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ベトナム北部400キロの旅

杉山武子

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文芸誌「海」第 51号所収(2000年9月1日発行)

機上にて
 ベトナムの首都ハノイ行きを決めたとき、なぜか私の脳裏に林芙美子の小説『浮雲』の一場面が蘇った。二十年ほど昔に読んだきりで、筋もあらかた忘れているのに、 ありありと強い印象を受けた部分を思い出したのだ。小説の舞台はベトナム南部のサイゴンに近い所だったはず。今回南部へは行かないが、私は道中のお供に『浮雲』 の新潮文庫版を携え、機上の人となった。

 大阪関西空港から香港へ飛び、そこでハノイ直行便に乗り換えるルートだ。ベトナムと聞くと私にはやはりベトナム戦争の印象が拭いがたい。一九六四年(昭和三九) 夏、日本は開催間近に迫った東京オリンピックで沸き返っていた。私は高校進学に備えて、ラジオの深夜放送を聞き流すのが日課のようになっていた。ある夏の夜、アメ リカの駆逐艦がトンキンワン(湾)で北ベトナム魚雷艇に攻撃され、その仕返しに米軍機が北ベトナム海軍基地を爆撃した、というニュースを耳にした。

 進学してノホホンと高校生活を送っていた私は、ただ「トンキンワン」という面白い響きの名前が印象に残っていたくらいで、それがベトナム戦争の始まりなどという 認識は皆無だった。周囲も大方そうだったと思う。翌年からラジオの深夜ニュースやNHKテレビのニュースで、さかんに米軍がベトコン(南ベトナム民族解放戦線)を 攻撃した、と流されるようになった。今考えても、当時のニュースのキーワードは「ベトコン」と「北爆」で、アナウンサーの口調も、米軍が共産ゲリラのベトコンに爆 弾の雨を降らせて徹底的にやっつけている、正義の戦い、といったもので、無知な私はそのまま受け止め信じていたものだ。

 楽しい高校生活の三年間、北爆はずっと続いていたが、私にとってそれは遠い国の、よその出来事でしかなかった。短大に進学して間もなくの一九六八年(昭和四三) 六月、九州大学構内に米軍のジェット戦闘機ファントムが墜落炎上。ベトナム帰りとわかって大騒ぎになった。当時全国に広がっていた大学紛争の火種が、九大には文字 通り空から火の玉になって降ってきたのだ。九大には中・高校時代の友人が数人いて、誘われてデモ行進を見に行ったりした。べ平連が反戦活動をしていたのもこの頃だ。  私の通うのは女子大で大学紛争には縁遠かったが、同級生の一人からホー・チ・ミンの話を聞かされ、ベトナム戦争について討論になったとき、私は何も知らないこと を知らされた。結局何一つ自分の意見を持たず、言えず、恥じ入ったことを思い出す。

 ずっと後になって、トンキン湾事件そのものが謀略であり、ベトナム戦争がベトナム人の独立をかけた戦いであったこと等理解するにいたって、私はテレビや新聞で流 されるニュースが、ある一方の立場や見方に立って報道されていること、決して鵜呑みにしてはならないこと等、苦く学んだ。同時に私は、中学生の頃母親に、なぜ戦争 (太平洋戦争)に反対しなかったのかと厳しくつめよって、みんながそうだったからと答えた母にいたく失望したことがあったが、あの時の母とたいして違わない自分を 発見して、愕然としたものだ。大学2年の時、ホー・チ・ミンが亡くなり級友は泣いていた…。

 キャセイ機は台湾上空にさしかかり、雲の合間から南北に延びる山脈が眼下に見える。短大を卒業した私は九州大学に職を得て、農学部のある研究室勤務となった。そ の教室には南ベトナムの留学生Tさんがいた。ベトナム戦争最中のことでもあり、南ベトナム出身ということ以外は何となく聞きづらかった。兄弟が何人か戦死している らしいと噂で聞きもした。ベトナムの戦況が激化するにつれ、Tさんの表情も険しくなった。

 しかし一九七三年(昭和四八)、パリでベトナム和平協定が調印されたころから、ベトナム情勢は我が教室の一番の話題となった。米軍の北爆開始から十年後の一九七 五年四月三十日、ついに解放戦線軍がサイゴンへ無血入城したというニュースを聞くと、Tさんを囲んで若手の教官や大学院生たちで教室はわき返り、万歳をくり返して 全員でベトナム戦争終結を喜んだものだ。あれからすでに二十五年も経つ。新生首都ハノイは、今一体どんな顔をしているのだろうか。

 香港空港でハノイ行へ乗り換え、機内でベトナム出入国カードや税関申告書等、いくつかの書類を書き込む。ベトナム入国にはビザも必要だ。中央の通路を挟んで左右 3席ずつのジェット機だったが、ほぼ満席の機内は思ったより欧米人が多く、日本人は十人程度だろうか。隣に乗り合わせたご夫婦は日本人で、よく日焼けした顔のご主 人は、ハノイ近くでゼネコン関係の会社をしておられるとのこと。ベトナムはやはり社会主義国だから、あまり儲けさせてくれなくてね、もう手を引こうと思っている。 それに華僑の方が商売のやり方が数段上で太刀打ちできないと、関西訛りで話された。けれどベトナムが大好きで月一回は来ている、と笑顔でおっしゃる。

 一時間半ほどで飛行機は高度を下げ始めた。中国最南部からベトナム北部とおぼしきあたりにさしかかると、山あいの所々に棚田の美しい曲線が見える。高度が下がる につれ平地となり、緑は濃く輝き、どこまでも水田が広がる。ゆるやかに蛇行して光る川。白く照り返す湖沼。豊かな農村地帯だ。点々と連なる赤煉瓦の農家集落を一跨 ぎにして、ハノイ郊外のノイ・バイ空港着。

 初めて足を下ろすインドシナ半島だ。やはりアジアは近い。アメリカ行きの半分以下の時間で着き、しかも時差は二時間。ノイ・バイ空港は二階建ての平べったい小さ なビルがあるだけで、設備も作りもいたってシンプルだ。空港の一角には建設途中の大きな建物もあったが、数年前からその状態だとか。関西空港で預けたスーツケース を受け取り、入国手続きを済ませて外へ出る。日差しが強烈だ。スコールの後らしく、地面に残った水たまりからムッと湿気が立ちこめる。ベトナムの七月は、雨期の真 っ最中なのだ。

バイクの洪水を見る
 荷物の検査を済ませて外へ出ると、出迎えの人々でいっぱい。日本人の名前を書いた紙を持って、待ちかまえている人を四〜五人見かけた。私は人垣の間に夫を見つけ てほっとする。彼はあるプロジェクトの関係で、三週間前からハノイで仕事をしているのだ。料金が公正な空港タクシーでひとまず投宿先のメリタス・ウエストレイク・ハノイ ホテルへ向かう。空港にはメーターのない白タクも多いから、不用意に乗るとボラれるという。旅行者はどこでもいいカモなのだ。

 ハノイの交通事情を聞いていたので、驚くよりも緊張した。空港から二十分ほどは高速道路を走る。ベトナムは右側通行。片側二車線は日本とあまり変わらないが、中 央線は白線をひいてあるだけで、タクシーや他の自動車はほとんどこの中央線側、日本でいえば追い越し車線側を走る。しかし日本と違うのは、高速道路にも車の二、三 十倍の数のバイクが、道路の真ん中というより、道いっぱいに広がって走っているのだ。

 速いバイクは遅いバイクを蹴散らすように、ビービー警笛を鳴らしながら追い越し、それを車が後ろから猛烈にクラクションを鳴らしながら、道を空けさせて追い越す。 その車を後ろから追いついた車が、クラクションを鳴らしたり、パッシングしたり、左側のウィンカーをチカチカ合図して道を空けさせ、追い越す。前の車は道を空ける ために、さらにクラクションを連発して右に寄せ、バイクの列に割り込む。前の車がなかなか道を空けないと、後ろの車は何と中央線から大きく左の反対車線へはみ出し て追い越しをかける。もちろん前方から車やバイクが来ている。それでも追い越し、ギリギリの所で元の車線に戻る。運転手は平気だが、乗客の私はスリル満点、肝は冷 えっぱなしだ。

