英昭を問題のタクシーに乗せるべく、出かける支度を始めたのは、 翌日の午後4時過ぎのことだった。 今日はおうちに帰るんだよって言い聞かせた俺の言葉を、素直にそのまま受け取って、英昭は俺とヒーセも一緒に家に来るものだとばかり思ってはしゃいでる。 おうちに帰ったら僕の宝箱を見せてあげる、とか、そんなこと言ってるのが、 なんだかちょっと可哀想。 見なくても知ってるけどね、その宝箱。 高校生になるときに、流石に捨てたガラクタ入れでしょ。確か、羊羹の空き箱。 あの中身で、今も持ってるものって、一つだけだよ。 そして、それを子供の英昭が俺たちに見せてくれることは出来ない。 だって、彼は一人でタクシーに乗らなきゃいけないんだ。 母親は、「俺は一人でタクシーに乗って帰ってきた」って言ってた。 だから、きっと俺たちはどこか外で彼を一人にしてしまうんだ。 どんなに心細いだろう。 それを思うとたまらない。 俺にとって5歳の英昭は、すっかり過去の自分ではなく、別の子供のような気がしてる。 そんなことばっかり考えて、誤魔化そう誤魔化そうとしている俺に呆れて、ヒーセが言った。 「ヒデ坊、おいで」 家から出てきたときの服装に戻った英昭が、何の疑いもなくヒーセに向き合う。 「なに?」 「あのな、ヒデ坊。オイラの言うこと、ちゃんと聞くんだぞ」 「うん」 え?まさか、ここで言っちゃうの? そんなの不安にさせるだけじゃん。英昭、泣いてしまうかもしれない・・・。 「家には、ひとりで帰るんだ」 「え?」 「車のトコまでは送ってやる。俺とエマとは、そこでお別れだ」 案の定、英昭はびっくり眼を見開いて、あっという間にそこに涙を湛えさせた。 「そんなの・・・やだっ」 「お母さんのトコに帰りたいだろ?」 「やだっ!ヒーセも、エマもいっしょに行こう?」 「それはできないんだよ」 英昭は、それからたっぷり30分近く、散々泣き喚いた。俺はそんなふうに泣く子供に慣れていないから、ついうろたえてしまって、その身体を抱きしめてやろうとしてしまうのを、ヒーセが制した。 こいつは自分で納得しなきゃいけいないんだ、と、その仕草が教えてくれた。 抱きしめてあやしてやるのは簡単。 でも、それで泣き止んだとしても、それは一時的な感情の誤魔化し。 この奇妙な経験を、子供の頃の俺にとって、確かな成長のステップにするためには、そんな曖昧な対峙ではいけない。 声を上げて泣く英昭を、自分こそ辛そうに眉を顰めながら見守るヒーセ。 ヒーセは、俺にだけこっそり言った。 「ここできちんと成長できたから、今のお前があるんだな」 そのヒーセの目は、温かくて優しくて、俺はなんだか暖かい涙が出そうになった。 そうか。 俺は昔から、強い人間だとよく言われてきた。 どんな時でも自分のポリシーを曲げることなく生きてきた自覚がある。 大変なことにも、辛いことにも、自分が納得する答えを見つけなきゃいけないと思いつつけてきた。 そんな俺の人格形成の根本には、このときの経験が生かされていたのかもしれない。 たったひとつ、なかなかそれができなかったことがあるけど。 そう・・・吉井のことに関してだけは、俺はとことんダメな人間になる。 ・・・そういえば、なんかうっすらと…こんな記憶があるような。 泣いてる俺を、他の人間のようにあやそうとかしてくれることなく、ただ見守ってくれてる人の前で泣き喚いたことがあったような気がする。 それまでは俺、一人っ子で、自分で言うのも何だけど、我慢ってしたことなくて。 周囲に大事に大事にされて、泣けばいつでも物事は俺が思うようになったから、生まれて初めて泣いても泣いてもそれが叶わなかったショックって気持ち、確かに覚えてる。 俺の曖昧な記憶の中では、そうやって俺を泣かせたのは、お父さんだとばかり思ってたけど・・・ ・・・・・・ヒーセだったんだ。 |
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ともすれば、酷い記憶になりそうなこんな経験を、 俺にとって貴重なものにしてくれたのは、ヒーセだったんだね。 それで、なんだろうか。 ヒーセと初めて会ったとき、 やたらノスタルジックな気持ちになったな。 すぐに仲良しになって、ヒーセには昔から何でも話せて、甘えてきた。 だからヒーセだけはいつも知ってる。 俺が吉井に対してだけ、ダメな人間になることも、 多分・・・俺の本当の気持ちも。 「…ヒーセが、俺のお父さんだったんだ・・・」 ぽつんと漏らした呟きに、 照れたように笑ってヒーセは俺の髪をくしゃくしゃと掻き回した。 吉井との関係に転機が訪れようという、こんなタイミングで、こんな事件が起こったということは、もしかしたら神様が俺に「もう一度成長せよ」とチャンスを与えてくれたってことなのかな。 俺がまだ『エマ』になる前、ただの『英昭』だった頃に、大きく成長できた時のように。 |
