暗闇は怖くて心細いけど、明るいリビングは少し落ち着く。
暗闇の中は、誰が隣にいても一人ぼっちになっちゃう気がして、本当は今も怖い。
気持ちを落ち着けることができるのは、その対極の色。

冷蔵庫からミルクを出すと、レンジで暖めてカップに注いだ。
習慣でブランデーを垂らす俺のカップと、砂糖で甘くしてやった小さい俺のカップ。
ミルクの魔法。
白の魔法は、小さいときに多分、母親がしてくれたこと。
いつの頃からか、カップから湯気を立てる真っ白なミルクを飲むと、
そのあと暗闇が怖くなくなった。
自分の身体に取り込んだ白が、闇をうすく照らしてくれる気になれる。


この魔法を、目の前の5歳の英昭が既に知っているといい。



「はい。飲んでみな、落ち着くよ?」


英昭はこくりと頷いて、両手でカップを受け取った。

「あまい」

「甘いの、好きでしょ?」

「うん」

するすると、英昭の涙が引いていく。
本当はこのままくだらない話でもして、眠らせてあげるべきなんだろうけど、吐き出したい不安があると、きっと子供の俺も芯から落ち着いたりしないだろう。

だって、俺だから。


「英昭はなんでおうちを飛び出したの?」

できるだけ何でもないことのように、小さな声で訊いてみる。
落ち着いていた英昭は、また大粒の涙を浮かべた。

「おか、さんが・・・もう、ぼくのこと、いらないんだもん・・・・・・・・・」

―――――…は?

俺は、てっきり弟という新しいイキモノが家に入るのが嫌だったんだろうと思っていたから。
テリトリー侵害を嫌う俺なら、きっと小さい頃からそうだと思ったんだけどな。

「いらなくなんかないよ?きっと」

だってオマエがいなくて、お母さんは眠らないで探し回ったんだよ?

「でもおかあさんは、ぼくはもうおにいちゃんなんだから、ひとりでしなさいって言う。
ぼくが行かないでって言ったのに、病院に行ったの。
ぼく、我慢してたのに、ぼくが病院に行っても、英二ばっかり抱っこする。
おとうさんも英二ばっかり抱っこするの。
なのにぼくには、もう大きいんだからひとりで歩きなさいって言うの」

ああ・・・そっか。
嫉妬してるんだ。今までずっと独り占めできてた親の愛情が弟にも向かったのが悔しいんだ。
まだ小さくて理屈がわからないから、大問題なんだね。
今の俺には、些細なことに思えるけど、きっとこの頃の俺には、全てに見捨てられたように感じたんだろう。

「英昭は、英二が嫌い?」

聞いてみると、暫く考えて、彼は頷いた。

「きらい」

「どうして?」

「かわいがりなさいって、みんな言う。でも全然かわいくない」

「かわいくない?」

「さるみたいだもん。ぼくのほうが可愛いもん」

真剣に言う小さい英昭に、俺は笑ってしまった。
そっか。英二、オマエ、小さい頃の俺にも可愛くないって言われてるよ。

「英昭は、自分が生まれたときの写真、見たことある?」

「ないよ」

「あのね、英昭も生まれたときは猿みたいだったんだよ?」

英昭はムキになって反駁してきた。

「ちがうもん!」

「本当だって。赤ちゃんはみんな猿みたいなの。でももうちょっと大きくなったら可愛くなるんだよ」

「英二も?」

「そうだよ。それでね・・・」

きっともっと大きくなったら、オマエは英二のこと、大好きになるよ。
大事な大事な弟になるよ。
だから心配しなくていい。
英二もオマエのことが大好きになるから。
喧嘩しても、英二がオマエのこと大好きだっていうのは、多分ずっと疑わずに済むよ。
世の中にはもっと怖いことや、つらいことが沢山ある。
そしたら、今オマエが泣いてるのは、何でもないことだったんだって笑えるから。
懇々と諭してやると、英昭は不思議そうに俺を見つめた。


「エマは?」

「・・・・・・・・・え?」

「エマはどうして泣いてるの?」

「俺?泣いてないよ」

「泣いてるよ」


英昭のちいさな手が、
俺の頬に触れた。
そのぬくもりに相対する、
既に冷たい雫に初めて気付く。


―――・・・俺、泣いてたの?
何も言い返せないで、そっと英昭の手を握った。
・・・あったかい。
この手はこんなに小さいのに、どうして自分が辛いときに、誰かの悲しみを感じ取る術を知っているんだろう。
これは紛れも無い、過去の自分だというのに、俺にはどうしても判らない。
もしかして、これは俺の過去を模っただけの、まったく他人なんじゃないだろうか?
もしも俺が、小さい頃にこういった優しい気持ちを持っていたんだとしたら、一体どこでそれを置き忘れてきたんだろう?
自分のことしか考えない、利己的な人間になってしまったんだろう。


この頃のままの俺だったとしたら。
こうして自分が辛くても、誰かの悲しみを感じ取れる人間だったとしたら。

吉井とも、優しい恋ができたんだろうか。
彼を怒らせないで済んだんだろうか。
彼に―――――、彼をちゃんと『好き』なんだと伝えられたんだろうか。



ねぇ、吉井。
俺たち、もう遅いの?
もう一度、チャンスってあるの?
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