 高速を降りて市街地に入るともっとスゴイの一言。自動車はまだまだ少数で、バイクが道路を席巻している。車一台の回りにバイク三十台、自転車二十台位の、スピー ドの違うものが全部一緒に道いっぱいに走っている。狭い道でも自転車や遅いバイクの横を速いバイクがすり抜け、大まかに右側通行になってはいても、対向車とぶつか らなければいいでしょう、と言わんばかりに、すれ違う寸前までお互い道の真ん中を走るから恐れ入る。

 交差点も信号がないのが当たり前。互いに手信号や減速で、目配せと阿吽(あうん)の呼吸で一斉に交差していく様を見たときは、信じられない光景だった。信号がな いから、どの道もバイクと自転車の流れはさながら川のように止まることを知らず、その光景は交差点といえど途切れることなく続いている。見ている方は冷や汗が出る が、不思議と事故はないらしい。ベトナムの人に言わせれば、無秩序の中にも秩序があるのだとか。私はふと渋谷のハチ公前交差点を思い出した。あの人の流れをバイク と自転車、シクロそれに車に置き換え、それが入れ混じって四六時中、タテヨコ斜めに交差する様を思い浮かべたらよい。それがベトナム式交差点の様相だ。

 事故が少ないとはいえ、このバイクの洪水状態ではいずれ阿吽(あうん)の交通ルールにも限界が来るだろう。しかし日本のように厳しい交通ルールがあっても、交通 事故が一向に減らないという現実もある。市の中心部交差点に数カ所信号が設置されていたが、この二、三年のことらしい。通常横断歩道や信号がないので、歩行者は渡 りたい所で、道が広かろうと、どんなにバイクや車が通っていようと平気で横断する(高速道路でも!)。

 若い人は上手だが、お年寄りは早い流れを横断できなくて、立ち往生状態の気の毒な場面を何度か目にした。私も旧市街のせいぜい五メートルほどの道路を渡るのに、 突進してくるバイクが怖くてなかなかタイミングが掴めなかった。夫の話では今までにも何度か、今回のベトナム訪問でも交通事故を目撃した経験があるという。ある事 故現場を直後に通った時など、まだ警察も来ていなくて犠牲者から血が流れているのに、もう線香が立っていて、その手際の良さに驚いたという。

 洪水のごとく道路を席巻して走るバイクと、それを蹴散らすよう絶えずクラクションを鳴らす、少数派の乗用車やバスやトラック。そうめん流しのように、一日中ハノ イ市の道路はバイクと自転車と喧噪を流し続け、止むことはない。

  千年の都ハノイ
 二日目と三日目は、ベトナム訪問中の福岡県O町先進農家の一行に加えてもらい、案内役のベトナム駐在中のTさん、日本語ガイドのハイさんとともにマイクロバスで 行動を共にした。

 ベトナムの首都ハノイは人口三00万人。ハ・ノイを漢字で表記すると「河内」となり、文字通りホン川(紅河)のデルタの中に位置する。十一世紀に李朝の首都タン ロン(昇龍)が置かれて以来、政治・文化の中心として栄えた古都、千年の都だ。市内に大小の湖が点在し、街路樹は途切れることなく涼しい木陰を落としている。

 ハノイ市の中心部といってもそれほど広くはなく、一日あれば十分観光できる。ガイドのハイさんによればベトナム一の大都市人口五五0万人のホーチミン市と比較す ると、ハノイ市は、緑が多い、湖水が多い、四季がある、物売りが少なく安全と、四つの特徴があるそうだ。先にホーチミン市の観光をしてこられたO町の皆さんの話で は、とにかく観光客への物売りが多くてしつこく、同じ集団が三日間つきまとい、最後は空港までバイクで追ってきたが、こちらも意地になって買わなかったと話される。 子供の売り子も多いので同情心からつい買ってしまうと、たちまちその十倍くらいの子供たちに囲まれることも珍しくない。半端な同情心なら持たない方がよいと、大い に悔やむ結果になるのだ。目をキラキラさせ、相手が根負けして買うまで笑顔で迫るベトナムの子供たちは、自分の才覚でしたたかに生きているのだ。

 カンカン照りの中を、先ずホーチミン廟へ赴く。一九七五年建造の大理石造りの重厚な廟が、広大なバーディン広場を従え、東を向いてそそり立っている。蓮の形をか たどった内部にはホー・チ・ミンの遺体が永久保存されているというが、あいにく休みの金曜日に当たってしまい、私たちは中を見ることはできなかった。普段なら全国 から集まった人々で、早朝から数百メートルの行列が入場待ちをしているとのことだ。内部は私語・写真撮影禁止という。毎年九月二日の独立記念日には、この広場で大 がかりな行進があるという。

 広場をはさんで廟の向かい側に白い近代的な国会議事堂、北側の林の中には歴史を感じさせる赤煉瓦のベトナム共産党本部がたたずむ。廟の裏手は植物園になっており、ホー・チ・ミンが晩年を過ごした簡素堅牢な旧宅、十一世紀建造のベトナム最古の木造建築一柱寺、ホーチミン博物館など、歩いて一巡りできる場所に集まっている。さ らに私たちは十五〜十八世紀の科挙合格者の履歴を彫った石碑群の残る文廟や民族美術館、歴史博物館、軍事博物館などを見て回った。どの建物も展示物の規模も大きいとは言えないが、戦争による破壊状態が長く続いた事情から、観光客を呼べるようここまで整備するには大変なことだったろうと思われた。

 軍事博物館はベトナムで戦われたフランスとアメリカとの戦争を、実物の武器や道具、模型、写真などを使って展示し、開設している。正面前庭には実物のソ連製のミ グ戦闘機や戦車が展示され、中庭には撃墜された米軍のファントム戦闘機やミサイルの残骸が、無残な鉄屑やジュラルミンの塊となって晒されている。ガイドのハイさん は、ベトナム戦争終盤では多くの女性兵士が前線で戦ったと、写真パネルの前で説明した。戦闘の合間に彼女らは田植えや収穫を手伝って、食糧生産にも貢献していたと いう。

 ベトナムの場合軍隊の人数を正確に出すのは、極めて難しいとハイさんは言う。なぜなら中国との千年以上にわたる戦いも含め、常に外国の侵略者と戦わざるを得なか ったので、ベトナムの人々は軍人ではなくとも、戦争が始まれば男性は即兵士となって戦いに赴いたので、その全体数字を把握できないからだと。またハイさんは、外国 との戦争は何度も経験したが、ベトナムでは国内で民族の違いや宗教の違いで戦争したことはないと、胸を張った。

 ベトナムの朝は早い。五時にはもう人々は活動を開始している。昼間は暑くてとても仕事にならないという事情もあるが、とにかく早朝から人々がエネルギッシュに動 き回っている。マーケットや商店をのぞくとほとんど女性の姿ばかりが目につく。長い長い戦争の歴史の裏で、ベトナムの女性たちは常に田畑を守り、子供を育て、生活 の一切を担ってきたのだろう。この伝統の故か、ベトナムの女性は実に辛抱強くよく働く。道ばたでも、自分で作った野菜や果物、日用品など何でも並べて、堂々と売っ ている。独立自営の精神だろう。ハノイ市内でも天秤棒にたくさんの商品(農産物など)を下げて道路を横断したり、数十キロもありそうな荷物を、自転車の後ろ両脇の カゴに乗せて運んでいる女性の姿を見ることは珍しくない。

