vol.10 -LOVIN side- |
本当のエマに会いたい。 打ち消し続けたその感情は 日を追うごとに俺を裏切り、高まっていた。 言えない―――――そんなこと。 そんなことを、仮に無意識にでも口にしてしまえば エマはもうどこにも居場所がなくなってしまう。 それは・・・解っていたことだけれど。 エマが俺の横で笑っている。 それだけで充分だと思えたら、どんなに幸せだっただろう。 けれど、違うのだ。 俺はエマとそんなふうに生きたかったんじゃない。 何もかもを飲み込み合える最高のパートナー。 この世にたった数人しか居ない、同じスタンスに立てる共犯者。 そしてその上愛し合えたという奇跡―――-。 それをどうしても求めることを否定できなかった。 気がつけば、俺は最後に一緒に立ったステージのことばかり考えていた。 あの日、俺はとても調子ががよくて、 エマもそれに気付いていて・・・。 アンコールを待つバックステージで エマは俺にキスをくれた。 俺の大好きなギタリストの顔で。 エマ・・・・! 本当のエマ。 お前は俺をおいて、今どこにいる? ああ・・・俺はどういう人間なんだ。 エマを最初から追い詰めたのも こんな目にあわせたのも、 紛れも無い自分自身だというのに―――――――――!! 隣で眠るエマを見るのが、苦しくなり始めた夜、 俺は「ちょっと仕事」と伝えて初めて外泊をした。 エマから・・・現実から逃げたことを、認めないわけにはいかなかった。 朝が来て、俺はエマに会いたい気持ちが高まっているのに安心した。 それは、「そのこと」に気付く最初の信号だった。 けれどまだ俺はそれを知らないで、エマの待つ部屋に戻った。 エマはいつものように待っていた。 俺は抱きしめた。 苛立っていた波は収まっていた。 数日後に、再び同じ衝動に襲われるまで。 最初の波ほどに強くは無いものの、その衝動は何度も俺を襲った。 そして、あの朝・・・・。 俺は「そのこと」に気付いた。 今のエマと共にあることを望んでいない自分を。 寒気がした。 それは、心変わりとかそういう問題ではなく、恐怖からのものだった。 目覚めてぼんやりした頭で、一生このままエマを閉じ込めておくことを想像した。 それは、何故かある種魅力的なアイデアでもあった。 エマが記憶をなくすずっと前から、 いつかこの関係が終わってしまうことに怯えていた俺にとって。 けれどそれはギタリストとしてのエマの死を意味する。 そのとき俺はどうするんだろうか? バンドを―――音楽を辞めるのか? それとも新しいギタリストを探すのだろうか。 そして新しいパートナーを見つけて・・・・・・・・・・? 思わず悲鳴が漏れそうになった。 俺は自分がとってしまった選択を遂に後悔した。 だめだ。 だめだ。 これは、この日常は間違っている。 こんなエマは―――-こんな俺は間違っている! エマが目覚める前に部屋を出た。 今顔を会わせたら、何も知らないエマに何を言ってしまうか解らなかったから。 その日をどうやって過ごしたのか覚えていない。 気が付けば再び朝を迎え、俺は知らない部屋にいた。 すっかり止めたはずの酒の匂いが俺の体から漂っていて ガンガンするほど頭が痛い。 久々のアルコールは、相当に俺にダメージを与えたようだった。 「あら?目が醒めたの?」 ドアが開いて、一人の女が現れた。 長い髪の、綺麗な女。 それは、随分昔に愛した女だった。 でも、名前はもう――――どうしても思い出せなかった。 「なんで?」 朦朧とした頭で聞く。 彼女は水を差し出しながら答えた。 「拾ったのよ。昨夜。 死にそうな顔で呑んでるとこをね。 有名人がすぐそこにいるってのに、誰も気付いてなかったわよ」 「ふうん・・・」 「一人で歩ける状態じゃなかったし、 今のあなたの連絡先なんて知らないし・・・ それにあなたが『帰れない』なんて言ったから連れてきたの」 「・・・結婚、したんじゃなかったっけ?」 「したわよ。2年ほど前に別れたけど。って、昨夜も言ったのよ?」 「・・・そっか」 なんだか俺は、久しぶりに気負いが取れているのを感じた。 ずっと無意識の内に全身に力を込めて生きていたことを思い知った。 それは、まだ何も無かった頃―――-地位も、名声もなにも無かった頃の相手と 共にいるからだったのだろう。 「ねえ、俺ゆうべなんかした?」 全裸で寝ていることで、ずっと気になっていたそのことを確認する。 「ええ。したわよ。そうね・・・10年ぶりくらい?」 