『Hello?』


思考に沈んでいた俺を、一気に引き上げたのは、電話口できこえた声だった。
電話に出たのは、すこし掠れ気味の、けれど女くさいこの声。

できれば、今、あんまり聞きたくない声だった。

「・・・サラ?」

呼びかけた俺に、電話の向こうは一瞬黙った。
俺だと判ったんだろう。
好きな人の声と同じく、嫌いなヤツの声というのも、意外と忘れないものだから。

『久しぶりね。スタジオの件なら、さっきそっちの事務所にFAXしておいたけど?』

やっぱり俺を認識していた。
相手を確かめるまでもなく、流暢な日本語で話してくる。
お互い、無駄な会話はしたくなかった。

「吉井と急いで連絡とりたいんだけど、
 携帯つながらないからエージェントで連絡つけてもらおうと思って」

簡潔に用件を述べた俺に、サラは再び黙った。

「サラ、吉井は・・・」
『今は無理だわ』

サラは促す俺を遮った。

『あのね、今、オフィスが無人だから、この電話は私の携帯電話に転送されてるのよ』

随分と機嫌のよさそうな声。

『今は、私の自宅で話しているの。判る?』

電話の奥から、多分食器か何かが動く音、カチャカチャと生活感のある音がする。
吉井はここにはいない、と告げるのかと思うけれど、
彼女の声は何故か勝ち誇った響きを湛えている。

『彼と話したいなら呼ぶことはできるけれど・・・』

吉井はそこにいるっていうことか?
ざわざわと、嫌な予感がこみ上げてきた。





『ああ、やっぱり無理だわ。彼、今シャワーを浴びているもの』













あしが、ふるえた。










待って。
お互い、女がいないとは言わない。
でも待って。
このタイミングはダメだ。







このタイミングは、いけない。









これは、壊れてしまうすれ違いになる。









『3時間ほど経てば、差し支えなくお話できると思うわよ?』
電話を切り際の、可笑しそうなサラの声が、耳の奥でいつまでも響いていた。














そのまま、何も考えられず呆然としていたのは、時間にしてどれくらいのものだったのだろう?
ふと、暗闇の中で、小さく啜り上げる声がした。


「お・・・か、あさん・・・」


振り返ると、ちっちゃい英昭が、廊下に蹲って、声を殺して泣いていた。
途端に我に返る。

そうだ・・・今、俺、ここに一人じゃない。
このまま落ち込んでも、声を上げて泣くこともできない。


慌てて思考を切り替える。傍に行ってあげなくちゃ。
英昭、どうしたんだろ?

「・・・ふぇ、・・・おかあさ・・・」


本当に悲しそうに泣いている英昭を間近に見て、ちょっとびっくりした。
だって今日、英昭は一日楽しそうにしてたから。

でも泣き出すのも、本当は無理もない。
まだ5歳なんだ。この頃の俺は。
本当は親に甘えたくてしかたなかったのを、うっすらと覚えてる。
それを、なんだか知らない世界で、不可抗力とはいえ、親元から引き離されて、心細くないわけがない。
なのに、俺とヒーセが寝静まったと思われる夜中まで、そんな素振りを微塵も見せなかったこの子供が、いじらしいと思えた。


・・・自分なんだけどさ。


でも、大人になってしまった今となっては、子供の頃の自分なんか、他人と同じ。
むしろ、気持ちがわかりすぎるくらい判る分、どうしようもなくいじらしい。

俺は、そっと『英昭』を抱きしめてやった。
まだ建前やプライドを知らない子供は、俺が起きていたことにさして驚きもせず、
しがみついて嗚咽した。

「眠れないの?」

うんうんと、腕の中で頷く。

「おうちに帰りたい?」

「かえ・・・り、た、い・・・」

しゃくりあげながらの声は、次第に大きくなっていく。
俺は開けたままのベッドルームのドアの向こうでヒーセが目を覚ますのを憚って、英昭を抱き上げるとリビングに移動した。
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