 反対に、男性のカゲが薄いのがとても気になる。朝から店先に数人かたまって、何をするでなくボーっと小さなイスに腰掛けている。街路樹の木陰で将棋をさしたり、 ビールを飲んでいたり。働き口がないだろうことはわかるが、働き者の女性たちとの差が、見た目だけでは甚だしい。もっとも一旅行者の表面的な印象など、よけいなお 世話には違いないが。

四十年前の農村風景の中を歩く
 翌日はハノイ近郊のザーラム県タートン村へ行く。ハノイ市街を抜け国道5号線に入る。今ままで通ったベトナムのどの道より立派な舗装で、中央分離帯の上方に大き な水銀灯が規則正しい間隔で並び立っているのが、ひときわ目を引いた。劣化したアスファルトの道か、デコボコのじゃり道が多かったので、マイクロバスが全然揺れ ないで走るのが新鮮に感じられた。聞けば日本のODA(政府開発援助)で開通した道だという。なるほどと思った。この暑さの中で、完成までの日本人技術者のご苦労 がしのばれた。

 二十分ほど東へ走り、ハノイ農業大学へ到着。ここで案内役兼通訳のディン先生を乗せ、マイクロバスはタートン村の農協事務所へ到着。農協の幹部数名とO町の皆さ んのミーティングが始まる。農協の人の話をディン先生が英語に訳し、それを日本人Tさんが日本語に訳してO町の皆さんに伝えるという、二重通訳方式だ。日本側の質 問も英語からベトナム語へと訳されて伝わる。なかなか正確な意志疎通が難しいとも感じたが、致し方ない。

 ベトナムは農業国だ。人口八三〇〇万人のうち、農業人口は労働人口の半数を占め、全国民の八割が農村地域に居住しているという。日本の農業人口は約三00万人、水田面 積二六〇万ヘクタールに対し、ベトナムの水田面積は六〇〇万ヘクタールという。

 この村へ来る途中、水田一面が短冊状に細いあぜ道で小さく仕切られていたのを見たが、それは政府が農民ひとり一人に二十年の使用権で分け与えたものだという。こ の村の人口九、四三五人に対し、耕地面積は四四〇ヘクタール。一人当たり四〇〇平米前後の持ち分になるという。一律の面積ではないのは、米の収量から考えて水田の 条件の善し悪しを考慮し、面積を調整しているからだという。

 ベトナムでは一九八六年、政府が社会主義型市場経済と対外全面開放を柱とするドイモイ(刷新)政策を打ち出した。これにより貿易の自由化や外貨導入がスタート。 その結果国営企業は独立採算制となり、個人の自由営業が許可され、経済的にめざましい発展を遂げているといわれる。農業生産も、昔は全て農協が指導をしていたが、 この村でも一九八九年、政府より土地をもらってからは、農民は自分で考えて農業をやるようになったという。水田の他に豚や鶏を飼ってマーケットへ出している。

 土地は自給用として農民に分配されているので、売買は基本的にはないが、南部では大きい農家が土地の使用権を買ってさらに土地面積を増やしている例もあるという。 水牛を親類で飼って、共同で農耕に使うのが一般的だという。

 この村の二0%はお金持ちで、全体の二五%位は生活が安定している。貧しい人は一・五%で一ヶ月の収入は七万ドン、つまり五ドル(約五八〇円)とのこと。ベトナ ムでは大都市と山間部、農村では生活物資の価格に大きな差があるが、小さな村では自給生活に近いので七万ドンでも暮らせるとのことだ。今や苦境に立たされている日 本農業の中にあってO町の一行は農業で成功されている方ばかりだから、思いは複雑だったようだ。

 なぜなら、今のベトナム農村の状況はかつて自分たちが暮らしていた四、五十年前の日本と、規模も貧しさも似たような状況だからという。これからベトナムがどれほ ど発展するかは未知数だが、あと三十年、いや二十年位で追いつくかもしれない、と思う反面、このままの方が幸福かもしれないとふと漏らされる。昭和四十年代前半ま では日本でも見られた農村風景、牛がいて豚や鶏がいて、田植え や収穫時には親子親類縁者等、たくさんの人が総出で働く。子供たちはよく家の手伝いをし、物はなく貧 しくても、農閑期の楽しみがあった、と。すでに日本の農家が失ったものが、ここにはほとんど残っているのだから。

 なまじ投資して機械化や大規模化したばかりに、お金に追いまくられる生活に陥ってしまっている日本の農家。その生々しい現実を見てきている目には、同じ農民とし て感傷以上の思いが沸き上がるようだ。

 ぬかるみに足を踏ん張ってしろかきをしている水牛、大勢で手植えをしている田植え風景、土ぼこの道、庭に乾し広げられた稲籾、藁(わら)積みのむせるような匂い、 鶏の走り回る庭先、澱んだ水辺に浮かぶアメンボ、土間のある薄暗い家、道ばたに落ちている牛のひからびた糞、ため池で泳いでいる子供たち、油照りの真昼の太陽・・・。

   筑後平野のど真ん中で育った私も例外ではなく、ベトナムののどかな村を歩いていると、その田園風景にも、村に漂う独特の匂いにも、胸の一部がヒリヒリするほどの ノスタルジアをかき立てられるのだ。

 O町の一行はこの日の夕方には全部の日程を終え、再びホーチミン経由で日本へ戻られた。

ハノイの表情
 私と夫が滞在しているメリタス・ウエストレイク・ハノイホテルはシンガポール(華僑)資本で、昨年オープンした五つ星の現代的なホテルだ。ハノイの旧市街地の喧 噪たる市中から、タクシーで西へ十分ほどの湖畔に位置する。周囲もいく分落ち着いた感じだ。客室数三二二室、ハノイでは一番の高さという二十階建の高層建築で、ハ ノイ市の西北部に位置するタイ湖(西湖)と市内東北部を流れる大きなホン川(紅河)に挟まれ、ホン川に沿って走る幹線道路沿いに建つ 。

 宿泊客はほとんど欧米人でたまに日本人のビジネスマンや旅行者を見かける。アメリカ人よりは圧倒的にフランス人が多い印象だ。長い統治時代の名残で、フランス人 にとってベトナムは身近な国なのだろう。長い夏のバカンスを利用して、遊びに来ているのだろう。ホテルにいる限りでは設備もりっぱで、清潔で、クーラーも効き、快 適な環境のためベトナムにいることを少しも感じない。

 ホテルの北側からは美しいタイ湖畔やハノイ市内が一望でき、東側からはレッドリバー(紅河)の名の通り、赤味がかったホン川の悠然とした流れが見渡せる。 ホン川に沿って走る通りは広い中央分離帯もあって、片側三車線のかなり広い道路 だ。道路のホン川沿いには人の背丈ほどの堤防が延々と続く。堤防の向こう側にもかなりの住 宅が建ち混んでいる。

 ところがよく見るとそこはホン川の河川敷になっていて、川が増水すれば幹線道路につながる出入り口を、堤防と同じ高さに仕切ってしまうという。ホテル側の市街地 を浸水から守るためだが、当然堤防の向こう側の家々は水に浸かるだろう。しかし不法建築を承知で、どんどん河川敷に住宅が増えているという。洪水常襲地帯とわかっ ていても、都市に移り住む人々にとっては魅力的な土地なのだろう。

 ベトナムでは空港でもホテルでもレストランでも商店でも、若い人が生き生きと働いている。国の要職や指導者も若い人が活躍している。九大の留学生だった二人の方 とも会うことが出来た。ベトナムでいい職業に就く条件は3つ。英語が話せること、技術をもっていること、そしてコネのあること、と聞いた。3つ揃えば鬼に金棒らし い。

