにさえ受け取れます*4

 非常に秀逸な毒殺トリックなど、随所に見るべきところもあるのですが、全体としてはまとまりを欠いているのがもったいなく感じられます。もっとも、カーの作品にまとまりを期待するのがそもそも間違っている(苦笑)ような気もしますし、あれもこれもとやりすぎてしまうのはもはやカーの“味”ともいえますが……。

*1: “テアレン博士も、H・Mの高名はふたつの方面から聞いて知っていた。その一人は、友人のジョン・ゴーントだったが、そのうわさを話してくれたときは、まるで崇敬の的といった調子だった。”(37頁)と、少しだけゴーントにも言及されています。
*2: 結局はテアレン博士も本書でお役御免となり、次の『一角獣殺人事件』では『プレーグ・コートの殺人』のケンウッド・ブレイクが再登板しています。
*3: “最初はフランス語で、《シャンブル・ド・ラ・ヴーブ・ルージュ》といわれました。むろん、赤い後家――ギロチンの部屋の意味ですわ”(46頁~47頁)
*4: 当初の“部屋が人を殺す”という謎がすっかりどこかへ行ってしまうあたりに、迷走ぶりが端的に表れているといえるのではないでしょうか。

2008.11.21再読了 (2008.12.31改稿)

一角獣の殺人 The Unicorn Murders

ネタバレ感想 1935年発表 (田中潤司訳 創元推理文庫118-29/田中潤司訳『一角獣殺人事件』国書刊行会 世界探偵小説全集4)

[紹介]
 ライオンと一角獣が王位を狙って闘った”――パリで休暇を過ごしていたケンウッド・ブレイクは、英国情報部で同僚だった美女イヴリン・チェインとカフェテラスで再会し、彼女が口にした謎の言葉に興味を引かれたのがきっかけで事件に巻き込まれた。嵐の中、古城に集まった面々を待ち受けていたのは、正体不明の怪盗フラマンドによる犯行予告。そして一同の中には、フラマンドを狙うパリ警視庁の覆面探偵ガスケが潜んでいるらしい。果たして、謎の男がフラマンドの逮捕を宣言した後、目撃者の前で階段を転落して死んでしまう。その額には、鋭い角で突かれたかのような痕が……。

[感想]
 H.Mはディクスン名義の作品で探偵役をつとめ、『ユダの窓』では弁護人として法廷に立ったりもしているわけですが、もともとは陸軍省情報部の大物。というわけで、本書は(次作『パンチとジュディ』とともに)H.Mの本業(?)である情報部の仕事に絡んだ物語であり、やや毛色の変わったスパイ・スリラー風の発端となっています。

 とはいえそこはカーのことですから、スパイものの要素はロマンと冒険のバリエーションといった感じの扱いで、“ライオンと一角獣”という謎めいた言葉を口にする美女との出会いなど、『弓弦城殺人事件』冒頭の会話*1ほぼそのままなところが何ともいえません(苦笑)。さらにそこから始まる活劇場面も、スマートなアクションというよりカー名義の『盲目の理髪師』などに通じるドタバタ劇という印象が強く、異色といえどもやはりカーらしい作品ではあります。

 そして登場人物たちが一堂に会すると、今度は一転して探偵小説らしさが前面に出されるというめまぐるしさ。謎の“一角獣”を狙う正体不明の怪盗が登場するあたりは、本書の発表年代を考えてもいささか古めかしくはありますが*2、さらにフラマンドの逮捕を目論むパリ警視庁の主任警部ガスケまでが変装して紛れ込んでいるところなど、ある種パロディめいた状況ととらえることもできますし、“犯人探し”に加えて“探偵探し”の趣向が興味深い謎となっているのは確かです。

 舞台の古城は嵐によってクローズドサークルと化し、その中で不可能犯罪が起きるのはもはや“お約束”。しかしその不可能犯罪は、階段の途中という風変わりな現場での“視線の密室”で、挿入されている見取図をみても今ひとつ状況が把握しづらい*3上に、凶器がどのようなものか――至近距離での犯行か遠距離からなのかすらわからないこともあって、登場人物たちがどこにいたのかを調べていく過程がやや煩雑かつ冗長に感じられるきらいがあります。

 その中でついに明らかにされる、“一角獣の角”になぞらえられた奇妙な凶器の正体は、おそらく大半の読者が見当もつかないようなあまりにも特殊すぎるもの。しかも、犯人がわざわざそれを凶器として使った理由も特に説明がなく、結局は“一角獣”というお題へのこじつけでしかないわけで、“マザーグース・ミステリ”*4の一種だと考えればやむを得ない部分もあるかと思いますが、やはり微妙な印象が拭えません。

