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貴婦人として死す/C.ディクスン

She Died a Lady/C.Dickson

1943年発表 高沢 治訳 創元推理文庫118-40/(小倉多加志訳 ハヤカワ文庫HM6-3(早川書房))

 警察の捜査で露見すると作中でも明言されている(74頁~75頁)、後ろ向きに歩く陳腐な足跡トリックを堂々と使ってあるのが大胆ですが、それもルーク医師(とアレック)だけに見せるためのダミーの足跡であるがゆえのこと。というわけで、一旦つけたダミーの足跡を庭園用の地ならしローラー*1で消しながら、警察に調べられても大丈夫な足跡を残す、二段階の足跡トリックが非常に秀逸です。

 二度にわたって足跡を残すことによる、“事件”が発生した時刻の誤認こそがトリックのポイント……ですが、もちろんアリバイトリックではなく、断崖の突端という“出口のない密室”からの脱出トリックで、時刻を誤認させることによって、“密室”に時間差で生じる“出口”――“今は潮が差していて、七十フィート下の岩礁が頭だけ覗かせている。”(53頁)状態*2から、“満潮で、海面が三十フィートもせり上がっていまして”(124頁)と、水位が上昇した海面――の存在がしっかり隠蔽されており、実に巧妙といえるのではないでしょうか。

 この足跡トリックが、犯人ではなく被害者の側が仕掛けたトリックだということが、真相を見えにくくしている要因の一つであることは確かでしょう。その意味では、早い段階で凶器の拳銃の“移動”が発見されて、心中ではなく殺人事件だと早々に判明しているのが非常に効果的で、事件がいわゆる“足跡のない殺人”の様相を呈することによって、“犯人が現場に足跡を残さないトリック”だとミスリードされてしまうところがあると思います。

 もっとも、最終的な解決篇よりもだいぶ前の第13章から、リタとサリヴァンの駆け落ちの計画が示され、さらに崖の上が現場であることをH.Mが否定してみせる(195頁~196頁)*3という具合に、被害者側のトリックであることがほぼ露見した状態となるのですが、そこで本物のダイヤモンドが家に残されていたことが発覚(216頁)し、仮説が一旦は否定されているのがうまいところです。

 このように、“正しい解決”を大胆に示しておきながら、否定的な材料を持ち出して“誤った解決”であるかのように見せかける、謎解きの“寸止め”ともいえそうな手法が絶妙で、真相の一部分をあらかじめ読者に示しておくことによって、比較的複雑な真相であるにもかかわらず、最終的な解決篇がすっきりして鮮やかなものになる効果があります。

 それが顕著なのが終盤のルーク医師による解決で、犯人と名指ししたポール・フェラーズのアリバイで破綻することになるものの、限りなく真相に肉薄したその解決によって、真犯人以外はほぼ明らかになっているといっても過言ではありません。そのために、ルーク医師の手記に付け足されたフェラーズによる補足(276頁)での簡潔極まりない真犯人の指摘が、これ以上ないほど衝撃的なものになっています。

 そして、その“意外な犯人”を成立させている仕掛けの中心が、ルーク医師の手記という本書の形式そのものであることは、いうまでもないでしょう。真犯人――ルーク医師の息子であるトムは、その立場上――そして事件の顛末を記すという手記の性質上、手記の中でわざわざ言及されることが少なくなり、(存在感がないわけではないものの)さほど重要な人物とは考えにくくなっています。つまり、手記に込められた、トムを露ほども疑っていないルーク医師の主観に引きずられる形で、読者もまたトムに疑いを向けることが難しくなっている、巧妙な仕掛けといえるでしょう。

*1: 園丁のジョンソンが早くから、ウェインライト教授に盗まれたと主張してはいるものの、それが何なのか隠されているのが少々あざとく感じられますし、“彼は『幅』と言うべきところを『長さ』と言ってしまった”(267頁)(→長さ四フィートはあったんだが、あいつに盗まれたんだ。”(126頁))に至っては、さすがにいかがなものかと思いますが(苦笑)、ルーク医師による解決の少し前に、何ともさりげなく“盗まれた庭園用の地ならしローラー”(235頁)と明かしてあるのが、またいやらしいというか何というか。
*2: この部分、“潮が差していて”という表現では少々意味がわかりづらいようにも思われます。旧訳の“今はまた潮がさしてくる時分で”(ハヤカワ文庫版52頁)の方が、これから“潮がさしてくる”、すなわち潮が引いた状態であることがわかりやすいのではないでしょうか。
*3: もっとも、根拠となるのはルーク医師の証言だけなので、クラフト警視が考えるように(そして検死審問がそうなったように)、ルーク医師が心中の“後始末”をしたとすれば丸く収まって(?)しまうところがよくできています。

2000.01.30 ハヤカワ文庫版再読了
2008.05.08 ハヤカワ文庫版再読了 (2008.06.06改稿)
2016.03.08 創元推理文庫版読了 (2016.05.08一部改稿)