 レストランのウェイトレスも土産物屋の店員さんもたいてい英語が通じるし、日本語も上手。こちらが何も言わないのに、日本語で話しかけてくる。アオザイを着たあ る日本語の上手な若い店員さんに聞いてみると、自分で勉強したとのこと。観光客の使う言葉をそのまま暗記して、あとは実践的に使い、覚えていくのだろう。ベトナム では英語のわかる人が多く、米ドルも使える。その意味では日本より、よほど国際的かもしれない。彼女らはアメリカ人が来れば英語で、フランス人が来ればフランス語 を操って、しっかり商品をすすめている。英会話もおぼつかない私は、彼女らに見習うべしと思った。

  ベトナム女性の民族服はアオザイ。今回のハノイ旅行で楽しみにしていたが、意外にも若い女性たちはアオザイを着ていなかった。最近は生活も向上してアオザイが 復活し、高校の制服にも取り入れられるようになったと聞いていた。しかし今は雨期ということもあるのか、町中ではほとんど見かけなかった。アオザイ姿を見たのは、 香港からハノイ間のスチュワーデス、空港の女性職員、ホテルのツアー担当職員、(受付カウンターの女性はスーツ姿だった)、外国人向けレストランのウェイトレス、 大型土産物店の店員さん、楽団の女性達、それくらいだった。もっとも日本でも民族衣装、つまり和服を日常的に着ている女性は数も場所も限られているので、文句は言 えない。

 アオザイは上着とパンツのツーピースだ。生地はシルク。上着は立襟で、胸元はチャイナ服に似たデザイン。ウエストまでのラインと長袖は身体にピッチリ仕立ててあ って、あとはワンピースのように膝下までの長さがある。そしてウエストラインよりちょっと上、両脇下あたりから裾まで長いスリットになって、動きやすく涼しそうだ。 パンツは幅がたっぷり取ってあって、足下がスッポリ隠れるほど長い。パンツは真っ白の場合が多く、上着は明るくカラフルで無地や模様入りと様々。

 ブラジャーとパンティーの上に直接着るのが正式らしく、上下合わせて着用すると、何と脇下のスリットから素肌がちょっぴりのぞいている。おまけにスリットの間か ら白いパンツの生地を透して、下に履いているパンティーの色柄がチラリと見え隠れする。男でなくても思わず目が行ってしまう。アオザイはスリムなベトナム娘をさら にチャーミングに見せる、素敵な服だ。

 けれどバイクにまたがって颯爽と町を走りまくる大勢の女性達は、ブラウスにGパン姿。腕をすっぽり覆う日焼け防止の長い手袋をつけ、帽子にサングラス、排気ガス よけの三角マスクをつけて走る。その勇ましい姿は、まるで月光仮面の再来だ。ベトナム娘はうるわしく、又エネルギッシュなのだ。

ベトナム料理の楽しみ
 ベトナム料理はその歴史的背景から中国とフランスの影響を色濃く受けていて、中華とフレンチがほどよくミックスされているのが特徴だ。果物の種類も豊富。ライス ・ペーパーを使った春巻き料理や海鮮料理、小魚から作られる醤油のヌック・マム(魚醤)は日本でもよく知られている。最初の3日間は、朝食のみホテルで取り、あと はベトナム料理のレストラン、日本料理店、中華料理店などいろいろ行ったが、当たり外れが無くどれも美味しかった。ベトナム料理は日本人の口に非常に合うというの が実感だ。料理と共に必ず小皿にとって添えられるヌック・マム(魚醤)は、唐辛子や塩、レモン等が別皿になっていることが多く、辛さも自分の好みで調節できるから、 料理自体が辛いということはほとんどなかった。

 ビールは缶もビンも国産があり、飲みやすい。焼酎も小瓶一本百円くらいで買えるが、これもなかなかいい味だ。ミネラルウォーターで割って飲んだ。初めて食べた現 地の果物は、ドラゴンフルーツ、ロン・ニャン(龍眼)、ランブータン、ウォーターアップル、マンゴスチン、ジャックフルーツ等。甘みが強く独特の香りのジャックフ ルーツ意外は、どれもあっさりした味だった。

 高級レストランでビールを飲んでコース料理を食べても、千五百円程度。庶民的な食堂 なら、うどんや唐揚げ、野菜炒めなど単品メニューが中心で、日本の五分の一以 下の値段だ。町の食堂ではよく野草のような生野菜が皿一杯出て、ベトナムの人はそれにヌック・マムをつけて食べているが、野菜を洗う水や衛生面で難があるので、日 本人は食べない方が良いと注意された。

 ベトナムの人はぬるいビールに氷を浮かべて飲んでいるが、これも要注意。氷を作る水に問題があるので、有名レストランやホテル以外で出される氷や水は決して口に しないことだ。私の夫はベトナムへ行くたび水や氷で失敗して、ひどい腹痛にやられて寝込んだ経験を持つ。もっとも二、三ヶ月も暮らせば、腸内細菌もベトナム製にな るらしく、腹痛を起こすこともなくなるらしい。

 テーブルクロスが掛けてあってオシボリやナフキンがセッティングされているような、ホテルや高級レストランでの食事も確かに楽しいが、実は本当のベトナム料理と 少し違うかもしれない。農村地帯で一日過ごすと、どうしても町の食堂を見つけてそこで食事をすることになる。店先に材料が並べてあって、それを選んで注文する形式 だ。空芯菜(青菜)の炒め物、唐揚げ、卵焼き、野菜スープ、豚肉と野菜の炒め物、ごはん、だいだいそんなメニューだ。お世辞にも清潔とは言い難いテーブルに座って 待つと、奥の台所で作って若い娘さんが料理を運んでくる。ここの娘たちが食堂をやっているらしい。だいたい奥さんか娘さんが切り盛りしている。

 初めて町の小さな食堂で食事をしたとき、箸立てにティッシュペーパーが突っ込んであった。どの食堂でもテーブルにティッシュの用意がしてあるが、ベトナムの人は 自分でもたくさん持っていた。同行のベトナム人Kさんはおもむろにティッシュを取ると、箸、皿、お椀、コップを丁寧に拭きだした。よく洗っていないということだろ う。話によると、屋台や食堂では洗うというより、水を張ったおけにザブンと食器をくぐらせる程度とか。油料理が多いので、ベトナムの人も丁寧に拭きあげて使う。私 も真似をして、食器をしっかりこすった。

 拭きあげたコップにビールをつぐのも、儀式がある。底のほうに少し注いで、そのビールでコップの中をゆすぐように全体になじませ、次のコップにあける。同じよう にくり返して全員のコップをアルコール消毒するのだ。こうしないと不潔というより、肝炎などに感染する危険があるので、ていねいにやっているとのことだ。特に日本 人旅行者など、屋台や町の食堂で食事をするときは、気を付けた方がいいと注意された。

国境をめざす
 ベトナム滞在五日目、いよいよハノイの人々の憧れ、北部高地の避暑地サパへ発つ日だ。何と言っても涼しいのが最大の魅力のようだ。夫の属するプロジェクトチーム の仕事と休暇を兼ねて、関係者と運転手さんを含め総勢十名だ。スズキの四輪駆動車二台へ分乗し、午前八時二十八分出発。

 ホテルを出てそのままホン川沿いの道路を西北へ向かう。この道路を反対の南方向へ行くとハノイ市街中心部へ入る。その途中、ホン川には大きな二つの橋が架かって いる。市街地に近いチュオンズオン橋は自動車とバイク専用道になって、交通量も多い。ホテルに近いもう一つは、ロンビエン橋。市の中心にあるハノイ駅を出てハイフ ォンへ向かう列車が、間もなく渡る橋だ。この鉄橋は自転車の専用道路にもなっている。

 ロンビエン橋は全長一・五キロメートルほどの長さで、首都ハノイと百数十キロ東にある港町ハイフォンをつなぐ、重要な輸送ルートだ。北爆の象徴として、伝説の橋 として有名だ。ベトナム戦争当時、米軍機がどんなに爆撃しても、ベトナム軍は無数の対空高射砲で迎撃し、文字通り死守した橋として、今も語り草になっている。