くすくす笑いながら彼女は事も無げに答えた。 その屈託なさがふとエマを思い出させて苦しくなった。 「でも安心して。何も期待してないわ」 と、彼女は言った。 「ねえ、エマって今のギターの彼よね」 不意に出たその名前に、ぎょっとする。 咄嗟にマンションに残してきたエマに何かあったのかと思った。 行方不明が公になったとか――――まさか、絶望したエマが自・・・――――!! 俺の只ならぬ表情に女がぎょっとして背を撫でてきた。 「な・・・に?なにか・・・あったの? あたしはただ、昨夜・・・あなたがその名前ばかり呼んでたから・・・」 「・・・・――――あ…」 なにも、起こっていなかった・・・。 一瞬で冷たい汗が流れていたのを感じる。 俺の安堵の表情に、彼女も安心したようだった。 暫くの沈黙の間、俺は結局エマのことばかり考えていた。 でもそれは、ずっと俺を襲いつづけた波ではなく、エマの笑顔とか寝顔だった。 記憶を失う前のエマも、現在のエマも。 「恋人?」 静かに彼女が質問する。 俺はちょっと不思議な感覚でそれをきいた。 彼女は昔、男にべったりで、けれど同性間の恋愛なんて思いもしないような女だったから。 完全に差別意識を持っていた彼女は、俺との価値観はあまり合うことなく、 結局それが別れの原因になったのだった。 けれど、今の彼女の目に見慣れた嘲りの色は無かった。 少し躊躇ったが、俺は「そうだ」と答えた。 躊躇ったのは、あの波の所為ではなかった。 今もまだ「エマの恋人」だと言い切れる自身がなかったからだった。 彼女は何も言わなかった。 それで、ふわりと俺を抱きしめた。 そこには情欲の色は微塵もなく、まるで肉親に包まれたような感覚だけがあった。 ずいぶん長い間、俺たちはそうしていた。 痛いままの心臓は、思う存分血を流す手段をとって、俺を泣かせた。 いつまでもここにいるわけには行かない。 甘えてしまうには、彼女は優しすぎた。 「カズヤ・・・愛情ってね、変質してもいいのよ」 「え?」 部屋を出ようと靴を履きかけてから、見送りに来た彼女が言い出した。 「愛情はね、変わってしまうの。それは止められないの。 出会ったときの感情のままでは、相手の全てを受け止められないのよ。 ・・・ねえ・・・知り合ったときって、お互いの共通点とか見つけると、凄く嬉しくて 2・3個もそれがあれば、『凄く合ってる』って錯覚するでしょう? でも普通、共通点なんて誰とでも2・3個はあって、そのときのテンションが合えば ―――いい?テンションよ。・・・そうしたら簡単に恋愛になっちゃえるわ。 でも、幸せにも永く愛することができて、共通項が多くなれればなれるほど、 今度は少しの差異に違和感を感じて・・・ときどき許せなかったりするのよね・・・」 何を言い始めたのか、最初はわからなかったけれど、 聞いてるうちに、『そんな簡単な問題じゃないんだ』という反発が俺を満たしてきた。 彼女が訳知り顔に、まるで普通の恋愛のトラブルを語っているかに見えたから。 そんな俺の気持ちは、きっと表情にも出ていただろうに それでも彼女は構わず続けた。 「いろんな原因があって、いろんな状況が絡んで、 事態はいつも複雑になっちゃうんだけど、結局すれ違いってそういうところから始まるじゃない。 そこに新しい興味の対象―――新しい恋愛候補とかね。そういうのが現れると、 心変わりだって簡単なものだわ。 でもそれは、相手の変化を認めないからよね」 「心変わりの?」 「ううん。相手の気持ちの変質よ。 恋の始まりかけなんて、そのときはまだ自分に酔ってることが多いわ。 少なくとも、あたしはそう。 お互いにドキドキしてて、新鮮で・・・でも、いつか相手の知らない部分は消えていくの。 知ってしまったことに対するドキドキは、回数を重ねれば薄れてしまうわ。 ・・・だから・・・それじゃダメなのよ。 勿論、ドキドキしてる時間は永いほうがいいわ。 でも、いつまでもそうだと、相手の中が見えないわ。 ――――カズヤと彼になにがあったのかは知らないわよ? でもカズヤは・・・今のカズヤは、『相手が見えない』からって興味を失うよりは 相手の中身が見えないことに怖くなっちゃうんじゃない? 自分の気持ちの変質・・・相手の変わってしまったかもしれないこと それを消化できないでね」 「そんなふうに・・・そんな状況っぽい顔してる?俺?」 俺の気持ちは変わってしまったんだろうか? それも、悪い意味に? でもそれを許せ、と・・・彼女は言っているというのか? 