VOL.11 -EMMA side- 

『兄貴?兄貴!?』
携帯から、英二の喚く声だけが響いた。
吉井は怪訝な顔で携帯を見つめている。

もしかしたら、普通に「電話をかけたんだ」といえば
何でもなかったことなのかもしれない。
そして、それは本当のことを打ち明ける絶好の機会だったのかもしれない。

ただ
そのときはそんなことを思いつけなかった。
嘘をついているという後ろめたさが
何もかもを歪にさせていた。

やがて吉井は黙ったまま
電話を俺に差し出した。
こわばった手で、でも俺はそれを受け取ってしまった。

「・・・もしもし・・・」
「あ、兄貴?兄貴なんだな?」
「・・・」
「どこにいるんだよ!ずっと連絡もしないで」
英二はまだ、何も聞かされていない様子だった。

俺は何か言葉を紡ごうとしたが、
吉井の視線が気になって、どうしても声が出ない。

いたたまれず、
何か喚きつづける英二の声を遮り、
俺は電話を切った。


薄暗い部屋に沈黙が落ちる。

何か、何か言わなければ――――――

言葉がみつからないまま口を開きかけたとき
再びコール音が響いた。

その音が合図になったように、吉井はベッドルームから出ていってしまった。
俺は、鳴りつづける電話をベッドに投げ出すと
慌てて吉井の後を追った。
このままだと、吉井が遠くに行ってしまうような気がして。


「吉井・・・」
リビングで紫煙をくゆらせていた吉井は、
まるで何でもないように振り返った。
「取らなかったの?」
「え?」
「電話」
「・・・・・・」
「俺がいると話しづらいでしょ?」
「・・・え?」
「エマさんがアニーに電話かけたのはすぐわかったよ。
 携帯ひっぱりだして、でも俺にかけられなくて
 アニー・・・英二にかけたんでしょ?」
「・・・・・・うん・・・」
話してしまうつもりでいた―――-その決心が鈍る。
吉井の視線が冷たくなかったから。
嫌われたくない、と――――。
感じ慣れない感覚が俺をよぎっていった。

「名字おなじだし、そりゃかけちゃうよね」
けれど吉井から出た言葉は、俺の想像していた展開を裏切っていた。
「アニーはエマさんの弟だよ。
 覚えてないから仕方ないけど、さっきのがアニー。
 切っちゃったから、きっと心配してるよ」

吉井は俺の態度を見事に誤解していた。
―――-そうか・・・。そういう取り方―――――。
全身の緊張が一気に抜けた。
それと同時に安堵感がこみあげ、吉井に擦り寄って抱きついた。

「怖がっちゃだめだよ、エマさん。
 少しづつ思い出していこうね。俺がずっとついてるから」
今までとは少し違う、もっと優しい仕草で吉井が髪をなでてくれた。

もう少し・・・
もう少しだけ、この時間が欲しい・・・。

俺のその甘えた気持ちが、再び打ち明けるチャンスを凍らせた。

背中に、冷や汗が流れている。
自分で首に巻きつけたロープは、やわやわと俺を消耗させ始めた。





その夜、俺は再び夢にうなされた。


夢は暗いバックステージで始まる。
そう。あの、事故の夜のライブ。
聞きなれた客席のざわめきが漏れていた。

ああ、何もかも幻だったのだ、と安心して
俺はその音に浸る。

これからこのステージに立って、大好きなギターを思いっきり弾けるんだ。
なんだか随分永い間、その快感を手放していたような気がする。
・・・無理もない。
俺は、悪い夢をずっと見ていたんだ。

ふと、背後に吉井の香りを感じた。

「愛してるよ、エマさん」

囁く声。泣きたいほどの幸福感がこみ上げる。

吉井、俺ずっと悪い夢を見てたんだ。
素直になれないままお前を傷つけて、自分も傷ついて
それでそのままお前に嘘をつきつづけなければならなかった
本当に辛い夢だったんだ。
夢の中でお前は優しくて、俺たちはずっと二人でいて
――――――幸せなんだけど・・・それだけに本当に辛かったんだ。

「アイシテイル」と告げさせて。
俺がずっと抱えてきた、本当はずっと伝えたかった言葉を・・・

胸元の、小さなコインのペンダントを握り締め、
俺はゆっくりと振り返る。


受け止めてくれるはずの優しい微笑みは、俺の方を向いてはいなかった。

吉井の傍らには、もう一人の俺。
『記憶を失っていない、本当のエマ』が、吉井の隣で笑っていた。

ステージライト。
湧き上がる歓声。

『ロビン』と『エマ』がその明るい世界に踏み出していく。
俺をおいて。

――――いやだ!そこは・・・吉井の左は『俺』がいる場所なんだ!

