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アルフィリオンと三人の姫君







 

 陽の射すことのない昏い森の小さな庵で、黒髪の娘は壜の中の蝦蟇(がま)たちを眺めていました。
 壜の中では数十の蝦蟇蛙が犇めきあい、互いを貪っていました。娘が餌をあたえなかったからです。べちゃべちゃと厭な音をたてて、大きな斑模様をした蝦蟇が別の蝦蟇に喰らいついています。
 虚ろに眺める娘は涙を流しています。
 最後に一匹の蝦蟇が残ると、娘は鈍鈍と壜の蓋をあけて、漿液に塗れた蝦蟇を取り出しました。そして、緋紋字の浮かぶ刃で蝦蟇を切り分けると、きつく目をとじてそれを口に入れました。吐き出したくなるのをじっと堪えて、娘はそれを呑み込みました。
 切り分けた蝦蟇をすべて呑み込んだあとも、娘は身じろぎもせず、涙を流しつづけていました。魔力足らずの娘が『北の森の魔女』で在り続けるには、先代の魔女から伝えられた、この蝦蟇の術を繰り返さなければならなかったのです。
 蝦蟇など喰らいたくはないのに。
 醜悪な蝦蟇から力を得る──醜悪な魔女。
 娘の目裏に淡い金色のやわらかな微笑みが浮かびました。
 娘は慄いたようにふるえ、声なき悲鳴をあげました。蝦蟇の術で得た力が身の裡でざわりと蠢くのがわかります。
 蝦蟇など喰らいたくはないのに。
 ──かれは、蝦蟇を喰らう魔女にも微笑むのだろうか。
 娘は嗚咽をあげて涙を流しました。蝦蟇の術を繰り返すあまり、自らが蝦蟇と化した魔女もあったという逸話を思い出したのです。ひとたび蝦蟇と化せば、醜い蝦蟇の姿のまま千年の時を生きると、古の書には記されていたのです。
 陽の射すことのない昏い森の小さな庵で、黒髪の娘はただ涙を流しつづけました。



 





 

 

 ただ、逢いたかったのだ──蛙の賢者フロッグ・クェック・ゲーロックの名で知られるアルフィリオン・ディアン・ブリューエルは人知れず涙を流した。

 

 ぼんやりと目が覚めると、頬の下の堅い感触に気がついた。身体の左半分が酷く痛んで熱をもっている。とっさに治癒の力をあつめようとして、身の裡のどこにも力を感じられないことに驚いた。
 ああ、そうだった──わたしの魔力は封じられている。
 もっとも容易いはずの蛙の姿に変わる術さえ使えない。アルラウネに封じられ、獄炎の術で左半身を焼かれたのだ。
 嗄れた唸り声が自分の口から漏れ、激痛が走った。喉もやられているらしい。
 痛い、苦しい、喉が乾く。
 あたたかな煉瓦色の記憶が脳裏を掠めた。
 リディア。あなたは今、どうしているだろう。

 

 遠くで、金属の軋む耳障りな音が聴こえる。
「ああ、これは酷い」
 聞き覚えのある、妙にのんびりとした声が耳に入った。唇になにかが触れる。
 ──水だ。
「飲めますか?」
 気がつくと、わたしは右手でそれを奪い取って、水を飲んでいた。それは、細長い飲み口のついた病人向けの水差しのようだった。喉にも火傷を負っているせいだろう、咽せて咳き込み、左半身に激痛が走る。
「ぐ……ああっ!」
「痛そうだなあ」
 間延びした声に腹が立って視線を向けると、燭台を手にした男の姿があった。
「本当は魔法で治すのは禁じられているんですがね。あなたの声が出ないと俺がつまらないので」
 男はそう言って、わたしの喉のあたりに掌をかざし、短い呪文を唱えた。すうっと痛みがひく。
「な……んのご用でしょう? 女王陛下の、侍従殿」
 わたしの問いかけに、男──女王の侍従として、わたしとリディアを案内した青年はのんびりと笑った。
「やっぱり蛙のときと同じ声なんだ」
 この青年には、東屋で蛙の姿のまま呟くのを見られている。
「女王陛下のご命令であなたの傷の手当に参ったのですよ、麗しのアルフィリオン」
「……手当?」
 アルラウネの意図が読めない。痛みを堪えて見上げると、青年が突然わたしの左手首をとった。ふたたび激痛が走り、焦げた指先がぼろぼろと崩れ落ちる。
「ああ、左腕と左脚はもう使い物になりそうもないなあ。さっくり切断するか魔法できれいに治すかですね。どちらにしますか?」
 わたしにそれを訊くのか。
「主従そろって……加虐趣味か」
 つい呟いてしまう。
「ふうん。どうやらさっくり切断して欲しいようですね?」
 にやりと笑う男らしい端正な貌を右眼だけで睨みつけた。
「放っておいてくれればいい」
 わたしの言葉に青年は大げさに首をかしげる。
「放っておけば死にますよ。まさか王城まではるばる殺されに来たんですか?」
 ──結局、そうだったのかも知れない。
「そもそも、どうしてここに来たんです? リディと辺境の村でしあわせに暮らしていればよかったのに。女王陛下といえども、蛙のあなたほど強くはないのでしょう?」
「リディ?」
 聞きとがめたわたしに、青年はくすりと笑った。
「俺とリディは幼なじみなんですよ。きれいになっていて、驚いた」
 青年に手をとられ、頬を染めていたリディアの姿が胸をよぎる。
「きみは……」
「もちろん、リディがフレディだったことも知っていますよ。気づかないふりをしましたが」
 そう言って、青年はわたしの左半身に掌をかざし、詠唱をはじめた。彼の掌が淡い光を帯びると、徐々に痛みがひいてゆく。
「あなたが死ぬと、リディが哀しみますからね」