 私たちを乗せた車はバイクの波をかき分け、西北へ進む。途中ホン川の上流にかかる大きな鉄橋を渡りビン・フー県に入る。広大な水田地帯の中を一本道が走る。自家 用車が一般には普及していないので、行き交う自動車は乗り合いバス(とにかく古い)、軍用車、ジープ、トラック、稀にダンプカーや乗用車と、それほど多くはない。

 ハノイ市内を抜けると、道路の舗装が一段と悪くなる。道路全体を舗装していないので、当然車もバイクも走りやすい中央に集まることになる。ベトナムの交通 事情に慣れてきたとは言え、車同士離合するときや前の車(スピードの遅いバスやトラック)を追い越すときなど、クラクションとパッシングの連発でスピードアップす るので、つい緊張してしまう。前方を見るからよけいに疲れてしまうことに気づき、今回は一番後ろの席に座り、横の景色を見るよう心がけた。

 農村地帯へ入ると、車は私たちと同じ方角へ進む自転車の隊列をどんどん追い越していく。自転車にはほとんど、荷台の両脇にとてつもなく大きな竹篭がぶら下がって いる。その自転車をこいでいるのはたいてい女性。ベトナム特有の円錐形の日除け笠を被っていて、顔には目だけ出した大きな三角マスク。埃を避けるためだろう。彼女 たちはこの先のあちこちの農村から、ハノイまで数十キロの道のりを自転車で往復しているのだ。行きは明け方前に農産物や自家製の豆腐や鶏・子豚などを、二つの篭に 入れてハノイの朝市に運ぶ。自転車の隊列は、最後の一個まで売りさばいて、足取り軽く村へ引き返しているところだ。

 私たちは中国との国境の町ラオカイをめざして、一路北西へ進路をとっているが、ハノイから北東へわずか一六0キロの位置にも国境の町ランソンがある。ベトナム戦 争終結後の一九七九年、カンボジア(ポル・ポト政権)の内戦にからんで、中国がランソンの町に侵攻したことは記憶に新しい。いわゆる中越戦争だ。中国人民軍によっ てランソンの町は壊滅的な被害を受け、多くの一般ベトナム人が殺されたという。

 一九八九年、ベトナムはカンボジアから完全撤兵し、一九九一年ベトナムと中国は国交を正常化した。ラオカイの国境は中越戦争以来閉鎖され、再開されたのが九三年 五月という。鉄道も九六年三月にラオカイから中国雲南省昆明までの鉄道が再開されたというから、つい最近のことだ。

 ベトナムは古来より中国に政治的・文化的・経済的、そして精神的にも大きなな影響を受けてきた反面、紀元前の昔から二千年にわたり中国の侵略を受けてもいる。ベ トナム人の心理には「中国人とは右手で握手しても、いつでもなぐれるような左手は拳を握っておく」という複雑な警戒心があるというが、無理からぬことであろう。も っとも現在国境の町では、中国との物流は活発化し、マーケットにも多くの中国製品が出回り、密貿易も含め交易が盛んだという。

 話はベトナムの歴史に遡るが、一九四0年、日本軍もベトナムへ進駐し、先にいたフランスと共同支配を始めた。もっとも五年後には日本の降伏で日本軍の支配は終わ り、ホー・チ・ミンを主席とするベトナム民主共和国が成立。しかしベトナムを何としても欲しいフランスが、一九四六年(昭和二一)またしても南部から侵略を開始し、 第一次インドシナ戦争が勃発。この戦争はハノイ北部ラオスとの国境に近い町ディエン・ビエン・フーの戦いでフランス軍が敗れ、ジュネーブ協定成立後フランスが撤退 するまで八年間も続いた。

 フランスが出ていくと今度はアメリカが介入し、南ベトナム(サイゴン政権)成立から南北分裂国家となった。一九六0年、南ベトナム民族解放戦線が結成され、第二 次インドシナ戦争勃発。トンキン湾事件を機に米軍が直接参戦し、ベトナム戦争が始まることになったのだ。こうみてくると、ベトナムは常に外国の侵略に対し徹底抗戦 し、ベトナム戦争終盤には米ソの代理戦争が自分たちの国土で繰り広げられた形になったが、結局どの国の支配にも屈せず、独立を勝ち取ったことがわかる。ベトナム人 は、どんな大国の人々より誇り高く生きる国民なのだ。

  日本の支配の頃
 ラオカイへの国道を揺られること数時間、途中の町で休憩と昼食を取ったが、まだ目的地まで半分も来ていないことを知らされる。移動だけで一日がかりの行程なのだ。 ラオカイまでは鉄道も通っているが、線路は狭く鉄橋は弱く、貨物車を改良したような客車が時速四0キロで走るのがやっとらしい。鉄道を使っても早く着くわけではな いのだ。途中線路と平行するように走っているとき、ゴトゴトと数輌連結された列車を見た。その列車を見て、ふと私は林芙美子の小説『浮雲』を思い浮かべた。

 昭和十八年秋、主人公幸田ゆき子は志願して仏印(ベトナム)へ渡り、タイピストとして、仏印の林業調査を行う農林省の技師たちの部署に配属される。海路にてハイ フォンに入り、ハノイから南方へ下り、高原のダラットへ着く。ゆき子の乗ったサイゴン行きの汽車は二等車でも「ソファや、小卓があり、小さい扇風機も終始気忙わし く車室をかきまわしている。部屋の隣りには、シャワーの設備もあって、自動車の旅よりはずっと快よかった」とあるから、現在通っている客車よりはずっと快適だった かもしれない。小説はこう続く。

 「第二泊目はユエ(筆者注・フエ)で泊まった。(略)ゆき子は、こんなところまで、日本軍が進駐して来ている事が信じられない気がしていた。無理押しに、日本兵 が押し寄せて来ているような気がした。このままでは果報でありすぎると思った。そのくせ、このまま長く、この宝庫を占領出来るものなのかどうかも、ゆき子は考えて いるいとまもないのだ。(略)こうしたところで見る、日本の兵隊は、貧弱であった。躯に少しもぴったりしない服を着て、大きい頭に、ちょんと戦闘帽をのっけている 姿は、未開の地から来た兵隊のようでもある。」ゆき子のいる農林事務所には、農林省の研究員富岡も派遣されていた。

 「山も湖も、空もまた異郷の地でありながら、富岡は、仏蘭西人のようにのびのびと、この土地を消化しきれないもどかしさがある。この土地には、日本の片よった狭 い思想なぞは受けつけない広々とした反撥があった。おうようにふるまってはいても、富岡達日本人のすべては、この土地では、小さい異物に過ぎないのだ」
 小説の数行を反復しながら、私は川沿いに曲がりくねって進む車窓から、緑濃い山々を見つめ続けた。六十年前、日本軍がこの地を占領し、そして五年で追い出された この国の山ひだの数々を……。

焼畑を見る
 昼過ぎから車は少しずつ山地に入ってきたが、外は相変わらずの猛暑だ。道路脇や山の中腹に点々と農家がある。しかしよく見ると家の形状が平地の農家とは大分変わ ってきた。同乗のベトナム人T氏にたずねると、ザイ族の住まいではないかと言われる。今回の旅行で知ったことだが、ベトナムは多民族国家で、現在五四の民族で構成 されているという。

 ベトナム約七千五00万人の人口のうち、九0%はキン族が占め、あとの一0%が五三の少数民族とのことだ。少数民族はそれぞれ独自の文化と歴史を持ち、中部高原 にザライ族、北部のターイ族、メコン・デルタのクメール族等々。多くは高地に住み、しかも標高差により、さらに色々の民族が住み分けをしているという。中南部沿岸 地方に多く住むチャム族は、十七世紀末に滅亡するまで中部で栄えたチャンパ王国の末裔といわれている。少数民族の多くは山岳地帯に住むので、一般的に貧しいという。  出発して六時間も経つと町もなくなり、深閑とした山道で時たますれ違うのも追い越すのも、ラオカイとハノイ方面を往復するバスだけだ。バイクもほとんど通らない。 道ばたや山の中腹に、高床式の少数民族の家が点在する。時折、カラフルな刺繍の民族衣装を着た数人の女性グループが、大きな篭をしょって歩いているのと出くわす。 あの衣装で農作業をするのであろうか? 