 とはいえ、いよいよ“誰がフラマンドなのか?”が焦点となる終盤は、さすがに見ごたえ十分。そこで披露されていく込み入った推理もさることながら、笑いと(多少の)緊張感をもたらすある種不条理な展開が物語を盛り上げています。何ともぬけぬけとした真相には苦笑を禁じ得ませんが、思いのほかしっかりと張られた伏線もなかなか巧妙で、多少の難点はあるものの、まずまず楽しめる作品といっていいのではないでしょうか。

*1: 語り手のマイクル・テヤレイン博士とジョージ・アンストラザー卿の“「(前略)マイクル、冒険ってどんなことだ? お芝居がかったやつかね? 黒貂の外套なんぞといういでたちの蒙古女がここに現れて、小声で言う。“ダイヤモンド六コ――真夜中に北の塔――オルロフに用心して”それから……」(中略)「そう、まあそんなことだよ」”(ハヤカワ文庫版『弓弦城殺人事件』10頁)というやり取り。なお、同じ二人が登場する『赤後家の殺人』の冒頭(創元推理文庫版12頁)でも、この会話が引き合いに出されています。
*2: もっとも、1952年発表の『赤い鎧戸のかげで』でもアイアン・チェスト(鉄箪笥)なる怪盗を登場させているカーとしては、“古めかしい”などといった感覚はなかったのかもしれません。
*3: 現場が階段であるため、水平方向だけでなく垂直方向の視野についても考える必要があり、見取図だけをみても“どこが見えてどこが見えなかったのか”がはっきりしません。
*4: 創元推理文庫版の山口雅也氏による解説を読むまで気づきませんでしたが、〈キッド・ピストルズ・シリーズ〉の作者らしいさすがの指摘です。

2000.03.01再読了
2010.01.03再読了 (2010.02.21改稿)

パンチとジュディ The Punch and Judy Murders

ネタバレ感想 (白須清美訳 ハヤカワ文庫HM6-13/村崎敏郎訳『パンチとジュデイ』ハヤカワ・ミステリ485)

[紹介]
 婚約者イヴリン・チェインとの結婚式を翌日に控えた元情報部部員ケンウッド・ブレイクは、かつての上司H.Mに強引に呼びつけられ、以前にスパイ容疑をかけられたことのある老ドイツ人ホウゲナウアの身辺を探ることになった。泥棒用具一式を手渡されて任務に赴こうとしたブレイクだったが、何かの手違いで早々に警察に捕まってしまい、何とか逃げ出してホウゲナウアの屋敷に忍び込んだものの、肝心の相手はストリキニーネを飲まされて死んでいたのだ。次々に陥る窮地を必死に乗り切ろうとするブレイク。事件の真相は? そしてブレイクは結婚式に間に合うのか……?

[感想]
 前作『一角獣殺人事件』に引き続いてH.Mの(元)部下のケンウッド・ブレイクが語り手をつとめ、前作でロマンスを実らせたイヴリン・チェインとの結婚式を翌日に控えたところから始まる本書は、事件の関連こそないものの『一角獣殺人事件』後日談的な一面を備えています。というわけで、本書より先にそちらを読んでおくことをおすすめしますが、いきなり本書を読んでも特に問題があるわけではありません。

 さて物語は、これまた前作と同様にスパイ・スリラー風の発端となっていますが、かなりの部分がブレイクの単独行動に割かれていることで、一段とスパイ小説寄りの雰囲気になっているのが大きな特徴といえます。と同時に、ブレイクが行く先々で休む間もなく大騒動*1に巻き込まれていくプロットは、さながらノンストップ・コメディといった様相を呈しており、展開の速さはカー作品の中で随一といっても過言ではないように思われます*2

 しかしながら、物語が進んでも事件の真相解明は一向に進展しない――どころか、そもそもどういう事件なのかがなかなか見えてこない、というのが本書のものすごいところ。スパイ疑惑に始まり、薬瓶のすり替え、奇妙な殺人、偽札事件に不条理な盗難、そしてもう一つの不可解な殺人といった具合に、次から次へと事件が飛び出してきますが、見せられるのはいわばバラバラの“枝葉”の部分だけで、“幹”を中心とする全体像は杳として知れません。

 語り手のブレイクが探偵役のH.Mから離れて行動する本書の構成は、一つにはブレイクの視点を通じて読者に“枝葉”の部分を次々と見せつけていくために採用されたのだと思われますが、その結果としてH.Mが柄にもなく(?)安楽椅子探偵に近い立場に収まっている*3のも非常に興味深いところで、珍しく不可能犯罪が扱われていない*4点も併せて、本書はH.Mものとしてはかなり特異な作品といえるでしょう。

