江上荒城猿鳥悲, 隔江便是屈原祠。 一千五百年間事, 只有灘聲似舊時。 |
楚城
江上 の荒城 猿鳥 悲し,
江 を隔 たば便 ち是 れ屈原 の祠 。
一千五百 年間 の事,
只だ灘聲 の舊時 に似たる 有り。
◎ 私感訳註:
※陸游:南宋の詩人。宣和七年(1125年)〜嘉定二年(1209年)。山陰 (現・浙江省紹興県)の人。字は務観。号して放翁。夔州通判、厳州権知事、軍器少監、礼部郎中兼実録院検討、宝謨閣待制などを歴任した。尤袤、楊万里、范成大とともに南宋四大家と称された。祖国を憂うる愛国詩人といわれるとともに、日常の生活をもこまやかに歌い上げた。
※楚城:楚の国の町。ここでは、帰州を指す。帰州は憂国の詩人・屈原の故里で、現・湖北省宜昌市秭(Zi3)帰県。
※江上荒城猿鳥悲:(長江)の畔の荒れ果てた町(=帰州)では、猿や鳥が悲しげ(に鳴いている)。 ・江上:(南方の)川の畔。川辺。ここでは長江の畔のこと。 ・荒城:荒れ果てた町(城市)。帰州を指す。
※隔江便是屈原祠:川を隔てたところが、すなわち、屈原の祠(ほこら)だ。 ・便是:つまり(…だ)。すなわちこれ。 ・屈原祠:屈原のほこら。帰州の東南4キロメートルのところ・帰郷沱には屈原の自宅があり、後世、そこが祠となったという。 ・屈原:戦国時代の楚国の名門(同姓、左徒)の出身。楚の懐王のとき三閭大夫に任じられるが、頃襄王((けいじゃうわう 〜紀元前263年)は、戦国時代の楚の王。姓は羋(び;Mi3)、氏は熊。諱は横。懐王の子。)のとき、忠言を以てするが讒言のため、職を解かれた上、都を逐出されて各地を流浪した。『史記』巻八十四に「屈原者,名平,楚之同姓也。爲楚懷王左徒。」とある。『楚辭』中の『漁父』に「屈原既放,游於江潭,行吟澤畔,顏色憔悴,形容枯槁。漁父見而問之,曰:「子非三閭大夫與?何故至於斯?…」(屈原 既に放たれて,江潭に游びて,澤畔を行吟す,顏色 憔悴して,形容 枯槁せり。漁父 見て 之に問ひて曰く:「子は三閭大夫に非ずやと?何の故に斯に至れると…)とある。その放浪の折り、多くの慷慨の詩篇辞賦を残した。やがて、秦が楚の都郢を攻めた時、屈原は汨羅(現・湖南長沙の北方)に身を投げて自殺した。時に、前278年の五月五日で、端午の節句の供え物(粽)は、屈原を悼んでのものともいう…。
※一千五百年間事:楚の懐王の時から現在(南宋二代目の孝宗の在位中、作者が帰州を通った時の1178年)までの間の一千五百年の間に出来事(があったが)。 ・一千五百年間:楚の懐王の時(在位:紀元前329年〜紀元前299年)から南宋二代目の孝宗の在位中(在位:1162年〜1189年)の現在(作者が帰州を通った時:1178年)までの間の概数。
※只有灘聲似舊時:ただ、早瀬のやかましい音だけが、昔のままのようである。 ・只有:ただ…だけが…だ。 ・灘聲:〔だんせい;tan1sheng1○○〕早瀬のやかましい音。 ・舊時:むかし。往時。
◎ 構成について
2019.8.7 8.8 |