「もうちょっと深刻そうだけど。 あのね。恋愛感情が消えるとか、そういう類のことじゃないのよ。 カズヤ・・・あのね。 自分に酔った状態は、相手を苦しめるの。 相手が愛情の段階を、一段階上げた場合はね。 あなたも彼も――――お互いに苦しんでるように見えるわ」 「なんか、知ってる?」 微妙に的を得てしまう彼女の話に、俺は少し訝しんだ。 「一晩中『エマごめん』『エマ愛してる』『エマ側にいて』って囁かれたら 誰でも何かあったと思うわ。・・・あなたたちの関係もね。 そのときね、あなた『変わらないで』って言ってたの」 「・・・」 ときどき不可解だが、彼女の話は妙に心臓にきていた。 俺には今、「許す」という声が必要なように思えた。 何に許しを乞えばいいのか、それは解らなかったけれど、 俺は彼女にそれを求めた。 何もかもを打ち明けてしまいたい、と・・・。 俺は覚悟を決めると、 全てを彼女に打ち明けた。 立ったまま、長い話を疲れるだろうに、彼女は何も言わずに聞いてくれた。 俺は話しながら、嗚咽を堪えきれなかった。 俺の迷いも、エマへの苛立ちも、何もかも流してしまいたかった。 俺が泣き止むのを、彼女は待った。 静けさに、だんだんと嗚咽が収まる。 顔をあげたとき、 彼女は今まで見たことの無い、慈愛に満ちた顔をしていた。 「後悔はね、何をやってもするのよ。 あたし、あなたと別れたとき、あなたのこと大っ嫌いだったけど 後悔したわ。 でも、10年経ってこうやって向き合って―――― 自分勝手で思想ばっかりご立派で、 ただの嫌な奴だったあなたが、 中身ごとイイ男になったのを見たら あの時あなたを愛して良かったと思えたわ。 大切にしてね・・・エマさんのこと。 あなたが苦しんでるのは、エマさんを見捨てそうだからじゃなくて エマさんを愛しているからよ。 愛情はね、相手の変化を認めることでもあるけど 相手を変化させることもできるのよ。 眠ってるあなたの恋人を起こしてあげられない? あたしは・・・それができなかったから あなたともダメになったし・・・家庭も上手くつくれなかったの 今あなたが逃げちゃったら、エマさんは二度と目覚められないし、 あなたにとっても―――― そんな奇跡みたいな恋・・・そんな『本当の相手』に 二度と巡りあえるわけないじゃない」 「・・・・」 アーティストとしても、恋としても・・・ という彼女の言葉は、結局俺が欲していた言葉だった。 この日、彼女に出会えたことを、 俺は心の底から感謝していた。 それは、この先にやってくるとは このときはまだ知らなかった 更なる絶望を迎えたときに本当に身に沁みることになる。 その夜、俺は一晩中小さなライブハウスにいた。 昔とあんまり変わってないそのステージには 十数年前の俺たちが、空の自信を振りかざして歌っていた。 名前も知らないそのバンドは、演奏は下手くそだったけどキラキラ輝いていて 一瞬だけ見事に綺麗にあったフィーリングに、 ヴォーカリストとギタリストがふと視線を交わして 能面皮の表情の下で隠し切れない満足を浮かべた。 逃げてはならない現実と、 つい最近まで手元にあったそれと、 失ってしまった青さへの郷愁に、俺は静かに涙を零す。 夜明け。 一つの決心が俺を動かした。 朝を待って社長に連絡をとり、勢いのままに全てを打ち明けた。 顔色を変えた社長の二の句を待たずに 俺は決心を口にする。 「かならずエマを一流のギタリストに戻します。 時間をください。 このことは公表は絶対にしないで 暫く二人だけでいさせてください。 俺にはエマ以上に愛せるギタリストはいないから」 決心は、それでもまだ自分にも言い聞かせていた。 もしかしたら全てを悟っていたかもしれないけれど 社長は静かに「解った。お前に任せる」と言った。 道が険しいであろうことは考えるまでもなかった。 けれど理解を得たことで 俺は随分と肩の力が抜けた。 逃げてはいけない。 ――――-逃げなくてもいいんだ。 痛すぎた心臓の穴が、自分の決心で癒されるのを抱えながら きっと戻らない俺を想って苦しんでいるであろうエマの元に急いだ。 そこに、エマの長い年月を含んだ苦悩があったことなど 俺はまだ想像もしないまま俺はドアを開けた。 後になってみれば些細なことにすぎなかった誤解がきっかけで 更に深い苦悩を招き入れることも知らずに。 |
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