 終盤、それまでのドタバタから一転して関係者への尋問が続くあたりは少々地味に感じられるきらいがありますが、その後に盛り込まれた推理合戦の中で五人の異なる“犯人”が名指しされていくのがなかなかの見どころ。“多重解決”というほどではありませんが、“真打ち”であるH.Mの解決の前に複雑な事件をある程度整理しておく手順として効果的ですし、それが一風変わった形で意外な真犯人が明らかにされる印象深い演出*5につながっているのが秀逸です。

 事件が決着した後には、何とも鮮やかで愉快な最後のオチまで用意されているのがまた見事。どこからどう見ても代表作とはいえない、数あるカー作品の中でも色々な意味で型破りな怪作なのは間違いありませんが、個人的にはかなり好みの部類に入る一作です。

*1: カー名義の『盲目の理髪師』にも匹敵するほどのドタバタ劇ですが、本書ではその渦中にあるのが主にブレイク一人であるために、『盲目の理髪師』よりもすっきりした印象になっています。
*2: ブレイクが翌日に結婚式を控えているためにタイムリミットサスペンスの要素が加わっていることも、展開の速さに拍車をかけている感があります。
*3: フェル博士は『盲目の理髪師』『アラビアンナイトの殺人』の二作で安楽椅子探偵をつとめていますが、H.Mものには安楽椅子探偵形式の作品はありません。
*4: 本書以外のH.Mものでは、『仮面荘の怪事件』『青ひげの花嫁』くらいでしょうか。
*5: ただしこれは、ある意味で好みの分かれるところかもしれません。

1999.11.06読了
2009.11.04再読了 (2009.11.28改稿)

孔雀の羽根 The Peacock Feather Murders

ネタバレ感想 1937年発表 (厚木 淳訳 創元推理文庫119-04)
[創元推理文庫版『孔雀の羽根』(山田維史)]

[紹介]
 七月三十一日午後五時、バーウィック・テラス四番地に、十客のティーカップが出現するでしょう。つつしんで警察のご出席を願いあげます――場所こそ違え、二年前と同じ内容の予告状を受け取った警察は、その空き家を厳重に監視していた。二年前には、ティーカップのみならず射殺された男の死体までが出現したのだ。そして今、空き家に一人の男が入っていき、やがて二発の銃声が鳴り響く。踏み込んだ刑事たちが目にしたのは、孔雀模様のテーブル掛けと十客のティーカップ、そして至近距離から撃たれた男の死体と凶器の拳銃だけで、犯人の姿はどこにもなかった……。

[感想]
 冒頭に示される謎めいた予告状。それは、二年前にマスターズ首席警部が苦汁をなめさせられた未解決事件の再来を暗示するものでした――というわけで、マスターズの意を受けて警察組織が動き出すところから始まる本書は、いきなりH.Mのドタバタが飛び出すということもなく、のっけからシリアスな雰囲気を漂わせています。

 冒頭だけでなく、ほぼ全編を通じて事件関係者よりも警察の側に焦点が当てられているのが本書の大きな特徴で、そのためにカーお得意のオカルト・ドタバタ・ロマンスといった要素はかなり控えめになっており、結果的にストーリーがやや起伏に乏しいという印象も受けます。しかし裏を返せば、終始事件の謎が物語の重要な位置を占めているという意味で、ミステリとしての“純度”が高い*1作品といえるかもしれません。

 そして、中心となる事件の謎は十分に魅力的。マスターズの口から要領よく説明される二年前の事件は、現場に置き去りにされた高価な十客のティーカップをはじめ、全体的にどこかちぐはぐな要素がちりばめられて不条理な様相を呈しています。さらに現在の事件では、警察の厳重な監視をあざ笑うかのように現場から犯人が鮮やかに消失してしまうという強烈な不可能状況が加わっており、物語を引っ張る謎として申し分ないものといえるでしょう。

 前述のようにストーリーは今ひとつ盛り上がりを欠いているのですが、特に事件関係者への事情聴取が中心となる中盤あたりは“動き”も少なく、被害者の周辺に浮かび上がってくる複雑な愛憎などが目を引くものの、少々退屈かつ冗長に感じられてしまいます。しかし、その中に配された「この章には、重要な記録が読者の前に提供される」という大胆不敵な章題*2から明らかなように、カーが本書で追求するフェアな謎解きのためには必要不可欠な部分であり、うかうかと読み飛ばすわけにはいきません。

 その後事件が再び動き出すと、まだ100頁ほど残っているにもかかわらずいきなりクライマックスに突入してしまうという、極端な構成には苦笑を禁じ得ないところですが、そのクライマックス――物語の実に三分の一近くを占める大ボリュームの“解決篇”は、次から次に飛び出してくる意外な事実、(『白い僧院の殺人』を引き合いに出しながらの)犯人が密室を構成する理由*3の検討、そして最後にH.Mが指摘する32個の手がかりが掲載頁を付記して一つ一つ指し示される“手がかり索引”の趣向など、見どころ満載です。

