別れが、すぐ傍まで来ていることは判ってた。 でもまさか、部屋を出てこんなにすぐに別れることになるとは思わなかったんだ。 「あれ?待って、鍵が無い!」 こんな大事なときに、間抜けな俺は部屋の中に鍵を忘れてきた。 ヒーセと英昭を外に待たせて、俺は再び部屋へ。 さっきまで子供がいた部屋は、一人で入ると、嫌にがらんとして見えた。 「…っと、まだ感傷的になってる場合じゃないな」 リビングのテーブルに置きっぱなしになってた鍵を掴んで、慌てて玄関に向かう。 待たせたらまた怒られてしまうじゃん。・・・ヒーセにね。 それに、せめてもうちょっとだけ、子供の英昭と別れを惜しみたいじゃん。 さっき英昭に言い聞かせた言葉を、本当は今の俺にこそ刻み付ける為に。 でも。 もう、二度と俺が英昭と言葉を交わすことは無かった。 ドアを開けた先には、ヒーセの姿も英昭の姿も無くて。 「・・・・・・・・・・・・・・・・・どっか行くの?」 そこに立っていたのは。 「・・・・・・なん、で・・・。ロンドンじゃ・・・・・・?」 連日俺がうなされるほど、会いたかった人。 「会いたくて」 すらっとした長身を、猫背気味に縮めた、拗ねた口調の。 「吉井・・・・・・・・・・・・」 |
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はっきり言って、その瞬間、俺の頭から全てのことが飛んでいった。 英昭をタクシーに乗せなきゃいけないこととか、 ヒーセも多分すぐ傍にいるであろうこととか。 確かに離れてた数日で、 自分の気持ちを自覚したことは認めるけど、 ここまで何もかもすっ飛んでしまうとは思いもしてなかった。 「吉井・・・・・・・・・吉井っ・・・!」 |
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だって、半ば諦めかけていた。 原因はくだらないことではあったけど、連絡ひとつくれなかったリアルは、あまりにも俺に痛くて。 今度は俺から頑張らなくちゃ、もう戻れないと思ってたくらいだったから。 初めて、自分から吉井に抱きついた。 背の高い吉井の首に腕を回して、ぎゅっとしがみついた。 「エ、マ・・・?」 面食らったような吉井の声が、すぐ傍にある。 「好き・・・・・・」 この感情が、激しく熱を帯びているうちに、もう一度迷ってしまう前に、伝えたいと思ったから。 「吉井が、好き・・・」 俺の告白に、吉井の腕が俺の背中に回された。 途端、『どさっ』という、鈍い音。 「・・・・・・・・・?」 「あ・・・あああああっ・・・!」 それに気付いて、吉井が素っ頓狂な声を上げた。 「え?」 そこには。 足元には。 落とされて、衝撃で箱が開いてしまって、更に無残に崩れた小さなホールのケーキが。 真っ白な、苺のショートケーキ。 「・・・・・・・・・・・・あ」 ふわふわの生クリーム。 苺だけが乗った、鮮やかなコントラスト。 「もう、せっかくやり直しの1周年記念をやろうと思って買ってきたのに〜・・・」 可哀想なことになってしまったケーキの箱を拾うべくしゃがみこみながら、まさかエマにフェイントかまされるなんて!と、すこし苦笑気味の吉井に、俺は笑い出す。 「お前、最高」 崩れたケーキは、幸いにも箱から飛び出すことは無かったから、ドレープの見る影もないクリームを指に掬って、口に含んだ。 「大丈夫。無事」 「エマ・・・」 甘い。 やわらかい。 愛しい。 優しいその味は、昔から憧れてた理想そのもので。 俺は確かに笑っているのに、涙が出た。 「あのさ・・・。ごめん。この間」 俺より先に、吉井が謝った。 「くだらないことで勝手に拗ねて。 エマが俺を受け入れてくれてから、1年経って・・・でも、エマはいつも俺に距離を置いてるみたいに見えて、不安だったんだ」 今日も、ここで会うまで不安だったと吉井は言う。 「でもさっき、エマ、俺の顔見てすぐ・・・・・・」 会いたかったと、その表情に表れていた。 抱きついて、好きだと告げた。 全部全部、杞憂だった。吉井が悩んでいたことも、俺が悩んでいたことも。 玄関前に二人してしゃがみこんだまま、俺はもう一度ケーキを指で掬って吉井の口元に運んだ。 