 

 熱をもった顔の左側が刺すように痛む。殊に、左の眼と耳の損傷が酷く、頭の奥を絶えず鈍器で殴られつづけているように響いた。
 青年は頭部にだけは魔法を使わず、薬草をすりつぶした軟膏を塗り、布で手際よく巻いて去っていった。
 おそらくアルラウネの指示だろう。
 痛みを堪えて起き上がり、閉じ込められている場所を観察する。闇に慣れた眼に、ぼんやりと鉄格子が見えた。青年があらわれる前に聴こえた金属の軋む音は、鉄格子の扉を開ける音だったのだろう。他には、石づくりの堅い床、鉄格子をのぞく三面には剥き出しの石壁。家具はなく、部屋の片隅に大きめの壷がひとつあるだけだ。鉄格子の内にも外にも窓は見当たらない。鉄格子の向こうには細い通路があるだけで部屋はなく、あたりに人の気配は一切感じない。
 そこでわたしの意識は途切れた。

 

 痛い。喉が渇く。腹が減った。
 なぜ、わたしは蛙の姿でいなかったのだろう。ぼんやりと思う。
 蛙の姿ならば、痛みも乾きも空腹もないのに。
 闇の中、あたたかな煉瓦色の髪の娘が微笑む。けれど、淡い金色の髪の娘はけっして微笑まない。
 わたしが人の姿になっても、あの娘が微笑むことは、ない。

 

 朦朧とした意識の中で、ふいによい匂いが鼻をついた。うっすらと目をあけると、ぼんやりと灯りが見える。金属の軋む耳障りな音がして、侍従の青年の姿があらわれた。手に持った盆のうえには碗が載っていた。
「食べますか?」
 わたしはふいに起き上がり、青年から碗をひったくった。彼がくつくつと愉しげに笑うのが聴こえる。碗の中には粥が入っており、わたしはスプーンも使わずに碗を傾げて飲み込んだ。
「ふうん。麗しのアルフィリオンらしい食べっぷりですね」
 青年が皮肉まじりに言うのに、思わずぼそりと返した。
「元々、わたしは見かけ倒しのアルフィリオン、だからな」
 青年が小さく息を飲む。その隙に盆の上から水差しとコップを奪いとり、勝手に注いで一気に飲み干した。それだけでもう、息があがってしまう。青年の痛ましげな視線を感じて、わたしはうつむいた。
「なぜ、蛙の姿のままでいなかったんです?」
 顔の軟膏を手際よく替えながら、いつもののんびりとした調子で青年が問う。さいわい、酷い頭痛はおさまっていた。
「蛙の大賢者様なら、こんなに酷い傷を負うこともなかったのに」
 熱をもった火傷に、ひんやりとした軟膏は気持ちがいい。口調は皮肉だが、根は悪い青年ではないのかも知れない。
「……娘に逢いにきたんだ」
「えっ?」
 青年が訝しげな声をあげる。
「きみはわたしに訊いただろう。なぜここに来たのかと。わたしは……アルラウネに逢いたかったんだ」
 力なく呟くわたしの言葉を、青年は手当を続けながら、じっと聴いているようだった。
「あの娘はわたしのたったひとりの娘だ。はじめは、蛙のままでいようと思っていた。アルラウネがわたしを憎んでいるのはよくわかっていたから、赦されるはずのないことも、魔力を持たない、人の姿で逢うのが危険なことも承知していた。けれど、話をしているうちに……どうしても、人の姿に戻りたくなってしまった。アルラウネの嫌いな蛙ではなく、人の姿で──父として、娘に逢いたくなってしまった」
 わたしは大きく息を吐いた。治療を終えた青年が黙って立ち上がる。
「アルラウネには言わないでくれ」
 立ち去ろうとする青年の広い背に声をかけると、彼の肩がびくりと動いた。
「……愚かな蛙の言葉など伝えてさしあげませんよ。誰にもね」
 青年の声が、燭台の灯りがつくる深い闇に低く響いた。


To be continued
2010.08.22
Written by Mai. Shizaka


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