 しかして、最後に明らかにされる密室トリックは……個人的にはよく考えられているとも思うのですが、やりすぎな部分があるかと思えば“隙”も見受けられるなど、多少の突っ込みどころが目につくせいか人によって評価が分かれるようです。が、いずれにしてもカーの不可能犯罪へのこだわりが強く表れているのは事実で、よくも悪くもカーらしいトリックといえるのではないでしょうか。

*1: ほぼ全編が謎の解明に費やされているディクスン名義の次作『ユダの窓』は、本書の路線を推し進めたものとも考えられます。
*2: この作者から読者への“警告”が、後の『読者よ欺かるるなかれ』につながったのは間違いないところでしょう。
*3: 作中では、“わしは総括をした。殺人者が密室状況を作りだす手段は三つしかない、といったのだ。(中略)四番目の方法に思い当たった。”(295頁)とされていますが、内容からみて明らかに“理由”(または“動機”)の誤りです。翻訳ミスなのか、あるいは原文そのものが誤っているのか、定かではありませんが……。

1999.09.27読了
2009.02.28再読了 (2009.04.11改稿)

ユダの窓 The Judas Window

ネタバレ感想 1938年発表 (高沢 治訳 創元推理文庫118-38/砧 一郎訳 ハヤカワ文庫HM6-5)

[紹介]
 結婚の許しを請うために恋人の父親を訪ねたジム・アンズウェルは、すすめられた飲み物を口にした途端に意識を失ってしまう――意識を取り戻したジムの目に映ったのは、胸に一本の矢が刺さった恋人の父親の死体だった。しかし室内に犯人らしき人物の姿はなく、しかも部屋は内側から施錠された完全な密室だったのだ……。
 ……殺人容疑で起訴されたジムの無実を信じるH.Mは、法廷で困難な弁護に臨むことになった。密室の隠された扉、“ユダの窓”はどこにあるのか……?

[感想]
 ディクスン名義の代表作の一つですが、ユニークな密室トリックだけが(ミステリクイズ本などで紹介されて)知れ渡っている感があるのが残念。しかし、トリックを知らずに読む方が面白いのはもちろんだと思いますが、本書がトリック(だけ)を知っていてもなお十分に面白い作品であることは間違いありません。

 本書は、プロローグの「起こったかもしれないこと」、メインである「起こったと思われること」、そしてエピローグの「本当に起こったこと」から構成されており、それぞれのタイトルからもわかるように、一貫して“何が起こったか?”に焦点が当てられています。もちろん、“何が起こったか?”が明らかにされるのは一般的なミステリでも同様ですが、本書の場合には容疑者が逮捕された後の裁判の様子を描いた法廷劇というスタイルが採用されることで、作者の趣向はより徹底されることになります。

 「起こったと思われること」では、主人公のジムを被告人とした殺人事件の裁判が描かれています。ここでの争点は、“誰が被害者を殺害したのか”ではなく被告人が被害者を殺害したか否か”であるわけで、通常の犯人探し(フーダニット)とは一線を画しています。被告人側の弁護人であるH.Mは、“被告人が被害者を殺害した”という訴追者側*1のシンプルかつ強固なストーリーを覆すために、“何が起こったか?”――“実際には被害者がどのように殺害されたのか”を明らかにしていこうとします。つまり、本書はほぼ純粋なハウダニットとなっているのです。

 そしてハウダニットでありながら、トリックを知っていても面白い作品となっている所以は、解明の過程の魅力にあります。本書では、前述のハウダニットと並んで、“H.Mが事件の謎をどのように解明するのか”が大きな“謎”となっており、トリックだけを知っている場合には倒叙ミステリのような楽しみ方ができるでしょう。しかも、法廷が舞台となっていることで、様々な証拠から解釈を引き出し、それを積み重ねて説得力のある結論を導き出す解明の過程が、対立する側の反対尋問も交えながらじっくりと描かれることになっているのが見どころです。

 もちろん、純粋に密室ミステリとしても、本書は非常に優れた作品となっています。作者は本書に先立つ『白い僧院の殺人』において、犯人が密室を作る動機を大きく三つに分類しています*2が、本書で密室が構成された理由はジムに罪をかぶせるという、先の分類のいずれにも該当せず、なおかつ犯人にとってメリットが大きいものになっているところが秀逸です。そして密室トリックそのものも、若干の難もあるとはいえ(知らない人にとっては)意表を突いた鮮やかなものですし、“ユダの窓”というネーミングも実に印象的です。