俺の目を見つめながら、吉井はそれを受けて、齧ったクリームまみれの苺の半分を咥えたまま、俺にキスをした。 唇から唇へ、はんぶんこの苺。 微かな温度が、相手の存在を思わせる。 そのまま抱きしめられて、やっと安心して、俺は吉井の肩に顔を乗せた。 ――――――――――・・・え? そのままの姿勢で、ふと目を開けて・・・・・・・びっくりした。 英昭! もう階下に降りたんだとばかり思っていた(というか、すっかり忘れてた)英昭が、そんな俺たちをエレベーター前の壁の影から、じっと見ていたから。 嘘。 なんてもん見せてしまったんだ、俺は! まさかずっと見てた? うわ、どうしよう。とんでもない幼児体験だよ・・・・・・・・・。 咄嗟に吉井から離れようとしたけれど、それは英昭の隣のヒーセに制された。 こっちのことは心配すんな。 ガキのオメェはオイラがちゃんと連れてってやるよ。 ヒーセが、そんなふうに言ったような気がした。 でも開いた口は、声を出さずに「ばーか」と言った。 「今度、ちゃんとお礼言わなきゃ・・・・・・」 思わず呟いた俺に、吉井が 「何が?」 と聞き返す。 「何でもない。部屋、入ろ?」 「え?でもエマ、出かけるんじゃなかったの?」 「そんな気なくなった」 「いいの?」 「いいの。それより・・・・・・」 「何?」 「それより、お前と抱き合いたいよ」 「そうだね。すぐ・・・・・・・・・・・えっ?」 「何だよ」 「抱き合いたい・・・・・・?」 「悪い?」 「・・・・・・エマにそんなこと言われる日がくるなんて・・・・」 くだらないことを言いながら、結局出ていかないで玄関のドアを再び開ける。 いいんだよ、これで。 きっと英昭を車に乗せた『髪の長い男』っていうのは、ヒーセのことだったんだ。 だから何も心配する必要はない。 英昭はきちんと30年前の世界に帰って、大人になる準備を始めるんだ。 いつか、この男と出会うために。 今の俺は、今の『一番大事なこと』を優先すればいい。 今一番大事なのは、やっと繋がったこの気持ちに素直になること。 こうやって吉井と、くだらない睦みあいをすること。 それは、他の人間から見たら、とても向こう見ずで子供っぽいことかもしれないけれど、それこそが『大人になった』俺の覚悟なんだ。 「吉井がしたくないんなら、別にいい」 「したいです!させてください!この通り!」 「土下座すんなよ・・・」 「だってエマが『やっぱりやめた』とか言ったら・・・」 「あはは、言わないってば」 そんなこと言わない。 俺が言うのは 「やめたなんて言わないから、安心して、めちゃくちゃ抱いてよ」 耳元での、甘ったるい囁き。 吉井は喉の奥で照れたように笑って、俺を抱き上げた。 この腕は。 胸は。 身体は。 心は。 全部、俺のもの。 何度もお互いに果てながら、それでも飽きずに身体を重ねる。 「エマ、なんか今日、すごい積極的だね」 吉井の汗が俺の頬を濡らす。 「痕跡を消そうと思って」 「何の?」 「―――――・・・サラの」 「え?」 「寝たんでしょ?サラと」 「・・・・・・・・・えっ・・・・・・」 狼狽が肯定する、その事実を責めようとは思わない。 もし俺が吉井だったら、やっぱりそうしたかもしれない。 いいんだ。 俺のところに帰ってきたから、もういいんだ。 苛立ちを他の肌で宥めようとして、失敗するのは、なんだかとても俺たちらしいこと。 そんなことはどうでもいいんだよ。 「本気じゃないならね」 吉井は、それに対して、潔く言い訳しなかった。 「悪いとは思ってない」 「うん」 「あえて言うなら、サラに悪いと思うだけ」 「そうだね」 こんな遣り取りが肯定できるのは、多分俺たちだけ。 俺に対して悪いと思わない吉井の気持ちがわかるのは俺だけ。 俺がそれを許すのも、理解できるのは吉井だけ。 だから、それでいい。 許せなくなったらそう言えばいい。 そのときはそのとき、また二人で考えたらいいんだ。 そんなことを考えながら、それでも当分、 二人とも他の人間を抱くことはないんじゃないかな、と確信してる。 「愛してるよ、吉井」 「俺こそ・・・エマを愛してる」 甘いね。 馬鹿みたいだね。 なんかいいね。 こういうの、いいね。 |
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