 山の斜面にはキャッサバやトウモロコシが栽培されていて、彼らの主食とT氏は説明する。所々山の斜面に焼畑の後が見られる。バリカンで刈り上げたように山の斜 面が禿げ上がっていて、黒い灰が残るので容易に見つけられる。焼いた後に作物を植える。だが、焼畑のあとは丸坊主同然で、森林が失われるのは必定だ。途中で一ヶ 所、峰近くの急斜面で煙の昇っている山があり、近くを通ると煙の近くに人の姿も見えた。転がり落ちそうな斜面だ。

 世界には焼畑農業をする人々が今も多いが、彼らには二種類あるらしい。居住地を移動しながら焼畑をする人々、そして一ヶ所に定住して焼畑を行う人々。その 分類でいえば、ベトナムの少数民族は、定住しながらの焼畑ということになる。もっとも近年は森林保護の立場から、多くの国が焼畑を禁じている。ベトナムでも焼 畑は禁止されているはずということだが、こんな山の中で生きる人々には通用しないのかもしれない。山岳少数民族の生活は、今なお過酷であるように私には思えた。 この辺りはザイ族やザオ族が住む一帯だと、T氏は説明してくれた。

  ラオカイからサパへ
 ハノイを出てひたすら走ること八時間半。ホン川の鉄橋を渡って、車はやっと国境の町ラオカイに到着した。川の向こう側は中国の雲南省だ。ここで休憩を取って、コ ーラやコーヒーで喉を潤す。しかしここまで来たのに、外はまだ熱風状態。十五分後の午後五時二十分、出発。ラオカイの町は道路幅も広く、道路沿いには商店が並んで いる。ハノイほどではないが、しゃれた店や大きな建築物も目に入る。大きな鉄塔もあった。テレビのアンテナ用だろうか。市内は車の数もグンと増えた。もちろんバイ クや自転車は、道路の真ん中を堂々と走っている。ラオカイの町からの曲がり角で、「サパまで33キロ」の案内板が目に入った。あと一時間弱で終点だ。

 サパへの分岐点からいよいよ山道に入った。今度ははっきりと高度が上がっていくのが実感できる。狭い一本道は道幅より狭い舗装がある程度。しかもカーブの連続 なのに、カーブミラーもガードレールもほとんどない。対向車が滅多に来ないとはいえ、山道の片側は深い谷なので、若い運転手ドゥオンさんは慎重なハンドルさばきだ 。三十分も登ると、やっと車のクーラーが不要になった。窓を開けて山の空気を胸一杯に味わう。

 このあたりから私たちの目の前に、素晴らしい風景が展開された。谷を隔てて向こう側に連なる山々の景観だ。峰からずっと山裾まで、等高線状の美しい曲線を描いて 棚田が数十段も続いているのだ。それもあっちの山、こっちの山、向こうの山と、日当たりの良い山の面が、ことごとく棚田に埋め尽くされている。本当に人の手で作ら れたのかと思えるほどだ。人間のなせる技とも思えないほど膨大な棚田の枚数であるのに、その規則正しいフォルムは芸術品を感じさせるほど見事で美しい。驚くことに、 その棚田はことごとく、つまり全ての田に田植えが済んでいるのだ。こんな山奥の、どこにそんな人手があるのだろうと、不思議でならない。

 よく見ると棚田の近くの中腹に、点々とうずくまるように農家が点在している。この高地に住むのはモン族だとT氏は教えてくれた。まもなく、私たちは車の窓から、 全身藍染めの服をまとい、足に脚絆をつけ、小さな女の子から大人の女性まで、自分がスッポリ入れそうな大きな篭を背負って歩いている人々を見かけるようになった。 ターバンのような大きなヘアバンドの中に長い髪をまとめ、耳には大きなリングを付けている。足には全員同じゴム製らしいサンダルを履いている。サンダルといっても、 つっかけではなく、踵(かかと)と甲は固定出来るようになっている。草鞋(わらじ)に似た作りだ。篭には黒いこうもり傘が一本入れてある。全員が全員、同じ格好で 小柄だ。これが北部高地サパに住むモン族との出会いだった。

 午後六時四0分、サパの中心部に着いた。ハノイを出てちょうど十時間かかったことになる。走行距離にして四00キロ。日本の高速道路なら半分の五時間で着くだろう。 ベトナムの人によると、一昔前まではハノイからサパまで二日がかりだったとか。長袖が必要なくらい涼しい避暑地サパへ来ることは、ハノイの人々の憧れと聞いたが、 やはり雨期の高温多湿のハノイと比べると天国と地獄の差だ。どんなに暑くても、ベトナムではほとんどの人がクーラーなしの生活を送っているのだから。

サパを歩く
 サパはフランスの統治時代、特に暑さの厳しい雨期(五月〜九月)を逃れるため、フランス人が作った避暑地だという。統治時代の建物は革命時にほとんど壊されたと いうが、一部に古い建物が残っているらしい。町の中心部の一番いい場所には教会堂が昔のままの姿で建っていて、そのすぐそばには見物席を備えたサッカー場がある。 フランス人がここに自分たちの文化と生活を持ち込み、長期滞在したことが想像できる。現在の建物は、商店はベトナム風の建築だが、高級ホテルはコロニアル風の瀟洒 な外観のものが多い。個人の別荘らしい建物は、道路から少し引っ込んだ所や山の中腹に点在している。

 もっとスマートな避暑地を想像していた私は、少々当てが外れてしまった。全体的に寂(さび)れた温泉街を見るような、活気のなさだ。どうやら避暑にきているのは もっぱら観光客らしく、欧米人の姿を見かけたが、大勢というほどではない。中心部に立つ建物も、手入れのされていない家や空家が目立つ。新しい建物があちこち建設 中で、道路も工事中だが、町並みという考え方がないのか、統一感がなくバラバラの印象だ。

 もっと資本投下して、インフラ整備して、景観や環境設計に基づいて開発すれば、素晴らしい避暑地になるだろうに・・・。気がついたら、つい日本人的な発想で見て しまっていた。悪い癖だ。十年後はどんなに変わっているのだろうか、その楽しみは感じられるが、ベトナム全体がもっと豊かになり、道路や鉄道が整備されない限り、 一般のベトナム人が避暑地へ出かけるようになる日は、まだまだ遠いようだ。

 日も暮れかけた頃、私たちはやっと町の中心部にある簡易ホテルに落ち着いた。素泊まりなので、食事は歩いて十分ほどのレストランを利用しないといけない。途中、 坂道の両側には、土産物店が軒を並べていた。ここはさすがに人通りが多かったが、観光客と同じくらいの数のモン族がいたせいかもしれない。手製の藍染めのベストや ショルダーバッグを観光客に売っているのだ。

 レストランというより、食堂という雰囲気の店で夕食を取る。単品をたくさん取って、全員でそれを取り分けて食べるのだ。自分の分だけ注文するということは、ベト ナムでは一度も経験しなかった。お皿に盛った数種類の料理を各自の箸で取って、ヌック・マムやレモン塩など、別の小皿に取った薬味にチョンとつけていただく。ここ で初めて食べた物に、カエルの肉がある。たっぷり衣をつけて揚げてあり、フリッターのようなかわいい形をしている。白身の淡泊な味なので、言われなければ何を食べ ているのか分からない。美味しいからと勧められて、一口食べてあとは遠慮した。材料が目にちらついていけない。