俺はあわててギターを握る。
けれど弾こうにも、そのギターには弦が張っていない。
何度張っても、握るとそこに弦はない。

弦がないから、ステージに行けない。
記憶がないから、吉井の隣にいられない――――――――――――! 




汗だくで目が醒めた。
弦のないネックを押さえた奇妙な感触が指に残っていた。


「おはよう」
夢の中で焦がれた優しい笑みに我に返る。
「・・・あ・・・うん・・・」
「朝の挨拶に『うん』はないでしょう。まだ寝ぼけてんのかな?」
くすくす笑いながら、優しいキス。

―――――――――痛い。

今まで甘く受け止めていたそういう吉井の仕草が、不思議なほど俺をしめつけた。



退路は確実に断たれていった。



なんで俺はこうなんだろう。
昨夜あんなに強く決心したのに。
もう嘘もつきたくないし、一緒にステージに立ちたいのに、
話そうとすればするほど、声が喉で凍り付いて、真実も気持ちも言えなくなる。

けれど、俺には、このまま吉井を騙しつづける覚悟すらもできそうになかった。


答えは一つしかなかった。


ドアを開けると、リビングのコンポから
小さく『this is for you』が流れていた。
一緒に暮らし始めてから、俺たちの曲を聞くのは初めてだった。
俺は勿論避けていたし、吉井も何故か聞こうとしなかったから。


  冷静なポーカーフェイスの my sweet darling・・・

俺が吉井の元にはじめて持っていった
大切な、大切な曲。
恋が始まる前の、密やかな感情のざわめきの中で作った曲。
吉井が詞を乗せて、この曲を歌ったとき
思えばあれが、吉井に対する気持ちの揺れの最初だった。


知らず知らずに、指がコードを押さえる仕草をする。
コーヒーを淹れて戻ってきた吉井に見られているのに気付いたのは
ちょうど最後のフレーズ。

吉井は驚愕と喜びの入り混じったような表情で俺を見つめていた。
俺はライブのときのようにゆっくりと吉井に近寄って小声で歌った。

上の空で、それでも吉井が合わせてくれる。
・・・・・・この感じ・・・
忘れられない。ずっとずっと 何があっても。

「エマ、解るの?」
吉井が囁く。俺は何も言わなかった。
何も、言えなかった。

ギリギリのところで、迷いが拭えない。
それはこの関係・・・この生活への惜別では、勿論ありえない。

いいじゃん・・・なにも言わなくたって・・・

感情が後から後から溢れてきて、
俺はもう流れてくる涙を止められなかった。

「わかるんだね、エマ。そうでしょう?」
吉井は確かめたがる。
あたりまえだね。確かめたいよね。

でも、俺には何も言ってあげられないんだ・・・。
本当はこれまでも、何回も言おうとしたけど、

あのとき・・・
昨夜、もうダメかもしれないと覚悟したけれど
お前が帰ってきてくれたとき、あれが一番言葉の出そうな瞬間だった。
――――けれど、英二からの電話で、俺が嘘をついているという現実を
まざまざと思い知らされてしまった。

そして、
こんな俺を罵るべき吉井からは、これ以上もなく優しい言葉――――

いや、勿論英二も吉井も何も悪くない。
俺が勝手に今の状況を選択しつづけたんだ。

そして、嘘すらも、
もうつけなくなってしまった。

「エマ、エマ・・・何か言って・・・」
何も答えずに泣きつづける俺を、吉井が力いっぱい抱きしめてきた。
「吉井・・・・・・・・・・」
抱き返す。
告げられない真実のかわりに、全身でお前に触れよう。


