サイドカーとの出会い 


 サイドカーあるいは側車なる乗り物がこの世に存在することは子供のころから知っていました。1964年、16歳で正式に(?)免許を取得し市内を走り回るようになると、たまにサイドカーと出会うこともありました。それらのサイドカーは陸王、ハーレーなど大型のものが多く、常にゆっくりとした、いわゆる威風堂々とした走り方であり、私はさほど興味を抱くことはありませんでした。

 このころは日本のオートバイメーカーがグランプリで大活躍を始めたころで、特にホンダは1961年のマン島初制覇以後1966年の50t〜500ccの完全制覇に向けて疾風怒濤の勢いでした。

こんな時代でしたから、私は勿論ほとんどのオートバイ乗りはひたすら速く走ることに喜びを感じていました。このころの私のサイドカー観は,サイドカーとはただゆっくりと移動するだけのもの、というものでした。

 
筑波を走る旧型BMWサイドカー

1999.10.10
タイムトンネル

 

OHTA BMW GTU

 こんな私のサイドカー観を根底からひっくり返してくれたのが「オ−トバイ」誌1976年9月号の特集「サイドカー・スペシャル・太陸サイドカーのすべて」でした。この特集は1975年にデビューして間もないOHTA BMW GTUを中心に太陸モータースの太田政良氏が作る太陸サイドカー、GTU、GT、デラックス、スタンダードなどを紹介したものでしたが、とりわけ、「GTUのクルージング速度は180q/h」、「地上を走る乗り物でもっとも面白いのがサイドカーだ」という太田氏の言葉には今で言うところのカルチャーショックを受けました。

「サイドカースペシャル・太陸サイドカーのすべて」

月刊オートバイ1976.9

なお「太陸サイドカーのすべて」は現在日本二輪史研究会の国産サイドカー資料集Uで見ることが出来ます。興味のある方は気ままにトーク国産サイドカー資料集をごらんください。
また太田政良さんについては気ままにトークのこちらをごらんください。

 このころ私は腰を悪くして車でトバすことはやめ、スポーツ走行はオートバイに限定してCB250セニア、CB500Fと乗りついでヤマハTX750に乗ってましたが、主として安定性の問題から180q/hという高速はごく短時間だけ出すのがやっとでした。それがサイドカーを付けてだなんて・・・。

 またサイドカーの運転がとても難しいものであるらしいことにも興味を引かれました。
そして初めて見たレーシングニーラーの異様とさえ言えるカッコよさ。さらにはインタビューでの太田氏の話は逐一説得力のあるもので、サイドカーには私の知らない大きな魅力がある、と確信しました。

 この特集を読んで私のサイドカー観は一変し、いつかはサイドカーに乗って見たいと思うようになりましたが、それはあくまでも将来のことでした。

 そもそも自動車(シビック)とナナハンのほかにサイドカーなど持てるわけもありませんでしたが、それよりもこのころはソロのオートバイの運転が面白く、しばらくはオートバイを徹底的に乗り込んで見たいと思っていました。サイドカーに乗るのはソロのオートバイでベテランになってから、というのが当然であると深く信じていました。

 それはきっとこのころ読んだオートバイ雑誌 (モーターサイクリスト誌とオートバイ誌、そうそうモトライダー誌もありました) にそうしたことが書いてあって、私も同感だと思ったからだろうと思います。

 その後 「いつかはサイドカーを」 と思いながら結局サイドカーにたどり着くまでに大型だけでも7台を乗り継ぎました。1台当り平均3万qは走ってますから、我ながらよく走ったものだと思います。このころのソロでの経験は私にとって貴重なものとなりました。

 ところで、OHTA BMW GTUが実際に180q/hで巡航できたのか、という点ですが、当時のGTUの本車は67PSのR90Sですから、しかもノーマル18インチの後輪を16インチに換装していたわけですから、馬力の上でも回転数の上でも最高巡航速度は165q/h位だったのではないかと思います。クルージング180km/hというのはシャシー性能を言ったものだったのでしょう。

(註.上の解釈は2000年3月時点での私の解釈ですが、2001年10月現在、R100RS仕様のGTUに乗る方から実際に180km/hで巡航できたというご連絡を頂いております。) 

はじめて見たサイドカーの高速走行

 1979年秋,BMW R100Sで名神高速の関が原付近を京都に向けて120q/hくらいで走っていると、後方から何やら得体の知れない黒い物体が近づいてきました。(私はこのころなぜか常に後方に注意をはらいながら走っていました。実は今でも…) 
サイドカーだ!とすぐに思いました。その黒い物体はやがて私のR100Sを抜いていきました。

 それは大阪ナンバーの、私と同じR100Sに太陸のデラックス(と思われた)を付けたサイドカーで、ナビシートには子供用ヘルメットを被った小学3年生くらいの子供が乗っていました。

 初めて見るサイドカーの高速走行。

 その辺りは冬になると雪が降るという、かなり屈曲とアップダウンの多い高速ワインディングでしたが、側車の子供がドライバーと同じように、カーブに合わせて体を右に左に傾けながら130q/hほどで走るさまに私は見とれ、しばらく後ろについて走りました。見とれたと同時に、この子の母親がこの光景を目にしたら一体どう思うのだろうかとも思いましたが、これがサイドカーの高速走行を間近に見た最初であり、かつ偶然に見た最後です。

 サイドカー乗りというものは自分の本車と同じソロを見つけると特に張り切る性癖があるようですから、この時のドライバー氏と子供も特別に張り切って飛ばしてくれたものと思います。

 さらに3年後の1982年、ホンダCBXで東名の上郷SAに立ち寄ったところ、小学生低学年の書いた絵がたくさん展示してありました。絵のテーマはトヨタ自工の本拠地豊田市らしく「乗り物」で、子供が思いつくまま出来るだけたくさんの乗り物を書くというものでしたが、パトカー、消防車、トラック、スポーツカー…とある中に、かなり多くの子供がサイドカーを忘れずに書いてました。実際にはほとんど目にすることのないサイドカーですが、その存在は人々の脳裏に深く刻まれているという証左でしょう。
(豊田市には土橋にボクサーショップがありましたが)

いつかはサイドカーを、という思いを新たにパラレルシックスにムチを入れ黄昏の東名を東に向かいました。

   
公道最速(?)を誇っていた頃

1982年(34歳) 箱根長尾峠

ウルトラスポーツシックスのCBX

   

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