 滞在中の食事は全部この食堂で済ましたが、一日目の朝食はベトナム人の大好きな鶏肉入りうどん「フォー・ガー」をいただき、二日目の朝は「ライススープ」にした。 つまりお粥だ。お粥も一般的で、小さく裂いた鶏肉や香草野菜が刻んで入れてある。私は日本から持って来た大きな梅干をお粥にのせて、より美味しくいただいた。

 夕食後ホテルに戻って一休みしていると、同行のベトナム人一行はホテル一階のカラオケルームで大いに盛り上がっているらしい。誘われて行ってみると、天井の高い 広い部屋がゴージャスな雰囲気に作ってあり、部屋は薄暗く、テーブルにはお酒もおつまみも有り、日本と何ら変わらない。Dさんが、ベトナム語の歌を気持よさそうに 歌っている。ベトナムの人もカラオケが大好きなようで、率先して得意な曲を披露している。選曲用の本は、ベトナム語、英語、中国語、韓国語の曲、それに日本語の歌 もちゃんと載っている。国際的な歌集だ。

 シンガポールで作られたものらしいが、二葉百合子の「岸壁の母」が「岩壁の母」に、私の大好きなテレサ・テンの「つぐない」は「つじない」と印刷されていて、思 わず笑ってしまった。「つじない」をリクエストして歌ったが、タイトル画面もやっぱり「つじない」と出て来た。歌詞は全てひらがなだ。しかしベトナム奥地のこんな 山の上で、カラオケに遭遇するなど想像もしていなかった。恐るべし、カラオケ文化だ。

 翌朝六時に起きて、夫と散歩に出て町を見ることにした。五分くらい歩いて商店街へ行く。もう人がいっぱいだ。坂道から脇へ階段で下りたところ一帯がマーケットに なっているのを見つけ、さっそく行ってみる。野菜はジャガイモ、紫タマネギ、白ネギ、小ネギ、白菜、空芯菜、芋の葉とツル、カボチャの葉とツル、カボチャなど。根 菜がどれも小ぶりなのは土地が痩せているのだろう。香草、生姜、唐辛子、ウリ、キュウリ、ニガウリ、ゆでタケノコ、落花生、リンゴ、トマト、パイナップル。前日食 べたランプータン、ドラゴンフルーツなどベトナムの果物。

 タンパク質では、大きな雷魚、昆虫のさなぎ、生きた鶏。少し離れた屋根つきの場所では、解体したばかりの豚肉や鶏肉が切り分けられ、広い台の上に無造作に並べて ある。豚の頭部がゴロンと置いてあったりする。売り物だろう。猛暑のハノイのマーケットでもそうだったが、肉を売っている場所に冷蔵施設などなかった。解体した後 の台の上に、ブロック状の肉をそのまま並べて売っている。ハノイのマーケットでは暑さのためか肉やモツの匂いが強烈に漂っていて、長くいることが出来なかった。サ パは涼しいので匂いはそれほどではない。ベトナムではその日売る分だけを解体し、売り切り、買う人もその日に料理するので冷蔵庫は無くても暮らせる。シンプルで合 理的だ。

 食品衛生に厳しい日本人の感覚からすれば、マーケットでの食肉の扱い方は非衛生的かもしれない。しかし彼らは野菜や果物も自転車で運べる近郊の産物、肉もその日 にさばいた物、つまり生鮮食品を食べているのだ。折しも日本では雪印乳業製造の毒素入り乳製品が大問題になっていた。ベトナム人は日本に関心が強いので、日本の情 報もニュースになりやすく、雪印の事件もちゃんと報道されている。ベトナムの食品を不衛生だと、偉そうには言えないのだ。

 夫はマーケットで自分の作った豆腐を売る人が、最期の一個まで粘って売ると聞き、日本の豆腐は四、五日大丈夫と言ったら、そんなの本当の豆腐ではないと反論され たという。今さら昔の時代に逆戻りしようもないが、発達や進歩は常に陰の部分を伴うものらしい。

 朝食の後、役場の人の案内で四年前に作られたという公園を見に行く。役場の裏手の山一帯が、斜面や景観をそのまま利用した自然公園になっている。その一角にベト ナム・ガーデンと称して、花壇や岩や池を配置した庭がこしらえてあったが、全体的に雑然としている。造園としてのコンセプトらしきものはないようだ。ただ、高所だ けあって風はあくまで涼しく、展望所に上がるとサパの町が一望に見渡せる。緑なす木立のあちらこちらに避暑地らしい優雅な外観のホテルが、背景にしっくりなじんで 佇んでいる。

 サパからさほど遠くないディエン・ビエン・フーの戦いでフランス軍が敗退するまで、約百年のフランス統治時代が続いた。その間、この避暑地は雨期のハノイを逃れ て来たフランス人たちで、さぞかし賑わっていたことだろう。サパのみならず、フランス人はベトナムの高原にいくつもの避暑地を作っていた。展望所からはるか谷を隔 てて対面に見える山々には、モン族の美しい棚田 の列が見渡せる。自然を自然のままに生かした造形があるだけで、千年前からの姿であろうかと思わせられる。秘境とは ああいう地を言うのであろうか。フランス人はそれを生活の楽しみの中に、風景としてそっくり取り込んでいたのだろうか?

贅沢が敵だった頃
 小説「浮雲」で、最も私の脳裏に刻まれていたと書いたのは、次のような場面だ。飛行機の中で読み返しながら、やはり私の古い記憶とほとんど違わないことを発見し、 作者林芙美子の筆力を、今回改めて感じたものである。主人公のゆき子は敗戦で日本へ引き揚げ、どん底の暮らしの中で、占領中のベトナムでの生活を懐かしく思い出 す。

 「ああ、もう、あの景色のすべては、暗い過去へ消えて行ってしまったのだ……。もう一度、呼び戻す事の出来ない、過去の冥府の底へかき消えてしまったのだ。貧弱 な生活しか知らない日本人の自分にとっては、あの背景の豪華さは、何とも素晴らしいものであったのだ。(略)悠々とした景色のなかに、戦争という大芝居も含まれて いた。その風景のなかにレースのような淡さで、仏蘭西人はひそかにのんびりと暮らしていたし、安南人は、夜になると、坂の街を、ボンソアと呼び合っていたものだ。 ボンソアの声が耳底から離れない。自然と人間がたわむれない筈はないのだ。湖水、教会堂、凄艶な緋寒桜、爆竹の音、むせるような高原の匂い、ゆき子は瞼に仏印の景 観を浮べ、郷愁にかられてゆくと、くっくっとせぐりあげるように涙を流していた。」

 「ランビァン高原の仏蘭西人の住宅からもれる、人の声や音楽、色彩や匂いが、高価な香水のように、くうっと、ゆき子の心を掠めた。林檎の唄や、雨のブルースのよ うな貧弱な環境ではないのだ。のびのびとして、歴史の流れにゆっくり腰をすえている民族の力強さが、ゆき子には根深いものだと思えた。何も知らないとは云え、教養 のない貧しい民族ほど戦争好きなものはないように考えられる。この地球の上に、あのような楽園がちゃんとある事を、日本人の誰もが知らないのであろう……。贅沢は 敵だと云う、戦争中のスローガンを思い出したが、贅沢が敵であってたまるものではないのだ。五月から十月へかけての雨期をさけて、仏蘭西人がりくぞくとランビァン の高原の街へやって来た。あの生活のエンジョイの仕方が、敗戦になった現在では、もっと美しく、もっと華々しく展開されているに違いない。サイゴンから二百五十キ ロのランビァン高原は、さながら油絵のように美しかったものだ。」(新潮文庫より引用)

 フランス人は自分たちがこしらえた美しい南国の避暑地を、むざむざ手放したくはなかったのだろう。第二次世界大戦終結後も、フランスはベトナム奪還を目指してさ らに八年に及ぶインドシナ戦争を繰り広げたのだから。しかし二千年を費やして、ベトナム人は中国を追い出し、日本とフランスを追い出し、アメリカを追い出し、今平 和の上に自分たちの若い力で国を建設している。