 陪審員に与える影響も考慮してか、ジムを弁護するH.Mの法廷戦術は(いい意味で)けれん味たっぷりで、いつものドタバタ抜きでも楽しく読むことができます。そして、ついに法廷で“ユダの窓”の真相が明かされるクライマックスは、屈指の名場面というべきでしょう。最後のフーダニットがまるで付け足しのような扱いになっているのもまた、本書の印象を強めているように思います。幹となる密室殺人との関連が薄い枝葉の部分が少々煩雑になっている感もありますが、それでもやはり傑作であることは確かで、トリックだけ知っているという方も一度お読みになることをおすすめします。

 創元推理文庫版では、ハヤカワ文庫版での名台詞(?)“ガブリ、ガブリ。”が変更されているのが(やむを得ないとはいえ)少々残念ですが、全体的により読みやすくなっているのはもちろんのこと、巻頭のヒューム邸の見取図がハヤカワ文庫版の(一階の天井から上を取り除いた)斜視図から、捜査に当たったモットラム警部による註の付された平面図に変更されて、現場の様子がかなりわかりやすくなっています*3。また、瀬戸川猛資ら豪華メンバーがカーの魅力を語る座談会が巻末に付されているのも魅力です。

 なお、柄刀一がこの傑作に真正面から挑戦し、“現代版『ユダの窓』”というべき作品『fの魔弾』を発表しています。興味のある方はぜひそちらもお読みになってみてください。

*1: 日本でいうところの“検察側”にあたります。
*2: “第一に、自殺に偽装するという動機がある。”“第二に、幽霊に偽装する説がある。”(要するに、超自然的な不可能犯罪を演出するということでしょう)・“最後に、偶然ということがある。”(創元推理文庫版『白い僧院の殺人』202頁~203頁より)
*3: 個人的にはハヤカワ文庫版の斜視図も味があって捨てがたいのですが……。

2008.01.27再読了 (2008.02.06改稿)
2015.07.31創元推理文庫版読了 (2015.08.08一部改稿)

五つの箱の死 Death in Five Boxes

ネタバレ感想 1938年発表 (西田政治訳 ハヤカワ・ミステリ320)

[紹介]
 真夜中の帰宅途中、サンダース博士は助けを求める若い女性に呼び止められ、請われるままにその部屋に乗り込んだ。そこで目にしたのは、テーブルを囲んだまま動かない四人の男女。そのうち三人は毒入りのカクテルを飲んで意識不明、そして最後の一人は背中を刺されて死んでいたのだ――手当を受けて意識を回復した三人の話によれば、それぞれのグラスに毒を入れる機会はまったくなかったという。さらに、殺された被害者が弁護士事務所に預けていた謎の五つの箱が壊され、その中身が盗まれていた……。

[感想]
 数あるカー作品の中でも一、二を争う奇天烈な発端、本題であるはずの殺人を放り出したまま(?)進んでいくひねくれたプロット、そして意外性を狙いすぎるあまり読者を置き去りにしてしまった感のある素っ頓狂な真相と、初心者にはまったくおすすめできない*1独特の味わいに満ちた“迷作”です。

 まず、いきなり事件に巻き込まれたサンダース博士が目にする、“彼の最初の印象は何か蝋細工の人形か、剥製品を見ているようだつた。(中略)細長い卓子を囲んで四つの人形が思い思いの恰好で腰をおろしていた。”(15頁)という光景が実にシュール。テーブルを囲んだ四人のうち一人が刺殺され、残る三人が意識不明という事件そのものも不可解ですが、椅子に腰掛けたまま動かない四人の被害者というヴィジュアルのイメージはなかなか強烈です。

 しかも、生き残った三人のポケットやバッグにはそれぞれ奇妙な物品が残され、さらに被害者が弁護士に預けていた“五つの箱”の中身が盗まれた事件が発覚するに至って、事件の不可解性は最高潮に達します。誰にも飲み物に毒を入れる機会がなかったという不可能状況も盛り込まれてはいるものの、事件の何ともいえないわけのわからなさの前に影が薄くなっているのは、ご愛嬌というべきでしょうか。

 その謎を解くべき探偵役であるH.Mは、相変わらず無茶な登場場面で笑わせてくれた上に、“どうもわしは気乗りがしない。あまりおもしろくない事件だ”(79頁)と言い放ち*2、挙げ句にサンダース博士に乗せられて(?)探偵役にあるまじき行為に及んでしまうなど、物語をいい具合に引っかき回してその混沌とした様相を強調しています。

 殺人事件の真相解明が遅々として進まない一方で、“五つの箱”の中身とその意味が早い段階で明らかになってしまうのが、少々もったいないところではあります。が、物語の展開上致し方ない部分もありますし、そこから明らかにされていく事件の背景にもなかなか面白いところがあり、それ自体は必ずしも瑕疵とはいえないのではないでしょうか。