二人分の涙が交じり合ったキスは
必要以上に濡れて切なかった。

歌のように、吉井の背中に爪を立てると、
もう吉井も何も聞かなかった。
まるで不必要なものを取り除くように
お互いのシャツを脱がせあっては、その瞬間すらも惜しんで唇を押し当てた。

それはこの部屋で何度も繰り返された光景だったけれど
感情はその頃とは180度も違っていた。
俺も、きっと吉井も。

悦楽を欲しがってしまうだけなら、本当は身体なんていらないし、
傷つけるしかできないなら、心だっていらない。

でもどうしても心は存在してしまって、
それは意思に関係なくお前に惹かれてしまう。
なのにこの歪な感情はお前に真実を告げられないから
俺ができるのは、お前を気持ちよくしてあげることだけ。
欲張りな感情は愛されたいと切望するのに、
「愛してる」と囁かれると
自分の嘘に苦しむから、言葉にするより抱きしめられたい・・・・。

「エマさん、入らせて・・・」
熱い吐息と共に、吉井を感じた。
「ん・・・あっ・・・」
声が洩れると、吉井は一層ふかく俺を抉った。
「―――-あ・・・もう・・・」
「感じる?・・・ねえ、エマ・・・俺を感じる?」
「・・・・・・かん・・・じ、る・・・・」
「俺も感じてるよ・・・エマだね・・・ああ・・・・エマ・・・・・・」
睦言は、触れたら血を吹きそうなほどに切い。

吉井のしたたり落ちる汗も、受け止めた思いの丈も。

「もっと・・・やめないで、吉井・・・・」
「ん?・・・大丈夫なの?」
「もっと、もっと欲しい・・・」

何も考えられないように。
――――――――――――――・・・・・・・・決して忘れないように。



何度果てても、
遂に二人とも気を失うように墜落してしまうまで
俺は吉井にせがみ続けた。
既に夜が訪れている。

リビングの軽い寒気に、俺は目覚め、
吉井がまだ眠っているのを確認すると
暖かい腕の中から抜け出した。
体中が痛くて、少し歩くのも辛いけれど。

音をたてないように注意しながらシャワーを浴びた。

ベッドルームで服を着る。
夏にここに来たまま篭りきりだったから
コートなんて持ってないから、吉井のを一枚取り出した。

ベッドのサイドテーブルに、作詞用のノートが出しっぱなしになっている。
俺は暫く考えたけど、丹念に言葉を選ぶことにした。

・・・・・・・・・・・・・・・綴りおわり、立ち上がる。
このベッドが、きっと一生で俺が一番好きなベッドだろうな。

今更の感傷。
・・・しっかりしろ。一生吉井を愛していたいんだろう?

リビングでは、吉井は変わらず静かな寝息を立てていた。
ゆっくりと側に寄る。

疲れさせちゃったね。ごめんね。
「・・・う・・・ん・・・エマ・・・」
気配に、吉井が身じろぎした。
俺は宥めるように髪を撫でてやる。
その手を吉井の手が包み込み、やがて安心したように再び眠りに落ちた。

――――――――吉井!

なんて愛しい・・・大切な吉井・・・。
二度と離れたくないと、切に切に願ったよ。

きっと俺、この世で一番、誰にも負けないくらいお前を・・・・・・・・・・・・

「・・・・・・愛してるよ・・・」

伝えたかった言葉は、漸く唇に登ったけれど。


振り切るように、俺は足元の鞄を抱えた。
鞄には、ベッドルームから持ち出した、吉井の香水を忘れないように。
それと、壁に立てかけたままのギターケースをひとつ。


いつか・・・この罪が全て許されることがあるのだろうか。
もしもその日がくるのなら。
そのときはもう一度お前に会いたい。

そのとき、もうお前が、俺を愛していなくてもかまわないから――――――。

けれど、それまでは。
俺が俺を許せるまでは・・・・・・・・・・・。



もう一度だけ、吉井の寝顔にキスをすると、
俺は虚構の楽園を後にした。


さようなら。
俺の恋人。

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