 日本は一足先に経済大国になったが、一方戦後五十五年経っても、米軍の基地問題に悩まされている。日本とベトナムの違いは、そこにあるような気がしてならない。

モン族の集落へ
 サパ在住のベトナムの方がモン族の集落へ案内して下さるというので、あいにく降り出した雨の中を、全員出かけた。サパの町を車で抜けて、山道を下ること約五分。 それ以上、車は通れなくなっていた。

 車を降りて 、雨合羽や傘で雨をよけながら、山を下る。集落へ通ずる道は意外にも階段状にきれいに整備されていた。歩きやすくて助かったが、かなり 急な坂道だ。高度にして百 メートルくらい降りたろうか。一軒の農家に着く。軒先で女の子ばかり五人くらいいて、外の明かりで刺繍をしている。練習か、それともサパの観光客に売るものを作っ ているのだろう。家の外観は、昔日本の農家にもあった、納屋のような簡素な作りだ。

 中に入れてもらったが、床は土間で、太い木を組んで柱や梁を作り、屋根を葺き、板で壁を作っている。外が雨のこともあったが、家の中はほとんど真っ暗に近い。開 けた出入り口から入る外光が頼りだ、中には、小さい女の子二人と少女がいた。家の真ん中には足で作業できるようなひき臼が、一番いい場所にデンと備え付けてある。 トウモロコシの粉などを挽くのだろう。板張りのような床は一切無い。家の中に木を組み合わせた中二階のような部分がある。そこに休むのだろう。二つ穴のカマドが部 屋の隅にあるきり、家具らしきものは何もない。

 子供たちがたくさんいるのに、私は何もおみやげらしいものを持っていなかった。家に入って写真を撮るばかりでは悪いと思い、少女が腕に五、六個つけていたハーフ ・シルバーのブレスレットを指さすと、すぐに外して私の手首につけてくれた。二つ欲しいと二本指で示すと、二つで四万ドン(約三百円)だという。五万ドン札しかな くてそれを見せると、少女は「チェンジ、チェンジ」と言って、すぐにお釣りを持ってきてくれた。

 同行のベトナムの方が彼女に何か質問していた。それによると、モン族の女性はだいたい十五歳くらいで結婚するとのこと。私が少女と思っていたのは、実はお母さん だったのだ。男女とも小柄で子供は何となく分かるが、それ以上は年齢の区別がさっぱりつかない。多分三十代の後半で、おばあさんになるのだろう。

 さらに階段を下っていくと、大きな樽が三つ 並んでいる。藍染めの樽だ。サパの町でモン族の女性たちを初めて間近に見たとき、手首から先が青黒くなっていたので異 様に思ったが、藍染めの作業のせいだと分かった。

 同行の男性陣はもっと下方にある滝を見るため、さらに階段道を降りていった。ごうごうと激しい水音が下の方で聞こえる。私はもう降りなかった。滝を見に行った夫 の話では、滝の所に小さな発電所があったという。かつてフランス人がサパに電気を引くため、建設したものだという。上の道路から発電所までの山道がきれいに整備さ れていたのも、多分この発電所があるからだろうということだ。私たちが見たモン族の集落にも、電線がひかれていたから、多分電気は来ているのだろう。夜にはあの暗 い家に電灯がともるのだろうか。そんな思いで引き返した。

マイノリティー(少数民族)の誇り
 少数民族と呼ばれる人々に直接会ったのは初めてだったが、色々不思議に思うこともたくさんあった。サパの町で観光客に物を売っているのは全て女性であった。小さ い女の子や赤ちゃんをおんぶしたお母さん、年輩の女性など。彼女たちはハノイ市内の店員さんや空港免税店の店員さんと同じく、素早く相手の人種を見分ける力がある ようだ。

 サパの通りを歩いていると、そっと近寄ってきて、藍染めの服や刺繍入りのショルダーバッグをすすめる。こちらが何も言わないのに、「コレ、カワイイ」と上着を広 げてすすめる。買わない意思表示を身振りでしても、「タカイ、タカイ」「カワナイ、カワナイ」と言いながら尚もついてくる。しつこいというより、熱心なのだ。あれ がダメならコレ、というように篭の中から引っぱり出す。目の前の商店では、どこも同じような少数民族の品物を売っているので、こちらもだいだいの値段は見当がつい ている。交渉次第で彼女たちは、商店の値段より安く売ってくれる。だからといって、彼女たちが商店の前で営業していても、誰も文句を言う人はいない。共存共栄、公 認なのだろう。

 それにしても、彼女たちの的を得たカタコトの日本語には、思わずヨロリとしてしまった。ここにも日本人観光客が結構来ているのだろう。そうとしか考えられない。 そういう私たちも、はるばるサパまで来たわけではあるが。彼女たちは色々な外国人に接し、その人種の発する言葉(単語)を覚えて、相手を見てしっかりその言葉を使 って話しかけている。日本人もこれくらい積極的なら、外国語の上達も早いかもしれない。消極的な日本人より、彼女たちはよっぽど国際的感覚を身につけていると思わ ずにはいられなかった。

 今回サパへの道中で見かけたザイ族にしろ、モン族にしろ、彼らマイノリティーは、頑ななまでに伝統的な生活を守っているようだ。服装にしても、生活手段にしても、 堂々と自分たちのカラーを貫いている。バイクや車を横目に、しっかり自分の二本足で歩く。

 私たちが毎日食事をした食堂には、道路の方を向いてテレビが置いてあった。ただし山奥なので実際の放送は受信しておらず、ビデオを再生して店内の若い人が見てい た。その画像はガラス窓を通して、道路からも見える。ある時はモン族の中年女性らしいグループが、またある時は十歳前後の少年グループが、ビデオが終わるまでじっ と固まって道路に佇み、熱心に見ていた。面白い場面では一緒になって笑い、楽しんでいた。少なくとも私にはそう見えた。

 現在世界中の多くのマイノリティーは、政府の保護と引き替えに先祖代々の住まいを追われ、決められた場所、与えられた居住地に住むことを余儀なくされている。と ころが彼らザイ族やモン族など山岳少数民族は、広大な山々の頂きから山裾まで、気の遠くなるような数の棚田を築き、守り、高地に根を生やして生きている。フランス 人やその他大勢の人種が、避暑地などと有りがたがってあとから現れ、色々な建物を造って住み着いても、所詮訪問者に過ぎないことを彼らは知っている。

 彼らは先祖代々高地に住み、山岳民族としてこの高地を支配するのは自分たち以外にないことを、誇りとしているのだろう。その意気が、あれほどの棚田を築かせたのだ。 サパへの途中に見た高地を埋め尽くすほどの棚田は、彼ら民族の遺産であり財産であり、他の侵入を寄せつけない、山々に刻み込まれた無言の警告とも受け取れる。彼らの 他に、誰が同じような棚田を作ることが出来ようか? 

 この高地の山々は、彼らの王国なのだ。

   再び機上にて
 約一週間ではあったが、面白い旅だった。八年前から仕事でベトナムを訪問している夫は、毎年行くたびに目に見える発展を感じてきたという。ベトナム人は一見おと なしく、控えめだ。しかし自国をメチャメチャにされながらも、超大国アメリカに勝って独立を手にした人々だ。目には見えないが、芯の強さ意志の強さがなくて、何で 二千年もの間、外国と戦ってこれようか。

 ハノイからサパまでの四00キロの間、そして空港までの車窓からも、離陸した飛行機からも、私の目が最も捉え続けたものは延々と連なる水田だった。ベトナム人の 強さとは、結局この水田を開き、守ってきた力ではないだろうか。それがべトナムの精神であり、肉体であり、命ではないだろうか。    (完)

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(この作品は杉山武子の著作物です。無断転載・引用はできません。)