 問題なのはむしろ、最後の最後に用意されている犯人指摘の場面です。おそらくほとんどの読者が唖然とさせられることは間違いないと思われますが、残念ながらそこにはカタルシスが欠けており、狙いすぎた趣向が空回り気味に終わっているのは否めません。とはいえ、その後に語られる犯人特定の手順はよくできていると思いますし、何より犯人が指摘された瞬間の思わず途方に暮れてしまう感覚は本書ならではのもので、心の広い方にはぜひ一度体験していただきたいところです。

*1: ついでにいえば、読みにくい翻訳文も。
*2: マスターズ警部にも“これは少しあなたの専門からはずれているのです。”(85頁)と評されている始末です。

1999.10.16読了
2008.06.18再読了 (2008.07.13改稿)

読者よ欺かるるなかれ The Reader is Warned

ネタバレ感想 1939年発表 (宇野利泰訳 ハヤカワ文庫HM6-12/宇野利泰訳 ハヤカワ・ミステリ409)

[紹介]
 女性作家マイナ・コンスタブルが催した、読心術師ハーマン・ペニイクを囲んでのパーティ。招待客の心の中を次々と読み当てたペニイクは、さらにマイナの夫サムに向かって“晩餐の時刻まで生きていることはない”と恐るべき予言を放ったのだ。はたして晩餐の直前、客の目の前でサムは突如として倒れ、原因不明の死を遂げてしまった。捜査陣に対して、ペニイクは自分が念力で殺したと主張するが、さすがに逮捕できようはずもない。そして、不可解な事件の解決に乗り出したH.Mを前に、ペニイクは新たな殺人を予告する……。

[注意]
 ハヤカワ文庫版の泡坂妻夫氏による解説には、少々ネタバレ気味の箇所がありますので、本文を未読の方はご注意ください。

[感想]
 『The Reader is Warned』という原題もさることながら、そこに込められた作者から読者への挑戦的なメッセージを一層強調したかのような『読者よ欺かるるなかれ』という邦題が、何とも心憎い作品。題名からして“読者への挑戦”となっているようなもので、本格ミステリ(フェアプレイ)を愛する読者へのアピールは十分です。

 物語は全編を通じて、怪しげな心霊術師ハーマン・ペニイクを中心に動いていきます。登場するなり一風変わった言動で存在感を放ち、前作『五つの箱の死』に引き続いて語り手をつとめる病理学者サーンダーズ博士*1の心の中を言い当て、挙げ句の果てには邸の主サム・コンスタブルの死を大胆に予言するなど、序盤から完全に場をさらっていきます。このようなペニイクのトリックスターぶりが、本書の見どころの一つとなっていることは間違いないでしょう。

 そしてペニイクの予言の通りに起きる事件がまたくせもので、目撃者の目の前で誰も近づくことのないまま被害者は命を落とした上に、解剖しても死因さえ特定できない*2という、まったく人間業とは思えない“文字通りの不可能犯罪”となっています。そのせいで、本格ミステリである限りはあり得ないとわかっていても、(作中では“思念放射{テレフォース}”と名づけられた)念力による殺人というペニイクの主張が、妙に不気味なものに感じられるところがよくできています。

 殺人を犯したというペニイクの“自白”にもかかわらず、手段が証明できないために逮捕できないという逆説的な状況は、本書のオカルト要素(念力)が幽霊などとは違った人為的な(?)――主体(ペニイク)がはっきりしている――ものであることに起因していますが、さらにそれが巷の評判となって喜劇的な大騒動へとつながっていく展開*3が圧巻。このあたりの風呂敷の広げ方などは、カーの真骨頂というべきかもしれません。

 つかみどころがない事件ゆえに、(一部を除いて)手がかりらしい手がかりがなかなか見当たらないのが難しいところですが、それを補うかのように時おり挿入されている、原題そのままに“読者に一言警告しておく”という形を取ったサーンダーズ博士から読者に向けた注釈*4が実に秀逸です。作者と同等のメタ視点からの記述だけに、嘘は含まれていない(はず)ながらそのまま受け取るのもためらわれるところで、フェアプレイを指向しつつも読者を煙に巻く一筋縄ではいかない趣向といえるでしょう。

 クライマックスでの犯人の長広舌には少々辟易とさせられますが、そこで明らかになる巧妙なミスディレクションにはやはり脱帽。“不可能犯罪”を演出するトリックに(特に今となっては)難があるといわざるを得ないのは残念なところですが、それでもカーの騙しのテクニックを堪能できる佳作として、一読の価値があるのは確かです。

