巡礼の道(その3)
 フランスではどこの街にも教会がある。それは、Cathedorale(大聖堂)であったりChapelle(礼拝堂)で
あったりするが、いずれにしても、宗教が人々の心の支えとして深く根付いているようだ。この点が日本と
フランスの違いの一つと言えよう。
 私は、フランス各地の大聖堂や礼拝堂を訪ねている内に、ある時、それぞれの教会が、点としてではなく
線として見えてきた。そして、それが遠く1500キロ先のスペイン北西部のサン・チャゴ・デ・コンポステーラ
へと続く、中世ヨーロッパの巡礼の道であることを知った時、少なからぬ興奮を覚えた。
  
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 CONQUE(コンク)

 
   【コンク全景・少し山道を歩いてみると、サンチャゴ・デ・コンポステーラまで1319kmという巡礼路の標識があった(右写真)】

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9月2日(土)朝9時、アヴィニオンを一路コンクへ、友人の運転するBMWで出発した。行程は約250km。
途中、フランスが誇るミヨー大橋を見た後、Rodezのカテドラルでとてつもなく大きなパイプオルガンに遭遇。
特に、友人ご夫妻は音楽家であるだけに感動ものだったようである。そして、予定通りの3時過ぎ、
遂に私が長年夢に描いていたコンクに到着した。コンクは【中世ヨーロッパの巡礼】に関心をもっている人なら
誰でも知っている、一度は訪れてみたい聖地である。

サント・フォワ修道院聖堂と《最後の審判》の飾られたタンパン〜ロマネスク美術の最高傑作のひとつ
聖女フォワの頭蓋骨を納める人像形の聖遺物箱(右写真)
フォワはコンクの西南アジャンの生まれで、4世紀初頭、12才の時に異教者によって
斬首された殉教者。985年頃に作られたこの像の頭部はローマ時代の黄金仮面を
再利用したもので、首から下は木心に鍍金、全身にちりばめられた宝石類は
後代の寄進者たちがはめこんだもの。高85cm
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290年ごろに生れたフォワは幼時洗礼をうけた敬虔な娘だったが、
12才の時に異教の祭儀に参加することをこばんでとらえられ、
鞭打たれ、火あぶりにされたあげく首をはねられて死んだ。
アジャンの修道院にひきとられた幼い殉教者のなきがらは
中世の時代に聖遺物としてあがめられるようになり、多くの参拝者をあつめた。
その噂をきいたコンクのひとりの修道士がアジャンの修道院にもぐりこんだのは
856年のことで、それから苦節10年かけて聖遺物の番人に地位を得た彼は
ある晩、夜陰にまぎれてフォワの遺骸を盗みだす。
コンクにも人をよびたいという虚仮の一念からの計画的犯行なのだが、
この時代、こと聖遺物にかんしては
なぜか盗んだもの勝ちだったので、罪にとわれることはなかった。
フォワの遺骸はいまもコンクにある。
【フランス ロマネスクを巡る旅】中村好文・木俣元一共著(P138〜140)より



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