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やがて、リビングに差し込む光がだんだんとほの暗くなっていく頃、英昭の嗚咽は小さくなった。 諦めたように肩を落として。 そうだ。 別れる前に、これだけは言っておかなきゃ。 「英昭」 呼ぶと、涙と鼻水でくしゃくしゃの顔の子供は、この3日間で初めて見せた意思の強い瞳で俺を見上げた。 「英昭、帰ったらね、ちゃんとお父さんとお母さんに笑顔を見せてあげるんだよ」 「・・・・・・・・・んっ」 しゃくりあげながらも、きちんと返事を返す。 ああ・・・。本当に、これが成長に繋がったんだね。 「それでね、英二を可愛がってあげるんだよ」 「・・・・・・・・・」 ふふ。これについてはまだ葛藤があるか。でもね。 「そうすれば、お前はいつか自分が存在するのに、一番相応しい場所を見つけられるよ」 「そんざい・・・?」 「まだ、難しいことは判らなくていいよ。とにかく、英二は大事にしてやりな」 「・・・はい」 そうだ。あと、コレ。言っとかなきゃ、俺のことだから再び家出しかねない。 「それから、もうここに来ちゃいけないよ」 英昭は、また再び表情を曇らせた。だけど・・・。 「ここに来たことは忘れて、いい男になるんだよ。 そうしたらきっと、お前はまたヒーセに会えるよ。もっと大人になってからね。 それで、今度はもうこんなふうに別れなくていいから、安心していいんだよ。 ヒーセも英二も、ずうっとお前の傍にいる。 それに、もう一人。お前にとって一番大切な人にも出会える。 その人のために、お前はたくさん悩むけど、でも――――――」 その一番大事な人を、愛してると思うようになるから。 どうしようもないあんな子供みたいな男だけど、大好きでたまらなくなるから。 「とにかく。次にヒーセと出会った後は、もうずっと4人一緒だからね」 よく判らない顔をして俺の出した名前を反復し、指折り数えた英昭は、ふと小首を傾げた。 「・・・・・・・・・えま、は?」 「俺は・・・・・・・・・」 ど、どうしよう。 会える、とは言わないのかな。 だって、お前は俺だし、一緒に遊ぶのはもう無理だし・・・。 「会えるよ」 思わず口を噤んでしまった俺の横から、ヒーセが言った。 「大丈夫。会える。またこうやって3人で遊べるぞ」 え? ・・・・・・・・・・・・あ、そうか。 ヒーセの悪戯っぽい表情で判った。 大きくなって、イエローモンキーを作って、悩んで、恋をして・・・。 そして小さい『英昭』にとって、30年後の一昨日、俺たちはまた再会するんだ。 今度は大人の『エマ』として。 「そうだ、英昭。お守りあげる」 「おまもり?」 「そう。お守り」 ふと思い出したそれを、財布から取り出した。 コレだ! これ、このとき、大人の自分に貰ったものだったんだ! 小さいときから、俺の秘密の宝箱に、ビー玉とかと一緒に入ってた、謎の物体。 中学生のとき、それがギターのピックだって判って、あの宝箱を捨てる決心をした15歳の春にも、コレだけは捨てずに持ってたんだ。 何故子供の頃からこんなものを持ってたのか判らないけど、ギターを選んだ俺が、何故かそれを持ってたことが、運命的な気がして、肌身離さず持ち歩いてた、今日まで。 |
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そういえば、このピックは・・・。 「いちご・・・?」 掌に乗せてやったピックは、真っ白で、真ん中に小さく、何故か苺が描かれている。 俺の、ショートケーキへのこだわりの原因、その1。 「それは魔法のピック。大事にするんだよ」 漸く笑った英昭と手を繋いで、玄関に向かった。 さあ、おうちに帰ろう。 タクシーに乗って、おうちに帰ろう。 そして、幸せに大きくなりなさい。 |
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