*1: 前作では“サンダース博士”と表記されています。
*2: 当然ながら、被害者の死因をめぐって(やや)専門的な議論が繰り広げられることになりますが、そこで語り手のサーンダーズ博士が病理学者であることがうまく生かされています。
*3: 類似のプロットの例として思い出したのが、都筑道夫「秘剣かいやぐら」『かげろう砂絵』収録)と泡坂妻夫「隼の贄」『ヨギ ガンジーの妖術』収録)――作者が作者だけに、どちらも本書を念頭に置いたものと考えていいのではないでしょうか――ですが、本書以前の作品では思い当たる例がありません。ご存知の方はご教示いただければ幸いです。
*4: 作中では明示されていませんが、本書はサーンダーズ博士による手記という体裁を取っていることになります。

2008.08.30再読了 (2008.09.19改稿)

かくして殺人へ And So to Murder

ネタバレ感想 1940年発表 (白須清美訳 新樹社)

[紹介]
 田舎司祭の娘モニカ・スタントンが、自身ではろくに知らない奔放な恋愛を大胆に描いた小説『欲望』。一躍ベストセラーとなったその小説の影響で故郷にいづらくなったモニカは、ロンドンに飛び出して映画の撮影所を訪ねる。探偵小説作家カートライトとの不愉快な出会いに動揺しつつも、何とか脚本家の仕事につくことになったモニカだったが、早々に何者かの仕掛けによって顔に硫酸を浴びせられかける羽目に。さらに相次いで届けられる脅迫状に狙撃事件と、自身では心当たりのないまま命を狙われ続けるモニカ。そして毒入り煙草の罠が……。

[感想]
 怪奇趣味や密室といったカー作品に対する一般的なイメージを覆すかのような、ラブコメ&サスペンス色が前面に出た異色作。実のところ、カー名義の『連続殺人事件』やディクスン名義の『爬虫類館の殺人』などの作品もそういった傾向ではあるのですが、本書では不可能犯罪らしい不可能犯罪が登場しないというだけでなく、カーにしては珍しく*1若い女性が主人公に据えられていることで、そのような印象がより強まっているように感じられます。

 モニカと探偵小説作家カートライトとの端から見れば喜劇的な反目が、紆余曲折を経てロマンスに転じていく展開は、前述の『連続殺人事件』『爬虫類館の殺人』と同様、カーお得意のものですが、本書ではその過程の心理が主人公のモニカ――女性の側からも描かれているため、より印象深いものになっています。加えて、当のモニカが再三にわたって何者かに命を狙われるという形で“恋人たち”が事件の当事者となっており、ミステリとしてのプロットとロマンスとがうまく組み合わされている感があります*2

 一方、一時期脚本家として映画制作にたずさわったというカー自身の体験が生かされた、映画撮影所という舞台も目を引くところですが、セットや小道具をうまく使った最初の硫酸の仕掛けを除けば、映画撮影所ならではの事件という風でもないのが少々残念*3。とはいえ、映画業界らしい(?)奇矯な人々の振る舞いは印象に残りますし、(戦時下らしく)スパイ疑惑につながるフィルムの盗難事件なども興味深いところです。そして、探偵役のH.Mが「映画に出演させろ」と言い出すのはもはやお約束(苦笑)

 前述のように目立った不可能犯罪もなく、全体的に事件が派手さを欠いているきらいはありますが、後半の毒入り煙草の事件にはトリッキーなところもあり、それなりに魅力的な謎となっています。ただし、長編のメインというにはいささか小粒にすぎるのは否めませんし、細かいことをいえばトリックにやや無理なところ――というよりも説明不足か?――があるように思われるので、少なくともカーらしい大トリックを期待する向きにはあまりおすすめできません

 本書の見どころはむしろ、霞流一氏による解説でも指摘されているように(一応伏せ字)“全編にまたがっている”仕掛け――プロットと結びついたトリック(ここまで)で、古典ゆえに今となってはどこかで目にしたことがあるようなものではあるものの、なかなか巧みなミスディレクションが光ります。総じて、ミステリとして傑出したところがあるとはいえないかもしれませんが、(これも肩透かしといえば肩透かしながら)愉快なオチまで含めて楽しく読める作品といえるでしょう。

*1: 少なくとも長編では、他にはカー名義の『皇帝のかぎ煙草入れ』くらいです。
*2: このあたりは、(コメディでこそないものの)カー名義の『テニスコートの殺人』などに近いところがあるかもしれません。
*3: もっとも、物語の中心人物であるモニカとカートライトが、どちらも撮影には直接関わらない脚本家である以上、これには致し方ない部分があるようにも思われます。

1999.12.10読了
2010.08.09再読了 (2010.11.08改稿)

九人と死で十人だ Nine―and Death Makes Ten

ネタバレ感想 1940年発表 (駒月雅子訳 国書刊行会 世界探偵小説全集26)

[紹介]
 ニューヨークから英国へ、ドイツ潜水艦の出没する大西洋を越えて、軍需物資を運ぶ極秘任務を帯びた商船エドワーディック号。危険な船旅に臨むわずか九人の乗客は、それぞれに事情を抱えているらしい。はたして出航数日後、。乗客の一人エステル・ジア・ベイ夫人が、自室で喉を切り裂かれて殺されているのが発見される。現場には犯人の血染めの指紋が残されていたが、驚くべきことにそれは船内の誰のものとも――乗組員はもちろんのこと、被害者を含めた九人の乗客全員から採取された指紋とも一致しなかったのだ。犯人は存在しないはずの十人目の乗客なのか……?

[感想]
 カー名義の『盲目の理髪師』と同様に航海中の船上での事件が扱われた作品ですが、凄まじいドタバタが展開される『盲目の理髪師』とは違って、こちらは第二次大戦下、しかも密かに軍需物資を積み込んでドイツ潜水艦“Uボート”の出没する海域*1を越える危険な旅だけあって、全編に重苦しい雰囲気が漂っています。

 出航直前に船内から時限爆弾が発見されるという事態もあり、船客たちも乗船早々に救命胴衣やガスマスクを着ける練習をさせられ、夜間には灯火管制が厳しく徹底されるなど、何ともものものしい状態。いつもは物語の雰囲気に関係なくドタバタを演じてくれるH.Mも、陸軍省情報部の大物という立場からその存在が極秘とされており、事件が発生するまで登場してくることはなく、ようやく登場してもドタバタは控えめとなっています。

 乗客たちもそれぞれにいわくありげで、ドイツのスパイが紛れ込んでいるという疑惑まで取り沙汰される中、ついに事件が起きます。カーにしては珍しく、犯行そのものは不可能犯罪でも何でもないのですが、一風変わった謎――現場に残された“犯人”の指紋が船内の誰のものとも一致しないという不可解な謎が盛り込まれており、原題の『Nine―and Death Makes Ten』が表しているように、“九人の乗客――それが〈死〉で十人になった”(意訳)という不条理な状況が生み出されているのが何ともいえません。

 ちなみに、初訳時(旗森真太郎訳 別冊宝石70号)の邦題『九人と死人で十人だ』は誤訳*2であったわけですが、今回改題された『九人と死で十人だ』という邦題も、原題の意味を十分に反映しきれていないように思われます。
 まず、『A   B   Cだ』という形である限り、“足し算”のニュアンスが消えないのが問題*3。そしてそれに引きずられ、“死”という言葉までが本来の意味ではなく、“死者”(死人)、もしくは“死神”(=犯人)を表しているように読めてしまう*4のが難しいところです。
 例えば、『九人死で十人だ』なら“足し算”ではなくなりますし、『九人が殺人で十人だ』とすれば語呂もよくなるかと思います。個人的には、事件発生後の状況――九人の乗客のうち一人が死に、八人が生き残っている――だけを取り出して八人と死人で十人だ』とするのが、事件の不条理さ(「8+1=10」)もわかりやすくなっていいように思うのですが……。

 いずれにしても、航海中の船上というクローズドサークルならではのユニークな謎となっているのは確かですし、脚注で専門書を示して指紋の偽造は不可能だと強調してあるのも周到です。ただし、その指紋の謎の解明になかなか進展がみられないせいもあってか、その後第二、第三の事件が続いていきながらも、後半は物語の焦点が少々ぼやけている感があるのが難点といえるかもしれません。

 とはいえ、最後に明らかになる真相はやはりよくできていて、まずまず意外な犯人もさることながら、犯人の目論見、ひいては“何が起こったのか”が大きな見どころとなっています。そしてその中核となるのは実に巧妙なトリックの使い方で、謎の構築と演出に関するカーの手腕が存分に発揮された作品といえるのではないでしょうか。

*1: 英題の方は、このあたりの状況を表した『Murder in the Submarine Zoneとなっています。ダグラス・G・グリーン『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』によれば、イギリスの出版社が“灯火管制下の船の上でくり広げられるミステリは売るための格好の材料だと考え”(同書288頁)という事情もあったようです。
*2: “「死人」 は 「九人」 の中に入っているのだから、「九人と死人で」 というのは間違いである。(中略)問題としたいのは、作者が折角タイトルにこめた作品のテーマを、「九人と死人で」 とすることによって、ごく当たり前の 「9+1=10」 という等式に変えてしまったことなのである。”「タイトルについて」「本棚の中の骸骨:藤原編集室通信」内)より)
*3: そもそも、原題は“Nine―and Death ……”であって“Nine and Death ……”ではないので、この“and”“と”と訳すのは誤りでしょう(どちらかといえば、“そして”といった意味だと思われます)。
*4: 乗客が九人だけだという前提を踏まえれば、『九人と犯人で十人だ』でも問題はないかもしれませんが、やはり“ごく当たり前の 「9+1=10」 という等式”であることには変わりません。

1999.12.25読了
2009.07.06再読了 (2009.07.19改稿)